bad girl /迫田美古都(女子7番)

机の上に投げ出されたままの、黒い財布にそっと手を伸ばす。勿論、男物のそれは迫田美古都本人の物ではない。美古都の兄、真佐樹のものだ。
こうして兄の金を盗むのは、今に始まった事ではない。もう何回目か覚えていないくらい、美古都は盗みを繰り返していた。勿論、総額も覚えていない。いいかげん、気付かれてもいい頃だ。
――気付けよ、兄ちゃんのばかやろー。
美古都は溜め息を吐き、財布の中から紙幣を数枚抜き出した。一万円札、一枚。千円札、三枚。
銀行員のように手馴れた手付きで美古都はそれを数え、折り畳みながら部屋を出ようと踵を返す。返したところで、美古都は固まった。
立っていたのだ。開け放された部屋のドアに、真佐樹が。
「おう、美古都」
金縛りに遭ったように固まっている美古都に、真佐樹は軽く手を振りながら歩み寄り、多少ぎこちなかったが笑った。
バツが悪そうに下を向き、美古都は黙って手に握った紙幣を真佐樹の方へ向ける。
真佐樹は少し皺の寄った紙幣と美古都に視線を往復させ、それから言った。
「いいよ、金いるんだろ? 小遣いだと思って、使えよ」
その声に、皮肉や刺は混じっていない。穏やかで、優しい声だった。
美古都は驚いたように顔を上げかけたが、また下を向いた。
「…んだよ。なんだよ、それ。バカにしてんのかよ」
少し低い、押し殺したような声で美古都は言った。顔を上げ、鋭い目付きで真佐樹を睨む。
「ざけんじゃねぇよ、気付いてたんだろ? 妹にボランティアでもしてる気になってんのかよ!」
紙幣を床に投げ捨て、美古都は叫んだ。それでも何も言わず、ただ優しく微笑んだまま立っている真佐樹に美古都は更に苛立ち、机の上の財布を真佐樹に投げつける。
「怒ればいいじゃねぇかよ! なんで怒んねぇんだよ、怒れよ!!」
怒ってよ。なんでこんな事するんだって言って、怒ってよ。
ムチャクチャに怒って、殴り殺してくれてもいいよ。
あたしの方見て、怒って――
構ってよ、兄ちゃん。
記憶は、ほとんど無かった。ただ、手当たり次第物を投げ、気が付けば部屋は無茶苦茶だった。
美古都は肩で息を吐き、それでもまだ何も言わない真佐樹に吐き捨てるように言った。
「血が繋がってないから? あたしが本当の妹じゃないから、怒らないわけ?」
バカにすんな。美古都は一言叫び、早足で部屋を出、そのまま家を飛び出した。

夜だというのに街の明りは一向に消えない、駅前。行き交う人の影。携帯電話を耳に当てたまま早足で歩くサラリーマン、服もメイクも流行通りに完全武装した女子高生、幸せそうに手を繋いで歩く恋人達。
ぼーっとそれを眺め、美古都はデニムのショートパンツの後ろポケットから煙草とライターを引っ張り出して一本咥えた。シャッターを降ろした店の前に座り込み、壁に寄り掛かってライターで火を着ける。マルボロメンソールライトの煙が、無意味に苦く感じる。美古都は溜め息と同時に煙を吐いた。
いつもの溜まり場に行けば、きっと奈月か沙織、他にも違うクラスの仲間が沢山居るんだろう。でも、美古都は行く気にならなかった。友達のところに行けば、多分気が緩んで泣き出してしまう。そんな弱みは死んでも見せたくない。
「どうしたの、君?」
ふいに声をかけられて、美古都は顔を上げる。そこには40代くらいのサラリーマンが、営業でもしているかのような愛想笑いを浮かべて美古都の顔を覗き込んでいた。
「何?」
ふっ、と男の脂っぽい顔に煙草の煙を吹きつけ、美古都は言った。サラリーマンは顔の前で手を振ってそれを払い、それでもにこにこと愛想笑いを浮かべる。少し禿げた頭に噴き出す汗をハンカチで拭いながら、男は続けた。
「あ、オジサン、怪しい者じゃないよ? ただ、君が寂しそうだったから。オジサンと遊ばない?」
何、それ。援助っすか? 今時、だせーよ。
美古都は心の中で呟き、煙草をコンクリートの地面で揉み消す。
「安心して、変な事しないから。あ、名前、何?」
ふいに、真佐樹の顔が思い浮かぶ。「怪しいヤツには気をつけろよ。美古都、もう中三なんだから」。
バッカじゃね? あたしは兄ちゃんが思ってるような、純なオンナじゃねーんだよ。
気が変わり、美古都は口を開いた。
「のぞみ。希望の希って書いて、のぞみ」
そっか、いい名前だね。じゃあカラオケでも行こうか?
男の言葉に美古都は愛想良く頷き、街の明りの方へ歩き出す。

