[01]

 曇り空に向けて差した青空色の傘を、雨が叩いている。ぱたぱたと小気味よい音が聞こえる。
 あたしは唇を噛んで押し黙り、湿った靴の先をただじっと見つめて立ち尽くしていた。そうするしかなかった。喉の奥に痞えているうねりは言葉にすると物凄くおかしなものになってしまいそうで、とても口にすることが出来なかったのだ。
 そろりと視線を動かす。あたしの白いスニーカーから一歩半離れたところで、同じように学校指定の白いスニーカーが水飛沫を浴びている。きっとスニーカーに被る黒いズボンの裾まで湿ってしまっているのだろう。

 あたしはそれ以上視線を持ち上げることが出来なかった。頭の中をぐるぐると巡る色とりどりの思考に混乱して、元は綺麗なクリーム色をしていたはずだった薄汚い校舎の外壁や、あたしたちの頭上に枝を伸ばす、まだ咲く気配も見せていない桜の木を挙動不審に眺めてしまいそうだったけれど。それでもやはり、どうしても彼の顔を見つめることが出来なかった。
 ああ、何やってんだろう。一色の思考があたしを導いていく。やめよう。やっぱやめよう。言わない、っていうか、絶対言えない。あたしは今まで通り、「同じクラスの女友達」でいよう。そうすればあたしはすぐにでも顔を上げて、言えるんだ。今日で卒業だね。寂しくなるね。たまには会って喋ったりしようね。
 それから何を言おうか、と考えたところで声が聞こえた。みずほ。いつもと同じ柔らかい声で、名前を呼ばれたような気がする。
 急速に頬が熱くなっていくのを感じながらも、あたしは顔を上げる。今呼んだよね? 聞こうとしてやめた、もしも空耳だったとしたら恥ずかし過ぎる。

「優」
 何かをごまかすようにあたしは口を開いた。はっきりと言いたいことが言えないとき、あたしはいつも彼の名前を読んでごまかす。彼は不思議そうに、もしかすると不思議そうなふりをしていただけかもしれないけれどともかく、小さく顔を傾げて「どうしたの」と言う。少し困ったような彼の笑顔に、あたしは歯痒い気持ちを隠して笑ってみせる。「なんでもない」。それでお終い。

 けれど今日は違った。彼は小さく顔を傾げることもなく、どうしたのと言うこともなく、不思議そうな笑顔を見せることもない。
 彼の上だけ日が暮れてしまったように見える真っ黒な雨傘の下で、眠そうに垂れ下がった瞼がくしゃっと歪んでいた。
 それはきっと笑顔であり、あたしが今まで見た中で一番悲しそうな表情でもあった。

 何故だろう。わからないけれどとにかく、彼の笑顔はあたしに向けられたものではないように見える。こちらを向いているのだけれど、あたしではない他の何かを見ているように思える。思い違いでも確信でもない、不確かな感覚。
 もしかしたらあたしの後ろに、誰かがいるのかもしれない。
 そう考えた途端、気配に背中を柔らかく撫でられたような気がして、あたしは振り返った。


「……みずほ。みずほ、起きて」
 ぼやけた視界の中に見慣れた顔がある。二回瞬きをしてその美しい顔をじっくりと見つめ、ようやくあたしの思考に混乱が訪れる。あたしの後ろにいたのは、綾? いや違う。曖昧になっていく夢の感覚がふわりと飛び去り、くっきりとした感触の記憶が浮かび上がってくる。
 卒業式は?
 綾(佐久間綾/女子六番)に優しく促され、ゆっくりと上体を持ち上げる。まだ後頭部のあたりにコンクリートが流し込まれたような重みが残っていたが、構わず辺りを見渡した。

「何……」
 掠れた声が洩れる。喉が渇いていたけれど、水を探そうと思うほどの余裕はなかった。
 目を擦ってみても、視界に広がる光景に変わりはない。円を描くガラス張りの壁とその向こうに巡らされた無骨な鉄板。円の外側に向けて取り付けられた望遠鏡。床に敷き詰められた青いカーペットの上、俯せている無数の制服姿。上方を仰げば同様に白い天井が続き、ところどころに付けられた照明器具が白とオレンジの光を交互に放っている。振り返ると閉ざされた白塗りのシャッターに、お揃いの白い壁が続いていた。

