頭に靄が付き纏うような感覚に、眉を潜める。眠り過ぎた日のように頭が重かった。この感覚が嫌で、彼は休日もあまり寝過ごさないよう注意しているのだ。後頭部を揉んで首を鳴らすと、金属が触れたような冷たい感触があった。指でなぞれば、その硬いものは自分の首をぐるりと一周している。明らかな異変に気づき、坂井田貴也(五番)は素早く身を起こした。
そこは教室だった。見たことのない、来た覚えのない教室だ。広さは自分たちがこれまで通っていた教室と相違なかったが、床板は木目になっている。窓や出入口も、塗装の剥げかけた木材で組み立てられている。校舎自体が違うのだ。貴也は眉根を寄せる。
今日は始業式のはずだった。三年に進級したからといって、自分たちが別の校舎へ移ることになる訳がない。生徒数の少ないこの学校では、一年から三年まで変わらず同じ校舎を使っている。ただ階段を上がる手間が増えていくだけで、今朝も貴也はうんざりしながら一つ上の階まで上がり、三年生の教室へ入ったはずだ。黒板には教室内で待機、と板書があったが、なかなか教員が姿を見せなかった。時間潰しに本を読んでいたところまでは覚えているが、内容がほとんど思い出せない。構わない、文学は基本的に不要な学問だ。貴也は軽く首を回す。
床を埋める紺色の学生服はどれも寝そべったままで、ひとまず彼は最も手近にいたものに手をかけた。俯せて派手に散らばった巻き髪は、間違えようがなく中村美月(九番)のものだ。うなじには自分のものと同じように、首輪が嵌められている。
「おい」
肩を引いて仰向けにさせる。瞼の下に虫のようなものが見え、貴也は一瞬ぎょっとする。よく見ればどうやらそれは、外れかけた付け睫毛らしかった。
「起きろ。おい」
確かに美月ではあった。が、入念に施したであろう化粧が崩れ、髪が乱れたそれは、一束三十円くらいの女に見えた。どこか申し訳ないような気になって、貴也は彼女の肩から手を離す。
「あのー……坂井田」
背後から聞こえた声に、貴也は振り返る。聞き覚えのある声だ。「起きたんだ?」
日光健一(十一番)は教室の後方にいた。壁にもたれるようにして座り込んだまま、貴也へ向けてふらふらと手を振っている。「ひさぶりー」
「お前」貴也は声を上げる。驚きのためか、その声は彼の意思に反し大きく室内へ響いた。
「日光、来てたのか? いつからいた」
数ヶ月ぶりに見る彼は、相変わらずの笑顔で頷く。
「おう。んっとね、今日は全員揃わなきゃいけないみたいだから」
「……え、ニコちゃん? ニコちゃんだー」高い声が響く。次いで軽快に足を鳴らし、藤澤楓(十三番)が彼の元へ跳びかかった。
「楓ちゃーん」
おさげの揺れる頭を撫でて健一は応じる。「なにもーこいつ可愛いやつ。よしよし」
「ニコちゃんいつの間に来てたの。楓ね、またニコちゃん休みかなあって」大げさに眉を寄せ、楓は辺りを見回した。「みんな寂しがってて、ほら、ちさっちゃんも元気なかったんだよー。大丈夫なの? なんでずっと休んでたのー」
「そっかあ、んー……」健一は困ったように笑い、それから頷く。
「ごめんね楓ちゃん、俺は大丈夫だよ」
「大丈夫? 元気?」楓がぱっと笑顔になる。
「元気元気。めっちゃ元気」
「ほんとに? よかったー」
室内では、既に制服姿のほとんどが身を起こしていた。ニコ、え、ニコ? ニコが来てるの、どうしたんだよお前。室内のあちこちから上がる声に、健一は変わらず笑顔を返している。楓は笠原幸名(一番)が起き上がったのに気づくと、「あ、ユキ。起きたのー」と立ち上がり、慌しく離れていった。その背中を視線で送り、貴也は口を開く。
「日光」
健一の視線がこちらを向き、くしゃっと歪む。「楓ちゃんてまじ可愛いよな。お前もそう思うだろ、ぶっちゃけ」
「お前」遮るように貴也は続ける。「なにがあったか知ってるか」
彼の笑顔が消える。苛立ちを覚え、貴也は腕を組み直す。こいつもそうだ、いつも馴れ馴れしくへらへらしているだけで、大事なことはなかなか言わない。座り込む制服姿の隙間を縫い、貴也は彼の元へ歩み寄る。
