やべえ。世界が傾いている。否、世界が傾いているんじゃない、揺れ動き傾いているのは俺の方だ。今俺の世界はぐるんぐるんのぐでんぐでんである。階段は嵐の海の水面であり、その先に続く我が家の扉は転覆寸前な訳だ。それ以前に沈んでしまうのは間違いなく俺なのだが、俺はその前にあのドアを開けなければならない。あの向こうには俺を救うライフセーバーがいるはずだ。だから俺はビールにもシャンパンにも無限のハウスボトルにも負けなかったのだ。つうか早く救援を。焼酎怖いよ焼酎。

 瞬間足がもつれ、革靴の底が大きく足音を響かせる。戯言をぬかしたバチが当たったようだな。今何時だと思ってんだ馬鹿者ご近所迷惑だこらぁ。自身を戒めつつも俺は渾身の力でドアノブを握る。
 あらーん。ドアノブが低くなった気がする。百七十少々ある俺の背が縮んでしまったのかというと、そうではない。情けないことに俺にはもうドアノブに鍵を差すほどの力も、スラックスの汚れを気にかけるほどの余裕も残っておらず、ただドアノブに縋りついてお姉さん座りをしているだけが精一杯なのであった。俺様ちょっと可愛くねえ? ともかくここが今の俺の限界だ。出来れば横になりたい。

 俺は冷たいドアに額を押し当て、考える。なんでこのドア緑色なんだ? 全くどうでもいい疑問なのだが、なんでもいいからとにかく何か考えていなければ危険だった。胸部の不快感が深刻だ。気を紛らわせたいだけなのだ。なんならドアがピンク色でも構わなかった、大家と相談して塗り替えてやってもいいさ。でも弟は少し嫌がるかな。まあいい。ともかく超MM。超マジムカつくのだ、胃が。

 そこまで考えたところで、俺はようやく気付いた。兄貴。兄貴。なんとなく聞こえていたような気はしていたが、やはり呼ばれている。ライフセーバー来たコレ。応答せよ。「ひゃーい」。俺はそう言ってまたも気付く。喉がからから砂漠である。

 一瞬の間をおいて、俺の額がそろりと後退する。俺が額を後退させた訳ではない、ドアが開いたのだ。僅かに開いたその隙間から、訝しげに歪む弟の顔が覗く。

「兄貴……」
「おーう」俺はずるずると地面へ身を滑らせて答える。「あのさあ。ドア、ピンクでもいい? 緑派? 緑フェチ?」

 弟が目頭を押さえる前に、俺は自覚した。遅過ぎた。明らかに呑まれている。今度ばかりは「転職してくれ」と言われても仕方がない。ドアをピンクに塗り替えている場合ではない。俺はもう駄目かもしれない、つうかもう駄目だ。確信した俺はピンク色のドアの完成予想図を頭に残したまま立ち上がる。駆け出す。無心。「おい大丈夫か兄貴」。大丈夫じゃねえ、目指すはトイレだ。景気よく出してしまえ。

 今日の俺は史上最悪だった。ホストクラブに勤め始めて六年。アルコールには底なしに強くなっていたはずだ。浴びるように飲んでも顔色を変えずに帰宅し、その上弟の弁当まで作っていたこの俺が、かつてこのような醜態を晒したことがあっただろうか。


ふたりぼっち/安池文彦(男子18番)


 古びた3Kのアパートが俺たち兄弟の家だった。俺の収入からすればボロ過ぎるかもしれないが、それでも引っ越す気にはなれなかった。親父が死んでからずっと暮らしてきた部屋だったし、母さんがここを新居に選んだ理由もなんとなくわかる。薄汚れたクロス。傷ついた床の木目。低い天井。それらは死んだ親父と住んでいた家の空気とどこか通うものがあって、なんだか居心地がいいのだ。親父の家はもうちょっと綺麗で広かったけどともかく、それに――

