四月、か。じゃあうん、四番の人……ああ、近藤。まあきみから。呑気な三上の声がまだ耳に残っている。じゃあうん、じゃない。冗談じゃない。そんな、授業中に質問する生徒を決めるような適当な選び方をされては。近藤真彩(四番)は愕然とし、しかしなにも言えずに教室を出た。歩け。言われるがままに階段を降り、銃を突きつけられつつも北舎を出、渡り廊下に足を踏み入れたところでようやく解放された。非常扉の閉められる乱暴な音に、心臓を握り潰されながら。
十四歳の彼女は、腰が抜ける、という感覚を生まれて初めて味わうこととなった。
なんであたし四番なのなんであたし四番なのなんであたし四番なの。同じ問いが三度、薄汚れた廊下の上を巡り、四度目はなかった。不器用に引いたアイラインが涙に滲み、目尻を汚して、頬を伝い落ちる。涙が出たことに気づく、間もなく、喉奥が震え出す。わあああああん。思いきり声を上げるしかなかった。嫌だ、嫌だ、真彩こんなの嫌だあああ。おばあちゃあああん。
中学一年のとき、髪を赤く染めた女子に声をかけられ、遊びについていったのが全ての始まりだった。少々の悪ふざけは若気の至り、と許されるものだと彼女は思い込み、友人たちと夜な夜な悪い遊びを繰り返した。数学の授業がまるで異次元世界の交信電波と思えるほどに遅れを取った頃、寛大な母親の堪忍袋の緒が遂に、切れた。携帯電話の没収、一週間の外出禁止の後、彼女は隣接した市に住む祖母の元で軟禁生活を送ることとなる。気がつけば、もう中学生活も最後の一年を残すのみとなっていた。
悪友との関係を断つため、このまま祖母の家が学区となる中学に転入すべし。それが母親の下した最終的な措置だった。決意すると行動せずにはいられないこの性格は、きっと母から受け継いだものだと、真彩は考えていた。
しかし彼女は悲観しなかった。心配して自宅まで電話をかけて来てくれた友達もいる。本気で会おうと思えば、自転車をもりもり漕いで沙希の家までいけばいい。どうかすると、高校で再会することだって考えられる。ここの中学にだって、きっと気の合う子がいる。きっとまた、なにか面白いことが始まる。なにか新しいことを始める、いいきっかけになる。おばあちゃんのつくる美味しいご飯も、毎日食べられる。うん、よかったじゃん。正しい箸の持ち方は云々、という祖母の小言を聞き流しながら、真彩は全くもって楽観的に、新生活への期待を膨らませていた。
なのに。大きくしゃくり上げる。酸素が。酸素が充足していて、なのになんか苦しい。あああああ、と、吐く。小さな胸が、大きく波を打つ。息を吸って、吐くことしか、意識できなくなる。
無様な泣き声に非常扉の向こうで兵士がうんざりしていようが、初日だからと張り切って施した化粧が無様に乱れようが、そんなことを察知するだけの余裕は、今の彼女にはなかった。なにも考えられず、今の真彩にできる唯一が、泣くことだった。
豪快に鼻を啜り上げ、次の瞬間、真彩の身体は硬直した。徐々に近づいてくる足音を耳に拾い、叫ぶだけ叫びすっきりとした頭で、考えた。来た。やばいどうしようこんなとこで座り込んで泣いてる暇なかった。出てくる。誰? あああの子がいいってかあの子くらいしかちゃんと覚えてない、横田愛(十七番)。転校生を見つけるなり駆け寄って質問攻めにし、かと思えば教室中を自由に駆け回る彼女は、真彩にとって非常に好ましい存在だった。変だとか恥ずかしいとか、そんなことには囚われず、素直に友好的。真彩もそんな風になりたくて、なりきれなくて、だからいいなと思う。
だが、行き当たりばったりな彼女の都合を通すほど、現実は甘くはない。
錆びた金属の擦れる低い音とともに姿を現したのは、黒い髪の男子だった。陰鬱な表情で真彩を見下ろし、小さく舌打ちを洩らす。
