「――い、そんなところで寝たら風邪引くぞ」
 親父の声だった。

「ちゃんと布団被って寝ろよ。一夜漬けなんてするもんじゃない」
 頬の下には参考書。うっせえ俺国語嫌いなんだよ。一夜漬けしかねえんだよ。明日はテストか? 二日酔いじゃなかったっけ。

 電話のベルが聞こえる。黙れこっちはテストだ。二日酔いだ。ぶつぶつと文句を垂れながら、俺は闇雲に手を伸ばす。子機はどこだ。勉強机のどっかに子機が置いてあるはずなのだ。

「はい安池です」
「正彦くんか」

 言葉に詰まり、俺は唇を噛み締める。新井さんだった。親父の親友である彼もまた、親父と同じ組織に――つまり反政府組織に所属している人間、だったのだ。

「待ってください」
 俺は母さんが死んでから幾度となく繰り返した台詞を口にする。
「文彦が中学を卒業するまでは」
「待ってください、もう少し」
「もう少しだけ。文彦が高校生になったら、そちらへ」

 長い長い沈黙を経て、新井さんの声が返ってくる。

「君たち兄弟を危険に晒す訳にはいかない」
「僕らのところへ来るということはね」
「正彦くん次第なんだ、君の意思が」

 俺の意思?
 決まっている。もうずっと決めていたはずだったのに、俺は一体何をしているのだろう? 文彦が中学を卒業するまで。文彦のため。あー何言い訳? 言い訳ですか俺? 人のためと書いて偽りだっつうの。こんなところでぬくぬくと。何年過ごした。どれだけ血が流れた。どれだけ殺した。

 ――殺すのか。
 ああ、親父が言ってた。

 兄ちゃん。
 まだあどけない文彦の声が聞こえる。

 シャツの裾を引いて、文彦がこちらを見上げる。まだ俺の腹までしか身長がなかった頃の弟。幾つだったろう。

 兄ちゃん。なんで? 父さん、なんで、死んで――
 たどたどしい問いに、鼓動が大きく乱れる。思わずその細い肩を掴み、俺は口を開きかける。

 なんて言えばいい。言葉が出てこない。忘れられない、あのときの文彦の顔。思想の欠片も持たない、幼く純粋な恐怖に満ちた表情。

 ――思想を殺し、人を殺すか。
 親父の言葉だ。
 ――思想を殺せば、血が流れる。
 よく聞かされた、言葉。
 ――見て見ぬふりを通すのか。
 やめてくれ。今は聞きたくない。
 ――選ぶんだ、正彦。
 選んだから親父は殺されたんじゃねえのかよ!

「文彦」
 俺は弟の小さな身体にしがみついて、繰り返す。
「考えんじゃねえ。お前はなんも考えなくていい。考えちゃ駄目だ。なんも考えんな」

 殺せ。殺せ。思想を殺せ。血が流れても。人が倒れても。見て見ぬふりを通せ。死ぬな。お前は、お前だけは生きろ。

 文彦は頷かない。母さんは玄関にうずくまったまま、動かない。
 倒れている人。思想を殺さず、人を殺さず、そして殺された俺の父親。

 ドアに飛び散った赤色。
 拭い去ることも塗り替えることも出来ない赤色。





 ――冗談じゃねえ。
 我知らず掠れ切った声が洩れる。浅い眠りの中で見た夢は全く最悪で、ひどく気分が悪かった。その上予定通りに昨夜の酒がハッスルしてやがる。頭蓋を金槌で殴りつけられるような頭痛と、より一層深刻になってしまった胃のむかつき。いっそ胃ごと取り出して捨ててしまえばいいんじゃねえかとさえ思う。そうすればホストは続けられなくなってしまうが、構わない。もう金は貯まっている。あれだけあれば弟も四大を卒業するまではひとりでやっていけるだろう。

 重い瞼を開き、恐る恐る身を起こす。瞬間こめかみの奥を打ち壊すような激痛が走り、俺は吐き気を催してトイレへ走る。これは久々の快挙である。不快だけど。

 膝を折って便座に向き直る。降伏宣言。最早出すより他に道はなかったのだ。俺は吐き戻し、咳き込み、再びえづくことを繰り返しながら思う。どうしたいんだ。何がしたいんだ。俺は一体何をしているんだ。

「君の意思が」
 夢で聞いた新井さんの声が、耳の奥に蘇る。

 組織に所属するとなれば、文彦だけをここに残していくことになる。危険は勿論、俺はあいつに思想を持ってほしくなかった。怒りは抑え、不満は持たず、上手くやっていってほしい。たとえそれが死体の上にある平穏だとしても。

 しかしあいつはどんどん大きくなる。日毎に強まる親父の面影とともに文彦の中でそれが芽を出したとき――否、もう出しているかもしれないが――俺はどうしてやればいいのだろう。

 俺は長いことその場にうずくまったまま、渦を巻いて流れていく水を眺めていた。それからふと思い立ち、腰を上げてキッチンへ向かう。

 そうだ、オムライス。帰ってきたらあいつの好きなオムライスを作ろうか。俺は流し台で口を濯ぎながら考える。あ、蓮根の挟み焼きも好きだっけあいつ。しかしオムライスに蓮根? 鮭のムニエルでいいか。それから野菜スープ、よし決まった。ひゅうっと高い口笛を一つ吹き、俺はグラスに水を注ぐ。