 俺は薄目を開け、流し台でグラスを握る弟の手を盗み見る。――俺にはまだやるべきことがある。

 お兄ちゃん文彦をよろしくね、ごめんね、本当にごめんなさい、母さんはそう言って泣きながら死んでいった。母さんは頑張り過ぎた。親父が死んで、母さんは母親役と父親役を一人でこなそうと無理をして、俺を大学へ行かせようと必死で働いて働いて働いて壊れてしまった。俺は母さんが壊れるぎりぎりのところまでそれに気付かぬまま頑張り屋の母さんに甘え、勉強に励んでいやがったのだ。国立無理でも公立なら! などと呑気にぬかしていた高校二年の冬だった訳だ。マジ俺最悪。

「お疲れ。もう全部出したか?」
 薄く開いた視界の中にグラスを握る文彦の手がちらつく。水だ。超オアシス。俺はテーブルに寝そべったままそれに手を伸ばし、片肘で起こした体に一気に流し込む。叫びそうになるほど美味い。こんなに美味い水を飲んだのは久々だった。

「ブンちゃん」
 グラスを離れた唇から、思わず幼き日の弟の愛称が飛び出す。「すまんのう。ありがてえ。ありがてえ。めっちゃ愛してる。キスしていいか?」
「ブンちゃんはやめろって。ほら胃腸薬。飲んどけば?」
 苦笑混じりにそれだけ言い、弟は錠剤の詰まった瓶を差し出す。どうやらキスは華麗にスルーされてしまったらしい。俺は別に奪ってしまっても構わなかったがともかく、そういえばこいつ、ファーストキスは済ませているのだろうか。

「ナイスブンちゃんありがとー」俺は緑のラベルの胃腸薬を受け取りながら訊く。「つーかお前彼女は? まだ?」
「いないよ」
「候補いねえの?」
「いないけど」
「紹介したろか。知り合いのキャバ嬢でよかったら」
 臭い錠剤を二つ水で流し込んで提案すると、文彦は唇だけで笑って目を伏せた。これがこいつの困った顔だ。「いいって。俺はまだ」

「蘭ちゃんいい子なんだけどなあ」
 本当に蘭ちゃんを紹介してやってもよかったところだが、とりあえずこいつをこれ以上困らせない為に俺は言う。「まだねえ。俺がお前くらいんときなんかヤリたくて死ぬかと思ったけど」
「死ぬかよ普通」
「まあ生き抜いたよ。ヤッちゃったから。舞子先輩と」
「誰だよ舞子先輩」
「初恋の女性」
「……はあ。恋ですか」
 苦笑混じりに言いながら脚なんか組んでやがる弟を横目に、俺はポケットから取り出した煙草を咥え、ライターの火を口元へ寄せる。煙草の先に火が着かないのは鼻息の所為である。込み上げる笑いを堪えられないのだ、ついでに掌でにやけ顔を覆い隠すことも忘れない。うーん恋ですかねえ。やべえ。なんかツボった。

 俺は見てしまったのだ。一月ほど前のことだろうか、雨の降る日だった。あー最悪髪の毛うねりんぐですぜお嬢ちゃんなどとぼやきながら寝起きの俺が窓の外を覗くと、なーんと下校中のブンちゃんの黒い雨傘から女の子のミニスカート及びルーズソックスがちらついていたのである。思わずカーテンの陰に隠れた俺の視界に、傘からこぼれる弟のはにかみ笑顔。何あいつかなり上機嫌じゃね? そして我が家を見事にスルーしていく雨傘と楽しげな笑い声。遠くなっていくブンちゃん。妙に大きく見えるその背中を見送りつつ、曇る窓に指で相合傘を書いた俺は今年で二十四。だがまあ特に問題ない。