真彩は目を見張った。名前こそ思い出せないものの、見覚えはある。登校時に昇降口で目が合ったのだ。なんか変なの来たし、と言いたげな顔で真彩を一瞥したきり、颯爽と階段を上がっていきやがった彼だ。違う世界の人、という感じがした。なんかエリートのオーラが出てた。
「そこ」
彼はぽつりと声を洩らす。「どけば。次のやつも通るし」
「あ……ああっ。そうやね、ごめん」
真彩は慌てて荷物を抱え直し、立ち上がって渡り廊下の壁際へ寄る。中庭へ開いた通路まで後退ると、改めて彼へ向き直り、不機嫌そうに細められた目を見る。
「えーっと、名前覚えてないんだけど、誰だっけ」
遠慮がちに笑い、真彩は今朝教室で見た座席表に連なる名前を、必死に辿っていく。勉強のできない彼女だが、暗記にだけは自信があった。「待って、即行思い出すから」
しかし彼は目を逸らした。デイパックに突っ込んだままの片手を、落ち着きなくまさぐっている。彼の発するエリートオーラが、僅かに霞んでいくのを真彩は感じる。ただ気分を害している、というだけではない、居心地の悪そうな表情。
真彩は察した。きっとこんな彼にも、友達がいる。家族もいる。今のあたしは、ここで一人きり。誰とも繋がってない。目を合わせてもくれない。
「待って」
彼女の悲鳴が上がるのと、ほぼ同時だった。彼の手に握られたナイフの刃先が、迫ってくるのを見る。「お願いやめてっ」
真彩は身を翻して走り出す。足が遅い、どんくさい、こんなあたしに逃げ切れる訳がない。わかっていても、上履きは中庭の土を蹴る。
「嫌だそんな痛そうなの、嫌、絶対嫌あああっ」
背中を貫く衝撃を受け、真彩の身体は前のめりに倒れこむ。痛い、叫び上げそうになったそのとき、背中の熱が再度真彩の声を奪う。
「悪い」彼が言う。本当に悪いと思っているのか疑いたくなる声、だが真彩はそれでようやく、彼との繋がりを持てたような気持ちになる。思い出した彼の名が、縋るような声となって洩れる。
「さかい、だくん……だっけ」
返事の代わりに、舌打ちが聞こえる。やっぱこの人友達いないんじゃないか。場違いに考えを過らせるが、背中の痛みは紛れない。真彩は奥歯を軋ませて、必死に言葉を吐き捨てる。
「痛い。まじ、死にそう。なんとか、せえよ。たわけ」
「雑魚のくせに口が減らないな」
こいつ絶対友達いねえ。ほぼ確信を持った真彩の額に、彼の手が触れる。首筋、耳の下辺りに濡れた感触がある。ここを一気に、ということだろう。真彩は目をきつく瞑る。死にたくはなかった。愛ちゃんと友達になって、たまには家に帰って、沙希にも会いに行って、ああ、帰りたいなあ、帰っておばあちゃんのご飯を。
坂井田貴也(五番)の動きは迅速だった。俯せた彼女の肩からデイパックを抜き取り、すぐさま背を向けて醜く薄汚れた校舎へと走り出す。右手にちらついた階段を瞬時に見過ごしたのは、彼が無駄な体力の消費を嫌うからだ。素早くはあるが、持久力はない。頃合を見計らって動けばいい、と考え、彼は廊下を突き当たって美術室へ駆け込む。
二人分のデイパックを床へ投げ出す。ひとまず後ろ手に鍵を捻り、そのままドアに背中を預ける。ゆっくりとゆっくりと、右手を持ち上げる。強く握ったナイフの刃先が、赤く濡れて光っている。
一束三十円なんてものじゃない。二束三文の叩き売り女。そんなところだ。そんなところだったが、あれは確かに俺を見た。名前を呼んだ。
彼らしくもなく澱んだ頭で、考える。もっと早く動くべきだ。躊躇する余裕などない。もっと、もっと速く。でなければ、追いつくことはできない。
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