[endless]
迷走は終わらない。走る。ただ走る。出口のない迷路をぐるぐると巡り続けるようなその行為に、意味など見つけようがない。九十九パーセントプラスに転じることのない事態。
それでも逃げ続けるより他になかった。
「死ねよ、なんで当たらねえんだよお前ら当たれ、死んじまえ」
背後から響く男子生徒の涙ぐんだ怒号に、銃声が被さっている。叫び出しそうになるのを堪えて足を速め、彼女の手を強く握り締める。柔らかい感触は命綱だった。それがなければきっと、彼の方に行ってしまう。死ね死ね死ね全員死んじまえ。背中を追ってくる彼のように口走りながら、凶器を片手に底なし沼へ堕ちてしまう。
ぎりぎりのところでこちら側へ繋ぎ止めているのは、握り締めた彼女の手だけだ。
「やめ」
高まる心臓の鼓動に合わせて声が洩れる。「もう、やめよ、やめて」
言葉は悲痛に空を流れていく。誰も君を殺そうとなんてしていないよ。もうやめよう。こんなこと、なんの意味もないじゃない。思っているのにやはり、足を止めることは出来ない。足を止めて彼を受け止めるべきなのだろうか。それからでないと、この言葉は彼に伝わらないのではないのか。しかし彼女はどうなる? もしも足を止めて彼女が撃たれてしまったら。繋いだ手に再び力がこもる。考えるだけで気が触れてしまいそうだった。
「黙れ、逃げんじゃねえよ! クソ、死ね、死ね死ね死ね死ね死ね」
彼の声が呪文のように繰り返される。耳を塞ぎたくなったけれど、それ以前に走らなければならなかった。どうしてこんなことになってしまったのだろう。こんな風に終わるのは嫌だ、もう少し、もう少しだけでいいから穏やかな時間を、どうか。
思考が遮られるのは唐突だった。鼓膜が破れそうなほどに巨大な音の正体を認識する間もなく、突き飛ばされるような衝撃が背中を走り、足が浮く。反射的に瞼をきつく閉じる。瞬間、学生服に覆われた肩が地面に叩きつけられ、体は蹴飛ばされた石のように転がっていく。頬の皮は擦り剥け、脹脛から腿へ、そして空いた左手に焼けるような痛みが走る。
連続したその感覚はとてつもない速度で体を駆け抜け、混乱だけを残していく。
一瞬の間に何が起きていたのかわからないまま、恐る恐る瞼を開く。見えたのは不揃いの雑草と砂利がところどころにちらつく、ただの地面だった。独特の生臭さが鼻をつく。今まで二人で、厳密には追ってくる彼と合わせて三人で走っていた道と変わりない。
はっとした。学生服の分厚い生地に包まれた左腕を地面に突き、右手をゆっくりと握り直す。少しふっくらとした、生温い掌の感触は確かに伝わってくる。
「みゆ、き」
男にしては高いとからかわれた地声が、思わず出ていた。これでは今まで一生懸命低い声をつくってきた甲斐がない。けれどそんなことはもう構わなかった。繋いだ彼女の手を引き、痛みに顔をしかめながらも振り返る。
土煙の舞うそこには誰もいなかった。目を凝らし地面を確認しても、誰もいなかったのだ。
何が起きているのだろう。眉をひそめて右手に視線を落とす。あの小さな手はここにある。去年の夏祭りに買った指輪の、細かく施された花細工もここにある。それを嵌めた薬指もここにある。だったらそれを照れ臭そうに隠してはにかむ彼女の顔も、ここにあるはずだ。
なのに何故ここには誰もいない? 彼女の頬につくられた笑窪を思い返しながら、もう一度強くその手を引き寄せる。引き寄せた腕がずるりと音を立てている。
一体何が起きているのだろう。
大きく裂けたセーラー服の肩口を、ただ見つめることしか出来ない。
何がどうなっているのだろう。
宝物だと言ってくれた安物の指輪。たおやかに折れた彼女の腕。その先にはもう何も残っていない。やんちゃな子供が人形をもぎとって奪っていったように、もうその手しか残されていない。
瞬きもせず彼女の腕を眺め、僕はそれが示す事実がどういったものであるのかをただ、考えた。テストの答案用紙を文字で埋めては消しゴムで擦るように繰り返し繰り返し、ゆっくりと考えていた。
わからなかった。わかるはずがなかった。わかりたくもなかった。
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