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 逃げんな。きみはそんな我慢すんな。何回目かのときに言われた言葉を、何故か今思い出している。確かあのときは思いきり腰が逃げて、ベッドの縁で頭を打ってしまった。間抜けな記憶に頬を歪め、彼女は身を起こす。この家にはベッドがないから、頭を打ったり転がり落ちたりする心配はない。

 台所に行き、コップに半分ほど注いだ水を飲み干す。我慢をやめると、喉が渇いて仕方がない。下着の中がまだ湿っていることにうんざりしながら、トイレに向かう。昨夜きちんと始末をしてから寝たというのに、拭いても拭いてもきりがない。

 冷たい水は好きだ。飲むのも、触れるのもいい。朝一番にとびきり冷たい水で顔を洗わなければ、わたしのスイッチは入らない。ようやく倦怠感から解放され、彼女は洗面台のタオルで首を伝う雫を拭う。
 彼女は台所に戻り、二杯目の水に口をつけて、居間を見渡す。ずっと眠り続けている、うら淋しい女の気配に、ただ眉をひそめる。



 ニコは千聖のこと、好きじゃないような気がする。そう洩らした友人の表情が、別人に見えた。
 こいつのキャラじゃねえ。つうか、なんで俺に言う? 三年のアタマっからこれか?
「……他に好きなやつがいる、とか?」
 間野陽希(十五番)は考えた末、問い返した。視線は明後日の方を向いている。教室内の喧騒の中、いつも山県千聖(十六番)と一緒に騒いでいる横田愛(十七番)の姿が視界に入り、げらげら笑ってんじゃねえよ白豚、と内心悪態をつく。こっち助けろよ。おめーの連れ今日なんか変なんだよ。

「だねー……」千聖は頬杖をついたまま頷く。「ニコはなんも言ってないけど、そんな気がする」
「気がする……つっても」
 遠い目をした千聖を横に、いよいよ陽希は逃げ出したくなる。あーもう、ニコ。そもそもお前が全部悪い。いい加減顔出せよ。フるならちゃんとフってやれよ。

「ニコがなんも言ってねえなら、ほっときゃいいじゃん」
 半ば投げ槍に、陽希は言う。「俺だってわかんねえよ。あいつ、なに考えてんだよ」



 なに考えてんのあんた。と、言われても、なにも考えていないのだから返す言葉はない。強いて言えば、彼は自分の母親がなにを考えているのか考えようとしている。
 子どもがおかしいから不安だ、学校でなにかあったのか、なにもなければいいがこの変調は思春期特有の一過性のものか、それとも早くどこかに相談した方がいいのか。
 安易に思いついたそれらは、一般的な母親の枠にはめて考えたものばかりだ。外れではないだろうが、母は一般的な母親とまとめ切れるものではなく、同時に一つの個人であるから、こうして枠にはめるのは失礼なことかもしれない、とも考えている。

 自分のルーツでありながら、他人は未知だ。なんちって、と彼は心の中で付け加えて、らしくもなく考えるふりをするのをやめる。

 久しぶりに学生服に袖を通して家を出たのは、なんだかんだと言いながらも毎朝黙って食事を用意してくれる母親への、彼なりの配慮だった。流石に始業式から、学校行く気ないです全開、の私服姿で外出するのは、気が引ける。彼は数ヶ月前まで歩き続けていた通学路を、ゆっくりと進み、引き返すことを繰り返す。
 学校行きますオーラとか出すんじゃなかった。ないもん出してもあとでボロが出るだけだろ、あーもう十分前の俺バカバカバカ。彼はしかめ面で、ポケットの煙草を取り出す。咥えてライターで火を点したところで、今は中学生のシンボルを身にまとっていたことに気付く。学生を捕まえて説教する類の人間に捕まったら面倒だ。が、隠れるのはもっと面倒だ。
 行くつもりもないのに、彼は咥え煙草で通学路を歩き出す。家の鍵と煙草と、少々の小銭を、ポケットに突っ込んだだけで通学路を歩くのは、まずまず爽快だった。教科書、ノート、筆記具、携帯電話、制汗スプレーとガム。今思えば、よくもあんな重装備での通学に耐えられたものだと、我ながら感心する。

 踏切の前に差し掛かったところで、彼は眉を上げた。小走りに踏切を渡っていくのは、見慣れた紺のセーラー服だった。この時間に登校中の誰かと出会すことはないだろうと思っていたのが、意外にも彼女を見つけてしまった。珍しい、あいつが遅刻ねえ。走れば間に合うか。頑張れゆきりん。かんかん、と音を立てて降りていく遮断機の向こうで、長い髪を揺らして彼女は走る。

 彼はその背中を見つめたまま、煙を吐く。遮断機をくぐって、彼女に追いついて、肩を叩いて一緒に走ることを、想像する。彼女の背中は、ただ遠くなっていく。

「ユキさ」

 呼び止められる程度の声量で放った彼女の名前を、通り過ぎる電車が掻き消していく。
 彼らを遮る轟音の中で、コンクリートに煙草の紙巻が落ちる。履き潰したスニーカーに踏み躙られて火が消えると、過ぎ去った電車の向こうにはもう、彼女はいなかった。



「教室には行かないのかい」
 水道場に座り込んだ黒い影が、男の声に気付いて振り返る。サボっているところを呼び止められたにも関わらず、後ろめたい様子はなく、ただ見慣れない男の姿に目を丸くしている。

「先生? 新入りの人、っすか」
「まあ……そんなようなものだね」
 伸び放題の茶髪、学生服の襟から覗く黄色いシャツからは不真面目な印象があるのだろうが、程度よくくだけた口調が親しみを感じさせる。きっと方々から受けがいいタイプだろう、と思いながら、少年の子どもらしい笑顔を見つめる。
 日光健一(十一番)。二年後期より欠席が続き、本日も登校せず、とあるが、教室に行っていないだけで一応のところ登校はしているようだ。お迎えの手間が省けた、と彼は一息吐く。

「先生のような……なんすか、それ。変わってますね」
「きみの方こそ。こんなところで時間を潰すのは、退屈じゃないか」
「あー……なんすかね、暇っちゃ暇、ですけど」
 少年は曖昧に笑顔を崩し、頭を掻く。

「一休み、してます。ちょっと」
「一休み、か」
 彼が頷くと、少年は促されたように続ける。

「なんつうか、調子狂っちゃって、狂ったっきり戻らないような。別に戻ろうと思えば戻れそうで、どうってことないんすけど。ナメてんなーって自分でも思うんすけど……あー、駄目っすね。俺なに喋っちゃってんの」

 やっぱひきこもると駄目かー、と溜め息を吐いたきり、少年は口を噤んだ。

「ナメている、とも思わんが」
 そのつもりもないのに、ぽつりと彼は洩らした。
「へ? まじすか」
「ああ」
 彼は頷く。「中学生、というのは、明確な根拠の伴わない義務を感じるものだろう」
 言ってから、喋りすぎだと彼は口を噤む。きっと少年が語ったときも同じ調子だったのだろう。本題に移ろうか、と彼は苦笑混じりに言う。

「日光健一くん。調子が狂っているところ悪いが、これからきみには、義務に基づいてプログラムに参加してもらう訳なんだ」
「へ? まじすか」

 少年は全く変わらない調子で言ってから、思い出したように「あー、あれかあ」と呟いた。仮面を外したように、ようやくその表情が消えた。



表紙

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