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強い人間になりたかった。
強さの意味なんて、よくわからなかったけど。
あたしは負けたくなかったんだ。
逃げたくなくて、乗り越えたくて。
だけど、心が折れるのはもっと嫌で。
笑っていたくて。
あたしは笑えなくなったらどうなるんだろうって。
――当たり前のように、単純なことだった。
39キロだった体重が、33キロになって。
薬を飲まなければ、眠れなくなって。
簡単だった筈の問題が、解けなくなって。
トイレまで行くだけで眩暈と動悸がひどい。
自分がずるずると、堕ちてゆくのがわかる。

強い人間になりたかった。
だけどここは深すぎて、もう何も届かないんだ。


黒い闇だけが見える。深い暗闇の中、声が聞こえる。嘲笑。罵声。
アンタなんか生きてる価値ないよ。目障りだから学校来んな。ウザイムカつく死ね。消えろ。――だったら消してよ。今すぐここであたしの存在全て、消しちゃってよ。
いいわ。消してあげる。楽にしてあげる。
ふいに、その声と共に暗闇の中に鋭い鎌を持った魔女の姿が浮かび上がる。彼女はあたしの肩を掴み、首にゆるくカーブした鎌の刃をあてがう。真っ暗なのに、何故かその鋭い刃の白い光はしっかりと見えた。その神秘的な光に、あたしの目は釘付けになる。
真っ黒なローブを身に纏った魔女の顔に視線を向けると、彼女は妖艶な笑みを浮かべて鎌を持つ手に力を込めた。少しずつ、あたしの首に刃が食い込む。切れた皮膚から鮮血が噴き出して、あたしの肩を濡らす。
あったかい。
このまま死ねるんだったら、それでいい。
あたしは目を閉じて、それを受け入れようとする。
だけど――いつも、途中で声が聞こえて、あたしは消える事が出来なくなる。
ほら、また聞こえる。
――このまま、最期まで逃げ続けて、全部終わって、いいの?


「すいませーん、きとーさんのお家ですかぁ?」
ピンポンピンポンピンポーン、と不躾に玄関のチャイムを鳴らす音と、聞き慣れない若い女性の声が
鬼頭幸乃(埼玉県丹羽中学校3年4組女子4番)の意識を眠りから覚醒させる。
「…だれ? おかーさん……出てよぉ」
幸乃は目を擦り、枕元の目覚し時計に視線を向けた。9時30分。父親は日曜出勤だと言っていたから、居ない筈だ。母親も近所の主婦との付き合いだか何かで、幸乃の心配をしつつも昨日から旅行に行っている。旅行――そいえば、今日、修学旅行だっけ。結局、行かなかったな。昨日は茉莉子も誘いに来てくれたのに――
親友の
遠藤茉莉子(女子3番)の顔がちらりと思い浮かぶ。もう、長いこと学校へ行っていない所為で、彼女には要らぬ心配をさせてばかりだ。でも、どうしても幸乃は学校なんかに行く気にはなれないのだ。それも、三年に進級した今になっても“あのコ”とは同じクラスで――
ふいに、夢に見た魔女と自分に汚い言葉を浴びせる甘ったるい声が思い返され、幸乃は再びシーツを深く被る。来客のようだが、他人と顔を合わせる気分にはなれない。居留守を使ってしまおうと決め込み、幸乃はぎゅっと目を閉じた。
しかし、チャイムは一向に鳴り止まない。ピーンポーン。ピンポピンポーン。ピンポンピンポンピンポンピポピポピーンポーン。いいかげん、気が狂いそうだ。幸乃はしぶしぶ、袖口と裾がレースに縁取られた白のタンクトップと黒のホットパンツのままでベッドから降り、部屋を出る。ぺたぺたと裸足で廊下を歩き、玄関先までどうにか恐る恐る出てこれた。
先程から、絶え間なく「すいませぇん、きとーさーん?」と言い続ける聞き慣れない声。
大丈夫、知ってる人じゃない、学校のヒトじゃない――そう自分に言い聞かせながら、幸乃は胸の辺りを抑え、思い切ってドアを開く。