 開け放されたカーテンから覗く空はムカつくほど青い。洗濯日和というやつか。早いものでもう七月、夏がすぐそこまで来ていた。夏が終われば秋は一瞬、また冬になる。冬が終わる頃にはあのブンちゃんも高校生だ。

 それからでいい。それまで全て考えていないふりをしていればいい。簡単じゃねえか、今までだってずっとそうしてきたんだ。そうやって言い訳して、先延ばしにして、うやむやにして、飲み潰れ二日酔いに見舞われ、気がつけばすっかり馴染んだドブ臭え国でゴキブリみたく這いずり回って――

 は。短く息を吐くのと同時に玄関のチャイム音が鳴り、思考が遮られる。
 俺は少しだけ脱力して、シンクにグラスを置く。率直に申し上げるとお引き取り願いたかった。煩わしいのだ。こっちは二日酔いだ。

 少しの沈黙を経て、もう一度高い呼び出し音が室内に鳴り響く。
「……あー」
 ぱさついた髪を指で掻きながら、俺は玄関へ足を進めた。害虫になんの用だ? 声に出さず毒吐いて覗き穴へ目を寄せる。

 球状に歪んだ世界の中で、黒いスーツを着た男が立っている。学校の先生? じゃないな。俺は眉根を寄せて思い返す。知らない顔の男がいきなり。前も似たようなことがあったのだ。

「……はあ」
 我知らず唇を歪め、俺は解した。なんだ、アースジェットか。コックローチか。どちらでも構わないが。

 冷えた指先で鍵を捻り、ゆっくりとドアノブに手をかける。脳裏にコーヒーを啜る文彦の顔がちらつく。ああ、俺が死んだらあいつ――
 考えかけてはっとする。あいつ、そういえばあいつは今、中学三年だったか?

 予測出来てしまった最悪の事態に、ぞっとしていた。急速に込み上げる指の震えを殺し、俺はドアを押し開く。

「安池正彦さんですね」
 開いたドアの向こう、スーツ姿の男は一度だけ笑うように唇を歪め、淡々と言葉を紡ぐ。

「今年度第二十八号の――に弟さんの――が――つさ――した」
 彼がなんと言っているのかはよくわからない。ただ白っぽい唇が無駄に早く動いている様だけが、不自然なほどくっきりと目に焼き付く。

「――は今――に向かっているところです」
 鎮めきれず震え出した掌を垂らしたまま、俺は男の胸元にちらつく桃のバッジをぼんやりとただ、眺める。

 ――殺せ。
 頭の中で声がした。
 ――間違ってると思ったって。
 誰の言葉だった?
 ――爆発させちゃいけねえんだよ、この国じゃあな。
 文彦によく言い聞かせてたっけ。
 ――長生きしろよ、お前は。
 なんだ、俺が言ったんじゃねえか。

「――おめでとうございます、安池さん」
 ふいに視界に入る。男の口元を崩していく皮肉めいた笑み。

 ――おめでとうございます? 何がだ。ざけんじゃねえ、お前らはあいつまで連れていく気か!
 爆発したそれが思考を真っ白に洗い流し、頭の中が空になる。俺は男の胸元を掴む。抑えきれない何かが声帯を振わせる。構わない、どうして抑えなきゃいけない? 俺が長生きしてどうする。叫ぶ。叫ぶ。認めない。

 瞬間だった。胴を突く衝撃と爆音に声を奪われ、堪えられなかった背中がドアに叩き付けられる。傾く視界の中、男はスーツの胸元へ銃を仕舞ってもう一度笑う。瀕死の害虫をただ嘲笑う目。

 無様なこった。ゆっくりと地面へ身体を崩しながら、俺は口元を歪める。結局何も出来てねえ。まだ何かあるか? ああ、新井さんに連絡しようか。どうにもなんねえか。やってみなきゃわかんねえな。
 遠ざかっていく足音を耳に、俺は空を仰ぐ。あ。ドアの内側、刷毛で乱雑に塗り付けられたような赤が視界にちらつく。

 そうだ、ドアを塗り替えなければ。幾らなんでも赤はねえ。
 俺はぐっと声を洩らして起き上がり、Yシャツの袖でドアの血を拭う。腕は情けなく震え続けていたが、それでもドアの赤はシャツの布地に染み込み、容易く拭い取ることが出来た。親父の血とは大違いだ、笑えるくらいにあっさりと落ちる。

 やっぱり親父に似たのはあいつの方だったか。昨夜見た弟の横顔を思い出して俺は小さく笑みを洩らし、肘をゆっくりと前へ進める。すっかり血を吸ったシャツの袖がやたらと重い。唇の端から溢れる息が髪を濡らし、顎を伝っていく。暑苦しい。クソ、腹痛え。しかしとにかく電話だ。電話まで行こう。廊下の突き当たり、部屋を入ってすぐのところだ。

 ついでに店にも電話をかけてやろうか。腹が熱いので当欠だ。それからさっさと洗濯を済ませてスーパーに行こう。やっぱり蓮根の挟み焼きもつけてやれ、今日はなんでもありだ。この際だから美歩子さんも呼んでしまえ。是非ご挨拶をしたいのだ、弟を頼む、とか。ミニスカルーズにはちょっと重いっつーか寧ろドン引き確定だな。友達だっけ? まあどっちでもいい、どうでもいいけどとにかく――

 帰ってこい。
 短い息とともに吐いた言葉が、木目の剥げかけた廊下に零れ落ちて消える。








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