 巡らせた視線を元の位置に戻し、あたしは思わずもう一度目を擦っていた。見慣れた華やかな顔立ち、崩れかけているけれど美しい巻き毛も一応変わりない。けれどおかしい、たとえこれがアクセサリーだったとしても、綾がこんなものを身に着けるはずがない。
 彼女のほっそりとした首に似合わない銀色の無骨なリングを指差し、あたしは声を上げる。
「綾、それ」
「みずほも」
 あたしが言おうとしたことがわかっていたのか、綾は自身の白い首筋を示して答える。驚きのまま喉元に手を当てると、そこには確かに硬く冷たい感触があった。
 美しいラインを描く二重瞼をぱちぱちと音が聞こえそうなほど瞬かせて、綾は困ったように眉を寄せた。

「どうなってんだろね。綾もさっき起きたばっかで、なんにもわかんない」
 言いながらも綾はあたしを起こしていたときよりは安心した様子で、ほつれた巻き髪を整えている。少し前まで地味なストレートヘアに戻していたそれは、早々に華やかな巻き髪に返り咲いたのだ。綾は私立の推薦入試に合格してクラスの誰よりも早く卒業後の進路を決め、高校受験という息詰まったバトルから解放されていた。同じ推薦でもせいぜい、男子たちのけんかの仲裁役にしか推薦されないあたしとは全く大違いなものだと思う。
「遊びたいけど勉強も嫌いじゃないもん」。いつだったかそう言っていたけれど、綾は本当に器用なことにその二つの両立を実現してみせた。成績がいい為か器量がいい為か要領がいい為か、あたしにはよくわからないけれどとにかく、ネイルカラーも巻き髪も教師からはお咎めなしだ。
 コテの使い方も知らない女の子たちはそんな綾をどこか遠巻きにしている。けれどあたしは綾が好きだった。何も知らないお姫様のように見える綾があたしよりずっと色んなことを知り、考えているのだとわかったときから、あたしは綾に対して正直な憧れを感じていた。

 しかし流石に卒業式では、せっかくの巻き髪に水道水を吹き付けられてしまうかもしれないとひやひやしていたのだ。綾も今日は警戒しているらしく、「水道水は勘弁だから」とスカートのポケットにストレートフォームを仕込んで来ていた。それがどうだ、教室で式の開始を待っていたはずなのに担任の大川先生さえ姿が見えず、いつの間にか来たこともないところで綾に起こされて目を覚ましている。奇妙な首輪のおまけまでついて。

 おぼろげな記憶を整理する。確かにあたしは教室にいた。綾と翔太(川島翔太/男子二番)と、それから優(指方優/男子五番)。いつものように三人とお喋りをしながら、先生が来るのを待っていた。翔太が綾に冗談を言って(佐久間さん俺にもコテの使い方教えてよ)、からかわれて怒った綾を優が笑いながら宥めて。そこまではきちんと覚えている。それから優の様子が少しおかしくなり、あたしはどうしたのと訊こうとしていた。けれど頭がぼうっとして、結局何も言えなかったような気がする。

 思い出したように辺りを見回す。困惑した声がさざめく中に彼らの姿を見つけると、あたしは腰を上げた。
「起きろよ優、おーい」
 壁際に置かれた白いベンチの傍で、学生服に包まれた広い背中がもぞもぞと動いている。ベリーショートの女の子のように切られた黒髪ですぐに翔太だとわかった。翔太の髪型は小学生の頃からちっとも変わっていない。
 その横で彼はまだ眠っている。俯せになったその肩を翔太が揺すってあげているのが見えた。
「翔太」
 声をかける。振り返った翔太が脱力したようにちらっと笑い、細い目が一瞬だけ線になった。
「みずほ。佐久間も」
「優、まだ寝てるの?」
 背後で綾が言うと、翔太は眉をしかめて頷いた。「つうかここ、どこなんだろ」