玄関から朝日の眩しい光が差し込み(ああ、直射日光なんて浴びたのどれくらいぶりなんだろ。あたしってやっぱヒキコモリなんだなぁ)、幸乃は軽い吐き気を覚えた。少し目を凝らすと、目の前に立っている見知らぬ若い女性――朝日をバックに輝く金に近い茶髪、派手な格好、の姿が丁度見える。幸乃が手の平を目の辺りに翳し、「どちらさまですか?」と訊こうと口を開きかけた時、ふいに女性の腕が高く持ち上げられる。
「ねぼすけさんですねぇ〜。リナがお仕置きしちゃいますっ★」
どこか地方っぽい訛りの感じ(関西だろうか)の残る声で彼女は言い、腕に大量に付けられた、一本一本の色合いが微妙に違うブルーのグラデーションのブレスレットが、がしゃん、と音を立てて揺れる。次の瞬間、幸乃は頭部に激しい衝撃を受けてその場に倒れ込む。
来たんだ。魔女が。あたしを、消しに――――
薄れゆく意識の中で、幸乃は思った。


ぴろぴろ、と携帯電話の着信音が鳴る。
岩本雄一郎(3年4組副担任)はスーツのポケットから携帯電話を取り、メタリックグレイのボディーを耳に当てて通話ボタンを押した。
「はい、岩本です。…あー、校長先生ですか? はい、生徒たちはもう会場へ向かっているようで……あ、はい。欠席者は政府の方が引き取りに行ったそうで…鬼頭、ですね。不登校児です。いえいえ、残念な事ですが。仕方の無い事ですよ。……はぁ、久喜田先生は……どうでしょうか。ここ最近連絡も取れていないし…退職、という事になるんですかね。はい。しかし――妙、ですね。…いえ……学級崩壊なんかじゃ、ありませんよ。はい。ただ、少し……はぁ、止めましょうか。大丈夫でしょう、彼女はまだ若い。人生、これから何度もやり直せますよ……はぁ、面倒見切れませんか。いえいえ。はい。それでは、失礼します」
電話を切り、岩本は深く溜め息を吐く。仕方の、無い事。やはり、そう思うしかないのだろうか。

意識が混濁する。後頭部の辺りがまだ幾分ずきずきと痛む感じに顔をしかめ、幸乃は薄く目を開いた。
木製の机が頬に当たる、冷たい感触。身を起こして辺りを見渡すと、ちょっと古びた感じだったが――確かに、そこは教室だった。絶対に、来たくなかった場所。
「起きたぁ? やっぱダメだねぇ、とーこーきょひじは。生活のリズム狂っちゃってんじゃないのー?」
幸乃の耳に、丁度今朝方玄関で聞いたそれと似たような(しかし、あの少し関西訛りのような響きは無い。別人だろう)若い女性の、けだるげな声が届く。幸乃がそちらへ視線を向けると、色を抜いた金髪のショートカットの、派手な――俗に言う、ギャルっぽい外見をした女性が、教卓に寄り掛かるようにして立っていた。
「あのー、あなた…誰ですか? ついでにもーいっこ、ここ何処なんですか?」
幸乃は毛先が少し不揃いなまま伸びた(これにはちょっとした理由がある)黒髪を揺らして、もう一度辺りを見渡しながら彼女に訊ねる。部屋中に漂う、木と埃の匂い。確かに幸乃の通う(実質的には通っていなかったが)丹羽中学校はごくごく普通の公立中学だったものの、少なくともここまでぼろぼろではない。
それに今朝、玄関で自分を襲った謎の女性――まさか、強盗とか、変な事件とかに巻き込まれたとか? 幸乃は小さく頭を振るって、その考えを打ち消す。何が楽しくて、ギャル強盗さんがあたしをボロい学校に閉じ込めたりするの? それに、この人――あたしが不登校だって事も、知ってるみたい。やだ、ご近所で噂になっちゃってるとか? 鬼頭さんとこの娘さん、ひきこもりなんですってね、とか嫌味言われちゃったりして。親戚の皆さんの恥さらしみたいになっちゃったりして。ごめんねお父さんお母さん、こんなヒッキーな娘で。あたしが原因で夫婦仲がこじれちゃったりしたら本当に申し訳無いよ。

