あゆの唇に咥えられた煙草の先、真っ白に燃え尽きた灰に視線を捕われていた。今にも崩れ落ちそうなそれが、もう少しのところで堪えられている涙のように危うく見える。
「桃実!」
炎の爆ぜる音に被さって、姉の悲鳴が聞こえた。同時にぐっと腕を引かれ、その力に逆らわず桃実はふらりと身を退かせる。

揺れる視界の中、張り裂けるような激しい音を立てて黒板が崩れていく。既のところで避けたその塊が勢いよく火の粉を巻き上げ、ちくりとした痛みと熱が頬を刺す。ここまできたらもうあっという間に、全て呑み込まれてしまうのだろう。
胸の辺りに浮かぶ迷いの所為か、その指先を広げ続ける炎から目が離せない。それでも腕を引く強い力に促され、桃実は立ち上がった。頭がくらりとする。炎が吐き出した濁った毒は、もう体内を巡っているのだろうか。
「行くよ」
脱色した髪を揺らして叫ぶ咲菜の顔が、涙に滲む。でも。違う。あたしはどうすればいい? 迷いはまだ残っている。なのに力なく垂れた手がしっかりと咲菜に捕えられると、その力強さに引き込まれていくように足が動き始めていた。
繋いだ手を離すことができないまま、桃実は廊下へ出ていた。薄汚れた灰色の煙が充満したその空間の中、ぼんやりと咲菜の背中だけが見える。どこに向かっているのか。わからなかったけれどそれでも、彼女の手が自分をどこかへ導いてくれる。生まれたときからすぐ傍にあったその背中は、今もここにある。
けれど背後から追ってくる熱風が言っている。ここにはもう何もなくなってしまった筈だ。あの教室と一緒に炎に呑み込まれて、この体も本当に空っぽになってしまえば、よかったのではないか。

足の動きが鈍っていた。それを促すように繋いだ手をぎゅっと握り締められ、桃実はふっと視線を上げた。煙った宙の向こうで、咲菜の空いた左手が何かを探して彷徨っている。暫しの間を経て、硬い何かを捻る音が耳に届いた。
「行くんだよ」
咲菜の震える声に続いてそれが開き、視界に漂っていた靄がすうっと晴れていく。熱気の代わりに澄み切った涼しい夜風が頬を撫で、眼球の痛みがほんの微かに引いていくのがわかる。
開かれたそれは教室の更に奥、校舎の東端にあった非常階段のドアだった。
手を引かれて歩を進める。遠くから聞こえてくるサイレンの音。暗い夜空。古びた鉄板の先、くるくると下へ続いていく螺旋状の階段。そして振り返れば、もうもうと濁った煙を巻き上げて自分を追ってくる炎。
桃実は瞼を伏せた。俯く視線の先、薄汚れたスニーカーの赤色がじりっと動く。
「……どこに、行くの」
乾燥した唇が掠れきった声を洩らす。繋いでいた咲菜の手から一瞬、力が抜け落ちるのがわかった。
「どこ、って」
打ちのめされたように咲菜が言う。その手の震えが、触れ合った手越しに伝わってくる。

少しの沈黙の後、咲菜の手が痛いほどに強く桃実の手を握り締めた。その強さに桃実が思わず顔を上げると、そこにあった姉の姿がしっかりと見える。いつも細くすっと吊り上がっていた筈の眉が歪み、アイラインに囲まれた切れの長い瞳は苦しげに細められている。とめどなく流れていく涙が、頬に付いた灰色の汚れと混ざり合う。夜風に乱れるぱさぱさの茶髪、噛み締めた唇。あまり見ることのない、強気な姉の泣く姿。
「……一緒に、帰ろうよ」
嗚咽に乱れた咲菜の声と開け放されたドアから吹き上がる煙が混ざり、空へ舞っていく。
歯痛を堪えるように、桃実は表情を歪めていた。もうあと少しで溢れ出してしまいそうな胸の何かを鎮める為に、頭の中で繰り返す。繰り返したその言葉は噛み締めた唇を押し開き、咲菜へと叩きつけられていた。
「お姉ちゃん、あたしもう、人殺し、なんだよ」
唇から滑り落ちたその言葉が、足元で砕けてしまえばいいと思った。しかしそれは消えない。桃実は震える唇を鈍く動かし、言葉を続ける。
「みんな死んで、あたし何もできなくて……あたしも、幸太を」
遮るように咲菜が大きく頭を振るう。そのまま頭を垂れて嗚咽を洩らしているのが聞こえる。ぶるぶると震える手はそれでも、強く強く桃実を捕えている。喉の奥にこもる熱が高まっていくのを感じながら、桃実は強く唇を引き締めた。駄目だもう少しで零れてしまう。
迫ってくるサイレンの音の中、そろそろと咲菜が顔を上げる。涙でくしゃくしゃになった顔で、バカ、と小さく毒づいている。
「桃実はあたしの妹だ、って、言ったでしょ」

胸の中で堰を切ったように溢れ出したそれが、涙となって頬を伝っていく。焼けるように熱い喉のずっと奥が、ぎりぎりと締め付けられるように痛む。苦しい。痛い。けれどそこは、もうどうしようもないくらいの温かさに埋め尽くされている。その温かささえ息もできないほどの痛みとなる。
咲菜の肩にしがみついて嗚咽を洩らし、桃実は涙に乱れる視界の中にそれを見ていた。赤いスニーカーの爪先がぐらぐらと揺れている。激流に溺れてしまいそうな思考の中を、メロディーを奏でるように赤い靴の女の子の物語が泳いでいく。
脱げない赤い靴に踊らされ続けた彼女は足を切る。赤い靴の代償に足を失っても、彼女はずっと義足で歩いていく。
義足を探そう。もう本当に何もなくなってしまったのだし、どんな顔をしていればいいのかもわからない。この痛みは大きく大きく膨らみ続ける。苦しい。一欠けらの望みも見つからない。押し潰されてしまいそうで、もうこの手は何も求めることができない。
何もいらない。だからこそ足が動かなくなるそのときまで、歩いてゆける気がする。
胸を埋める温かさと、きっといつまでも消えないこの痛みと。ここにある全てと、最期まで一緒に。




nothing / end