「希ちゃん、コーラでいい? 何歌う? モー娘。とか好き? オジサン、結構好きなんだよ」
美古都は男の毛深い手からコーラを受け取り、カラオケボックスの黄色い革張りのソファに座った。
「メンバーの中で誰が好き? オジサン、亜護加依ちゃんが好きだなー。希ちゃん、似てるよ」
「あたし、亜護ちゃん嫌い。津寺ちゃんの方が好き。名前一緒だし」
適当な事を言いながら(あたしが本当に好きなのは矢内麻里なんだよ)、美古都はコーラを開けて一口飲む。
そっかそっか、希ちゃんだもんね。男は脂ぎって光る額をハンカチで忙しなく拭きながら言う。美古都は大きく溜め息を吐き、呟いた。
「あーあ…楽しいコト、ないかなー」
ふいに、男の目がぎらっと光ったのに美古都は気付いた。妖しく、淫靡な光。
中学二年の夏に初めて売春をした時と同じだった。男の目の色が変わるのは、始まりの合図だ。
「じゃあ…オジサンと、楽しいコトしよっか」
黄色いオフショルダーのシャツから出た美古都の肩に、男の汗ばんだ毛深い手が触れる。
「お小遣い、くれる?」
美古都は薄く笑みを浮かべて言う。「今日、三万しか持ってないんだ」。男の荒い息遣いと共に聞こえる言葉に美古都はいいよ、と返し、シャツを捲り上げる。
とっとと、終わらせよう。終わったら多分、泣かずに奈月たちのトコに行ける。

鎖骨の辺りを気味の悪い音を立てて吸う男の少し禿げた頭を、美古都は毛虫でも見るかのような目で見下ろす。汗と脂とヘアワックスの入り混じった嫌な匂いに窒息しそうになりながら、美古都は目を閉じた。
シャツの中に入った男の手は、ブラを持ち上げて美古都の乳房を執拗に揉み、こねくり回している。
「希ちゃぁん…可愛いよ、希ちゃん」
目を閉じていると、荒い息と「のぞみ」という声だけが聞こえる。希。多村、希。
吐き出しそうな感覚の中(このオッサン、マジでエッチ下手すぎだよ)、美古都は希の顔を思い出す。色気の無い、地味な顔立ち。色黒で、さしずめ東南アジアあたりの秘境の民族のようだ。なんで――なんで兄ちゃんは、あんなオンナに惚れたんだろ。兄ちゃんと希、どこまでいってんのかな。そいえばこないだ、兄ちゃんの部屋に、コンドームあったよな――
ベッドで絡み合う二人の姿が、一瞬美古都の頭をよぎる。
「希ちゃん…の、ぞみちゃん…」
兄ちゃんと希も、こんな風にヤったりしてんのかよ?
「のぞ…み、ちゃん…オジサン、もう…希」
希。
憎悪と嫉妬の入り混じった感情が、胸に込み上げるのを美古都は感じた。
「の…ぞみ、って、呼ぶな」
美古都は目を開き、小さく呟く。男がそれに気付き、小さく顔を起こしかけた。
「希って、呼ぶなっつってんだよ! クソ、ざけんじゃねぇよ!」
美古都は叫び、男を突き飛ばした。部屋の真ん中に置かれたテーブルに男の禿げた頭が当たり、「うぅ…」と小さくうめいて男は意識を失う。そのまま、美古都はカラオケボックスを飛び出した。