「ん、そろそろ時間だしね。お答えしまーす」
女性は手元の腕時計にちらっと目を落として、どんどん別の方向へ暴走している幸乃の思考にブレーキをかける。実に簡潔に、女性は言った。
「名前、榎本あゆー。職業はぁ、プログラム担当教官でーす。ここはそれの会場だよー」
「…………はい?」
榎本あゆ、と名乗った彼女の言葉に、幸乃はほんの数秒固まり――それから、小さく訊き返す。
「あの…今、なんて言いました?」
小首を傾げる幸乃にあゆはにっこりと笑顔を返し、ごく軽い口調で続ける。
「鬼頭幸乃ちゃん、あなたのクラスはプログラムに選ばれましたー。ガッコ行ってないみたいだけどぉ、一応在籍してるからねー、下っ端のリナちゃんがお迎えに行ってくれたんだ☆ 後でちゃーんとお礼言わなきゃダメだよぉ? あ、もーすぐお隣のきょーしつに他のコたちも来るからぁ、それまでココで待っててくれる?」
幸乃はあゆの言葉の50%すらも理解できなかった。ただ、耳に残っているのは――“プログラム”、という単語だけ。
プログラム――え? 嘘、まさかなんであたしのクラスが――
手の平に、急速に汗が滲んできているのがわかった。殺し合い? 死ぬの? あたしも、茉莉子も桃ちゃんも――
幸太も?

ふと、昨日の事が幸乃の頭に思い返される。
昼過ぎ、突然電話が鳴って――その時も、居留守を使った。留守番電話の、事務的な口調のアナウンスと発信音の後に、彼からのメッセージは入っていた。
『あ…もしもし、鬼頭? 俺、荒川っす。あの、あした…修学旅行、だからさ。良かったら、来いよ。遠藤も、みんなも待ってるし――じゃ、またな』。懐かしい、
荒川幸太(男子1番)の声だった。心なしか少し低くなったような気がするその声を、幸乃は電話機の録音メッセージの再生ボタンを何度も何度も繰り返し押して、聞いた。未だに恋しい彼の声を聞きながら、思った。
もし――もしもあの日、あたしがあんな風に遮ったりしなかったら、幸太とあたしはどうなってたんだろう。
目を閉じて、幸乃はあの日の事を思い返す。中学二年の夏休みの終わり、8月31日。突然、幸太に誘われて一緒に遊んだ、あの日。
帰りに公園に寄って、お喋りして。
飲んでた缶ジュースを、幸太が間違えて、あたしの方のを取っちゃって。口を付ける前にあたしが気付いて、慌てて言ったんだっけ。「幸太、そっちあたしのだよ!」って。
幸太はいつもみたいにふざけて笑いながら「ごめんごめん。間接キス、奪っちゃうトコだったなー」って言って。あたしも笑いながら、「そーそー。奪われちゃうトコだったじゃん、初めてなのに」なんて、言って――
いつもみたいに、そうやってふざけて笑いあってるトコだった。
なのに、幸太があんな事言うから。
「でも俺、鬼頭のだったら奪っちゃってもいいよ」
幸乃は一瞬固まって、その言葉の意味を考える。幸太の顔を見ると、いつものふざけた顔ではなく、真剣な目をしていて。
「俺さ、ずっと、鬼頭のこと――」
――ちょっと、待って。
この続きは、最高に鈍感な(茉莉子曰く、だけど)あたしでも、わかっちゃうよ。
「――どしたの?」
気が付けば、幸乃は首を傾げて笑っていた。続きを、聞きたくなかった。
「どしたの? なんか今日の幸太、変だよー?」
そんな事を言って、笑って誤魔化して。
しかしその行動は、幸太の気持ちに応えられないから、というものではなかった。だって、あたし――幸太のこと、好き、だったし。
それでも――怖かった。幸太の気持ちを知れば、友達のままでふざけ合ったりできなくなっちゃうんじゃないか、と幸乃は不安になった。今のままで笑い合ったり、ふざけてじゃれ合ったりできなくなるのかな、と思うと、怖かった。
臆病者。たぶんあの日から、あたしと幸太の間には小さな空間が空いてしまった。もう、体をくっつけてふざけ合うことなんてできない。たった1センチ、ううん、1ミリくらいかもしれない。ほんの小さな間。それでも、間には変わりない。1ミリでも100メートルでも、間が空いてしまった事に変わりはないから。あたしが、あんな風に遮ったりしてしまったから――臆病者!