 つまるところ文彦はピチピチの女学生を相合傘でエスコートしていった訳なのだ。一般的に言えば全く問題ない、まあ健全な男子的には退屈な学校生活の中での小さな小さなサプライズ程度の出来事かもしれない。だが友達の一人も紹介してこないうちのブンちゃんが女の子と相合傘、しかもお相手はよりによってミニスカルーズだぜ? まあ雨の日に傘を忘れた女の子を放置して一人で帰ってきちゃう方がどうかと思うけどうん、ともかく俺的にはちょっとした事件だったのだ。

「とぅあ」
 短く叫び上げて起き上がり、俺はキッチンへ向かう。急に飲みたくなったのだ。今日は少し飲み過ぎだが、店で飲んだ分は戻してトイレに流れたからよしとしよう。ついでに吐き捨てたい様々も流れていったことだし、ここらで復活だ。っしゃあ。

「よーし飲むぞ。今日はお前も飲め。飲んで飲んで飲んで飲んで飲んで飲んで飲んで飲んで飲んでおうぇーいといきましょうか」
 口ずさみながら冷えたビールを机に置くと、予想通りの返答が戻ってくる。
「俺はいいから」
 あ、やっぱ声のトーン落ちてる。そう、こいつってば酒がからっきし飲めないのだ。どれくらい飲めないのかというと、飲みやすく薄めた梅酒を一杯飲ませただけでふらふらになり、真っ赤なお顔で剣崎ジュンヤを歌いつつ布団にダイブしてしまうほど。俺よりもでかい体してるくせに、そういうところはちゃんと中学生なのだ。愛い奴。

「えーブンちゃんが飲まなきゃつまんねえじゃん」
 缶ビールのプルタブを引きながら、俺は非難めいた声を上げる。ちょっといじめてやりたくなってきたのである。しかしながらこの安池正彦、下戸下戸ブンちゃんに無理矢理ビールを浴びせるほど腐った男ではない。腐りかけてはいるがその辺りはともかくとして、俺はビールに口を付ける。

「なあお前さ、本当に好きな子とかいねえの?」
 酒臭い俺の言葉に、文彦は咥え煙草の唇を歪めて応じる。
「ないない。どうしたんだよ今日は……飲み過ぎじゃねえの」
「ミニスカにルーズの子とかどう思う?」
 警告を無視して続け、俺はビールを飲み下す。紙巻きを挟む弟の指が動きを止めているのが視界にちらつく。
「髪は長い方がお好き?」
 そして無言。よーしもういっちょ。
「相合傘で接近するといい匂いする?」
 弟の煙草から灰が崩れ落ちる。トドメは今しかねえ。
「正に恵みの雨なのでした。めでたしめでたし」
「……待てコラクソ兄貴」
 満面の笑みでビールを飲み干す俺に、テーブル下から弟の蹴りが入る。「あれは違う。同じクラスの」
「わかったわかった。なんて子?」
「長谷川さん」
「ファーストネームは?」
「そんなん聞いてどうすんだよ」
「内緒にしてどうすんだよ」
 ……はああ。溜め息とともに煙を吐き、文彦は肩をすくめる。駄々っ子を宥める大人の横顔。全くどっちが弟なんだか。
「長谷川美歩って子」
 呆れ混じりに言う弟の顔には照れた様子もない。外したか。本当にただの友達か。こいつはなかなか腹を見せないところがあるからまだわからないが。
「へえ。ほう。そうかそうか」俺は伸びを一つして、二本目のビールを開ける。「美歩子さん。うんうん。今度家に連れてこいよ」
「なんで子がついたんだよ」
「お前の嫁は子で終わる名前の女がいいと思って」
 言いながら煙草のソフトパックを取り、少し考えて置いた。喉に違和感がある。今マルボロを吸ってもきっと不味いだろう。