 あたしは円を描くガラスの外側に向けて取り付けられていた望遠鏡のことを考えながら、ベンチの前に膝を付いた。望遠鏡があるところと言えば、展望タワーだろうか。どこであっても違いない、何かおかしなことが起きているのだ。
 一体何が? 何かのイベント……なんて、簡単なものじゃないかもしれない。事件か、事故か。どれも違うような気がする。何がどうなってしまっているのか全くわからないあたしには、カーペットの上に伏せられた優の細い肩を揺することしか出来なかった。

「優」
 幾分強めた口調で名前を呼ぶと、優は小さく身を捩った。無造作に伸びた柔らかい黒髪の隙間から、 彼の表情がちらっと窺える。額に浮かぶ汗。苦しげにひそめられた眉。小さく呻きを洩らす細い唇。整ったあくのない顔立ちが、怖い夢に魘される子供のように歪んでいた。
「どしたの……」
 驚いたのか、綾が背後から声を上げた。あたしはもう一度彼の名前を呼び、額に手を当てる。熱はなかったけれど、驚くほどひんやりとしている。
 どうしよう。綾に訊こうと後ろを振り返った瞬間、額を離れかけたあたしの手が物凄い力に捕えられる。
 優だった。目を閉じたままあたしの手首を握り締め、優は何かを言おうと唇を動かしていた。乱れた学生服の襟元にちらつく銀の首輪が妙に不安感を煽る。あたしは眉をひそめ、再び優の顔を覗き込んだ。
「優、今なんて言ったの? 大丈夫?」
 優。おい優。背中の向こうで綾と翔太も不安げに彼を呼んでいる。ようやくそれに反応したのか優がきゅっと眉をしかめ、瞼を開きかけたそのときだった。

「三十名全員、起きてっか」
 室内に大きな声が響き渡り、反射的に手がびくっと痙攣する。「おい、全員起きろ。さっさとしろ」
 喉に何かが絡んだように濁ってはいたけれど、それでも十分に威圧感を覚えさせる声だった。はっと身を起こした優が振り返り、あたしもそれに倣った。

 ドーナツ状になった壁の向こう側から、寝巻きのようにスーツを着崩した男がずかずかと歩いてくる。サングラスを掛けている所為で表情はよくわからなかったが、少なくともあたしの知らない人間であることは確かだ。彼の後ろには軍服にマシンガンのようなものまで身に着けて武装した何人もの男が、慌しい足音を上げて続いている。
「どうなってんだよ」
 怪訝そうに表情を歪めて翔太が呟く。それに答えることもなく、優はただ呆然と彼らを眺めていた。
 ふいに優の手が動いていた。糸で吊り上げられるように緩慢な動きで襟元へ辿り着いた白い手が、あの首輪に触れてぴくりと痙攣した。赤みの強い唇は小刻みに震えている。不穏な空気に背中を撫でつけられて、あたしは思わず学生服に覆われた彼の腕に手を触れていた。
 袖口を掴まれたことに気付いていないのか、優はまだ軍服姿の男たちに視線を奪われている。長い睫毛が忙しなく動く。明らかに優は動揺していた。

「優」
 指先に力を込めて、精一杯に唇を動かす。どうしたの。訊こうとしたけれどあたしは迷っていた。どうしたのと訊いても何も答えてくれないときが、たまにある。また優は何も答えてくれないかもしれない。
 眠たそうに垂れた優の二重瞼がようやくこちらを向いた。彼の黒目がちな瞳がじっくりとあたしを見つめる。初めて会った人間に向けるものに似た眼差しが、背中のざわつきを少しずつ膨らませていく。
 彼は強張った唇を動かし、囁くような声であたしを呼んだ。

 おいてめえ起きろ。男子十三番。お前だよ早く起きろ。激しさを増した男の声が耳をすり抜けていく。うっせえ。そこのメスガキども蹴られたくなかったら黙ってろ。全く手のかかるクラスだな。
 半ば怒鳴るように大きな声だったが、優の声は掻き消されることなくはっきりと聞こえた。当然だ、優はあたしのすぐ傍にいる。こんなにも近くにいるのに。

 みずほさん。みずほ。いつもおっとりと響く声であたしのことを呼んでいたのに、どうしてだろう。優はときどき、何かを思い出したようにあたしの呼称を振り出しに戻す。「高木さん」と。



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