がたん、と音がする。木製の椅子の鉄パイプが床に叩き付けられる音。
それすらも、幸乃は認識していなかった。自分が思いきり椅子を投げ飛ばした事も、それから火が点いたように手当たり次第物を投げた事も、何一つ認識してはいなかった。頭の中は真空だった。窓に向けて投げた花瓶が、窓に貼り付けられた鉄板にぶち当たり、がしゃん、と派手に音を立てて割れる。
「きゃわー、ぶっ壊れちゃったよこのコ。ほっそい体してる割に力持ちだねぇ、幸乃ちゃん」
あゆは教卓の陰に滑り込み、部屋に飛び交う椅子やら机やらを避けながら呟いた。教室の入り口に立っていた兵士が、未だに暴れ続ける幸乃にマシンガンを向ける。しかし教室のドアが開き、廊下から伸びた白い手がそれを制した。
「止めなさい」
どこかぼんやりとしたその声に、兵士は思わず「で、出たぁ! ユーレイ!」と叫び声を上げ、マシンガンを取り落としそうになる。しかし、幽霊ではなく人間だった。透けるような白い肌に、ほっそりと痩せた体。長い黒髪。確かに幽霊のような外見だったが。
そのまま、ゆっくりとした歩調で教室の中に入っていく彼女の姿に、幸乃の手はようやく止まる。彼女の顔を見ると、幸乃は驚愕して口を開く。
「どうして? どうして、あなたが……ここに、居るの」
「さあ、どうしてかしらね」
彼女はその白い顔に薄く微笑を浮かべ、幸乃の疑問をはぐらかす。その笑顔のままで、彼女は言った。
「鬼頭さん。あなた、ずっと、苦しかったんでしょう? 辛かったんでしょう? 私も、同じよ。お友達ね」
彼女の言葉と、何よりその薄気味悪い人形のような微笑みに、幸乃の足がじりっと後ろに退いた。何か、得体の知れない恐怖を感じた。彼女は微笑みを貼り付けたまま、言葉を続ける。
「だから――私が、楽にしてあげるわ」
それを言い終えるか否かのところで、彼女の手がその腰のあたり――ロングスカートを捲り上げて(若い女性がなんて事を)その細い腿、黒のガータベルト(黒! しかもレース付きだ、居るよね、服は清楚なのに下着だけ凄いおねーさん)の辺りに重ねて付けられた同色のホルスターから拳銃を抜き出し、素早く幸乃に向ける。――何? なんで、なんで銃なんか持ってるのこの人! 再び疑問が浮かんだが、それを振り切って幸乃は叫んだ。
「あたしは、あなたとは違う! 辛くたって、もうこのまま逃げたりなんかしたくない! あなたなんかとは、違う!」
あの日からずっと、逃げてた。向かい合う事を恐れて、避けてた。あたしは弱くて、臆病で、あんな風に幸太を傷付けて、久米ちゃんたちの行為に負けて、茉莉子に心配ばっかかけて――もう、そんなのは嫌。逃げない。強く、なりたい。
幸乃に銃を向けたまま、彼女はトリガーに掛けた指に力を込めた。
彼女の薄い唇がすっと細くなり、気味の悪い笑顔をつくる。
「わああああああっ」
叫びながら、幸乃は正面から彼女に突っ込んでいく。ごめん、茉莉子、幸太――あたし、先にいっちゃうかもしんない。でも、どうか救かって。どうか、こんな腐ったゲームなんかに負けないで。
銃声、三発。
しかし、薄く煙が上がったのは彼女の握る銃からではなく、幸乃の丁度後ろに立っていた榎本あゆの握る拳銃の、銃口からだった。幸乃の左胸には綺麗に三つ穴が開き、そのまま幸乃の体はどっと床に倒れ込む。彼女は少し眉を寄せて、怪訝そうに言う。
「…邪魔、しないでいただけるかしら?」
あゆはちょっと肩をすくめて銃を降ろし、困った奴だ、とでも言いたげに彼女に向き直る。
「どこぞのお嬢様だか軍人の娘だか知んないけどー、あなたに幸乃ちゃんを殺す権限なんか無いんだよぉ? ――あたしだったら、別だけどね」




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