「それ一本くれ。なんかメンソール吸いてえ」
 テーブルの上のラッキーストライクを指すと、弟はああ、と頷いた。
「サンキュ」
 差し出された紙巻きを咥えて火を着ける。弟の吸うメンソールは少し辛く、思わず咳き込んでしまう。自分からくれと言っておいて。なんて失礼な俺。
「大丈夫か?」
 言ってこちらを覗き込む文彦の細い目に、僅かな不安が窺える。「マジで今日飲み過ぎだろ。ほどほどにして休んだ方が……」
「何、心配してくれてんの?」俺は頬をゆるめてみせ、煙草を咥え直す。やべえ。今日はトイレで壮絶なリバース現場まで見られてしまったのだ、これはいけない。
「優しいなあブンちゃんは。愛してるぜ。激愛してるぜ」
 だが飲むぜ。飲みたいんだぜーい。ビールを呷る俺の横で弟は席を立ち、空のグラスに再び水を入れて戻ってきた。
「はい水。内臓労ってやれよ」
 文彦は小さく息を吐き、グラスを置く。全く中学生に何を言わせているんだか。流石に俺もビールの缶を置き、グラスの水に口を付ける。

「本当にいい子だなお前は。よし、兄ちゃん明日はご馳走作っちゃうぞー」
「俺明日は修学旅行で京都奈良だけど」
「えええそうだっけ? ショック大。兄ちゃん寂しくて死ぬかも」
 大袈裟に肩を落としてみせ、俺は短くなった煙草で灰皿をつつく。そういえばもう七月だったか。すっかり忘れていた。
「帰ってきたら食うって。楽しみにしとくから。ご馳走」弟は首をすくめて笑う。「土産は何がいい?」
「当然八ツ橋。生で頼む。つうか悪い、すっかり起こしちまって」
 全く申し訳ないことに、カーテンの隙間から覗く空はすっかり白くなってしまっていた。
「眠くなったらバスで寝るよ。兄貴も寝ろよ、そんなんじゃ身体壊すぞ。今日は朝飯の用意とかいいから」

 寝ない子でも育つものだ。こいつの場合もう育ちきってしまったのかもしれない。俺はテーブルに寝そべり、席を立つ弟の背中を見つめる。また身長が伸びたか。肩や首も男らしくがっちりとしてきたし、横顔もどこか中学生らしく見えない。そうなってしまったのは俺の所為だろう、こいつは本当によく出来た弟だ。掃除も洗濯も買い物もせっせと手伝う。勉強も部活も順調にこなしているようだし、酔っ払いの世話も焼いてくれる。ケンカもしない。愚痴も言わない。ただ岩石のようなハンバーグを作り出してしまうほど料理が下手なところだけは欠点だが、それを差し引いても超MK5。超婿入りさせたい五秒前、自慢の弟な訳だ。子供のくせに出来過ぎていると年を取ってから変にはっちゃけてしまうのではないか、と心配になるほど。

 しかしブンちゃんがはっちゃけてしまったらどうなるのだろうか。なかなか具体的なイメージが掴めないまま、俺はコーヒーの香りに薄目を開く。

「飲む?」
 テーブル越しにうっすらと見えるその背中。振り向く顎の細いライン。薄い唇に広がる穏やかな笑み。
「……よくないか。寝る前だし」

 俺は少しだけはっとして、何かを言おうと唇を開きかける。ああ、言わなくてもいいか。思い直して瞼を閉じる。喋り過ぎなんだ、どうでもいいことばかり。本当にどうでもいい、くだらないことばかり。わかっている、俺はこいつをくだらないことで埋め尽くしてしまいたいのだ。勉強でもスポーツでも酒でも女でも、なんだっていい。何かに夢中になっていてほしい。何かに夢中になったまま大きくなって、それから、それからは。好きにしたらいい。そうさそれでいい。大切なことは一つだけ、もう教えてある。だからきっと文彦は大丈夫だ。いや、きっと大丈夫だがそれにしても――

 全く最近のこいつときたら、恐ろしいほど親父に似てきている。



top / next