「あれぇ、みこっちゃん?」
行く当てもなく、金も無いのになんとなく入ったコンビニ。雑誌を読むふりをして涙をこらえていた美古都の耳に届いたのは、聞き覚えのある甲高い声。
驚いて振り返ると、そこにはちりちりにパーマのかかった赤い髪を高く結い上げた(穂積が焼きそばみたいなアタマやなー、なんて言ってたっけ)沙織が立っていた。
「珍しーね、ひとり? ヒマしてんだったら、うちらんトコ来ればいーのに」
「お、ホント珍しーじゃん。ロンリーみこちゃん、キスマーク付き」
続いて沙織の後ろからひょこっと顔を覗かせた金髪頭は、正幸。その言葉に気付き、美古都は向かい側の化粧品の棚に付いた鏡に首筋を映す。そこには先程の男のものであろう、赤紫色のキスマークがしっかりと付いていた。
「うっわ…マジ?」
美古都は嫌悪のこもった目で鏡に映るキスマークを眺める。正幸がぱさついた金髪を揺らしながら、からかうように言った。
「オトコ絡みでトラブってんの?」
「…別に、そんなんじゃねーよ」
バツが悪そうに俯きながら、美古都は言う。正幸はきょとんとした顔になり「マジへコんでんの?明日、雨降りそーだべ」と呟いた。
「なになに? あ、みこじゃん」
コンビニの奥、トイレから丁度赤毛のロングヘアが出てきた。奈月だ。こんな気分のときは会いたくない人間、ナンバーワン。さっと雑誌に目を落とす美古都に構わず、振り返った沙織はキャミソールから剥き出しの奈月の肩に抱きつく。
「なーつーきぃ。みこ発見したんだよー。みんなで宴会しよーよぅ」
「いーね、宴会♪ じゃあけーいちも呼ぶ?」
奈月が声を弾ませながら提案すると、すかさず正幸が突っ込みを入れる。
「けーいちとさおちゃん揃ったら、どーせヤっちゃって宴会が乱パーになっちゃうじゃんよ」
「なにそれ、ひっどーい。さお、そんなにヤリマンじゃないもーん」
余裕でヤリマンじゃん、じゃあマサもヤリチンじゃん。傍目からはちょっと恥ずかしい会話を大声で交わし、正幸と沙織がコンビニの中だというのにじゃれ合う。美古都はそれを無視して雑誌を読んでいたが、ふいにその雑誌を奈月に横から取られた。
「みこー? テンション低くない?」
「うっせぇ。あたしは奈月みたくおめでてーオンナじゃねぇんだよ」
悪気があった訳ではないが、予想通りな奈月の調子につい悪態を吐いてしまう。奈月はそれできょとんとした顔になったが、すぐに美古都の腕を掴む。
「――っ」
美古都は身を硬くして、一瞬身構える。
一瞬、殴られるかと思った。
正直言って御免だ。持ち前の腕っ節と頭の回転の速さで地元の男どもと対等に渉りあってきた奈月の拳の重さは、美古都もよく知っている。しかし自分の口が過ぎたのだから(ちょっと言い過ぎた、奈月だってただの能天気な暴力女じゃない)ここは黙って殴られようと唇を噛んだ。――奈月に殴られるなんて何年ぶりだろ、あたし。
しかし、予想に反して奈月の手は美古都の頬を抉ることもなくその腕を取り、子供を連れるように引いたままドリンクの棚へと向かう。目を丸くする美古都に、紙パックのイチゴ牛乳が差し出される。
「へい。飲みな」と言ってレジで105円の代金を払い、振り返った彼女はいつもの人懐こい笑みを浮かべる。
「…はぁ? 何、このイチゴ牛乳は」
訳のわからない彼女の行動(まぁ、普段からそうだ。奈月は少し変わり者だし)に、美古都は細く吊り上がった眉を寄せた。奈月はひゅうっと口笛を吹き、赤い髪を揺らして振り返る。
「カルシウム足りてないっしょ、最近のみこ。イライラしてたらまたなっちゃんがイチゴ牛乳おごったげるから、遊びに来な?」

あ。やべー。
やべーって、オイ。
あたし、今、すっげぇ泣きそーなんだけど。

「あー。奈月がみこっちゃん泣かせてるー」
正幸が苦笑しながら、言う。
「ど、どしたの!? みこが泣いてるなんて天然記念物級に珍しーよ、マジ」
沙織が慌てながら、言う。
「ほらほら、なつきの胸でたーんとお泣きぃ☆」
奈月は頭をぽんぽん叩きながら、言う。

最後に泣いたのなんて、いつだったっけ?
あ、思い出した。
小学五年の頃、だっけ。
ちっちゃい頃から持ってた人形、母ちゃんが間違えて捨てて。
あたし、わんわん泣きながら母ちゃんのこと責めてたっけ。
なんで、あんなに泣いたんだろ?
そんなに大切にしてた人形でもなかったよな。ぼろぼろで。
失ってはじめて、すっごい大切なモノだったよーな気になって。

「今日は朝まで、飲むっきゃないっしょ★」


「…アッタマ痛ぇ……飲み過ぎた」
朝日の差し込む玄関に寄り掛かって、美古都はそっと家のドアを開ける。
もう、両親の出勤時間も真佐樹の登校時刻もとっくに終わっている。今なら誰も居ない筈だ。
美古都はリビングで二日酔いの薬を飲み、部屋に入る。
結局、一晩中四人で飲み続けて、朝に解散。酒の強い奈月に付き合わされ、かなり飲んでしまった。お陰で頭痛がひどい。
今日はサボって寝るかー…
小さく呟いてベッドに倒れ込むと、背中で小さくくしゃっと音がする。
だるい体を起こすと、そこには白いメモ。朝帰りの日には欠かさず置いてある物だ。
「うー…」
朦朧とした意識でメモを取ると、そこにはいつもの丁寧で少し右肩上がりな真佐樹の字が並ぶ。


『美古都は金が欲しかったんじゃないよな。
だから、何してやれるのかずっと考えてた。
昨日は結局悲しい事言わせちまったけど、
俺は美古都が自分を傷つけるような事したら
絶対に許さない。
オマエは俺の可愛い妹なんだから。
たまには兄ちゃんとも遊んでやってな。』












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