「知ってるなら言え。大体は予想がつく」身を屈め、座り込んだままの健一に耳打ちする。彼は僅かに眉間を開き、しげしげと貴也を見上げた。
「……なんだよ」貴也は怪訝そうに顔を歪める。
「いや……坂井田ってすげえな」弱々しく笑ってみせ、健一は頷く。
「考えたこともなかったわ。俺は」
それぞれが何事かと交し合う声の中、彼はそれきり口を噤んだ。貴也は舌を打ち、壁に寄りかかって室内を睨み回す。やり場のない怒りを露にした視線に反応してか、河野花梨(三番)が振り返る。貴也と視線がかち合うと、不安げな彼女の表情が一変した。眉を吊り上げ、なに見てんのむかつく、とでも言いたげに口を歪める。
いちいちうざい女。鼻を鳴らして貴也が目を逸らすと、いよいよ花梨は立ち上がり、大股で彼へ詰め寄った。
「なに怒ってんの」
甲高い花梨の声に、はあ? と貴也の口元が歪む。言葉を返す間もなく、彼女の視線はその足元へ動く。
「ああ、誰だっけこのサボり魔。お元気かしら」
もう何ヶ月もまともに顔を合わせていないにも関わらず、忌憚ない口ぶりだ。花梨の嫌味な笑顔に、健一は苦笑を返す。「河野、おっまえ相変わらず可愛くねえ」
「うっさい。あたしのことどうこう言ってる暇があるわけ」
ぴしゃりと言い放って、花梨は目を逸らす。泳ぐ視線の先に山県千聖(十六番)の気配を感じ、貴也は溜め息を吐く。校内での交友関係が薄い貴也ですら、健一と千聖が交際していることは知っている。交際があまり順調ではないことも、察してはいる。が、知ったことではない。
「ま、あたしの知ったことじゃないけど」
花梨は呆れ混じりに首をすくめる。またか。貴也は舌を打った。腹立たしいことに、この女とはときどきなにかが通じ合う。通じ合ってんじゃねえよという類の怒りで彼女を睨みつけると、背中の向こうに田島歩(八番)の姿を見つけた。
「ニコ」
「おー。たじまっくす」
無防備に笑い合う二人の笑顔は、やはりどこか似ている。
「元気そうじゃん。にしても頭、すげえな」歩が自身の髪を指して言う。「ほんとに」、花梨が付け足し、手首に通したヘアゴムの一つを健一に投げる。「使えば。ひどい頭だよ」
「中身もそれ以上ひどくなってないといいな」貴也も顔をしかめて言い添える。
「なりようがないでしょ。ぼっさぼさのサボり魔が」花梨がさらりと言う。
「すげえよ。よくそこまで我慢したなあ」歩が感心したように頷く。
「……お前らさあ」肩まで伸びた茶髪を掻いて、健一は情けなく笑う。
「まあどうでもいいけど、なんなのここ?」
花梨が眉をひそめる。健一の表情が動きを止めたのに、彼女が気づく様子はない。
「これ、鬱陶しいなあ」首輪を掴んで歩が呟く。「外れっかな。んー」
「やめろって」
健一は鋭い声を上げ、身を乗り出して制する。何故叱られたのかわからない子どものように、歩は目を丸くする。花梨も眉をひそめる。「なに、急に」
「それ外したら危ねえ、って」
健一が続けるのと同時に、教室の前方にあるドアが軋み出す。
「誰がそんなこと言ったの」
花梨が詰め寄る。軋んでいたドアは、ようやく軽快な音を立てて開く。
室内が俄に静まり始める。生徒たちの視線を集めながら、軍服姿に続いて男が入ってくる。スーツもシャツも、髪の色も黒いのに、重苦しい雰囲気はない。しゃんとした立ち姿からか、さっぱりとした淡白な面差しからか。貴也にとっては、それさえも苛立たしいばかりだ。
「あの人」
健一が視線で指した先、男は教壇の中央に立っていた。室内を一通り見渡すと、ファイルを脇に抱え直して、深く一礼する。顔を上げて、男は微笑する。
自身の考えが当たっていることを察し、貴也は不快に眉をひそめる。花梨が問うように向けた視線の先には、当然のように彼がいる。舌打ちが洩れそうになって、貴也は瞼を伏せた。
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