[02]

「全員起きたな。おいそこ前向け、女子八番」
 不満気な大声が低く響き、みずほ(高木みずほ/女子八番)ははっと目を伏せた。ぼんやりとしたラインの二重瞼が、不安げに小さく動いている。
「お前だよ、八番……高木。高木みずほ、前向け」
 自分が呼ばれた訳でもないのに、身体がぎくりと硬直していた。俯くみずほの肩の向こうで、白いスーツ姿の男がサングラス越しにこちらを睨みつけている。僕が口を開く前に、みずほの肩に白い手が伸びていた。

「みずほ、呼ばれてる」
 小奇麗に整えた眉を下げてみずほを促したのは綾(佐久間綾/女子六番)だった。「今はあの人の言うこと、聞いた方がいいみたいだよ」
 綾も室内に漂うこの尋常でない空気をしっかりと感じ取っていたのだろう。器用な彼女らしい言葉にみずほは少しだけ笑顔を覗かせて頷き、僕に背を向ける。
 すっきりと手入れの行き届いたウルフヘアーの向こう、一瞬だけちらついた片頬の笑窪に視線を奪われた。額に残る汗の感触が気持ち悪い。ぼんやりと立ち尽くす僕の肩が、誰かにとん、と叩かれる。
「大丈夫かよお前。なんか調子悪そうだぞ」
 僕の肩に手を置いたまま、翔太(川島翔太/男子二番)が一重の目を更に細めている。
「あ……うん」
 お茶を濁すような声が僕の口から零れる。それとほぼ同時に、スーツの男が相変わらず不満気に声を張り上げていた。

「そこ、喋ってねえでちゃんと聞けよ。浜松市立第五中学校三年二組、三十名。お前ら今から」
 彼はそこで一度言葉を切った。サングラスの奥にある目は、僕らの顔をざっと見渡しているように見える。
「殺し合え。最後の一人になるまで、やれ」
 室内のあちこちでひそひそと話をする声が、このときようやく完全に消えていた。
 静まり返ったクラスメートたちの表情は窺えなかった。僕より前に散らばっている制服姿は皆背を向けて座り込んでいるし、後方にいるほとんどの表情を確認する為に振り返ることなど、考えも出来なかったのだ。

 僕は目を凝らしてただ彼らを見ていた。軍服。マシンガン。そしてサングラスの男が着崩した白いスーツの胸元には、桃を象った小さなバッジが確かにあった。
 間違いなかった。

「なんで」
 ややトーンの乱れた声がおずおずと静寂を破る。「なんで、そんな急に言われたってわかりません」
 僕はようやく振り返った。よく教室で聞いていた、女の子の声だった。

「あたしたち、今日卒業式だったんです。卒業するはずだったんです。なのにいきなりこんな、知らないとこに来てて……どういうことなんですか」
 声の主である山川(山川紗知/女子十四番)が慌しく瞬きをしながら続けた。ついこの間まで常用していた眼鏡は彼女の顔になかった。本命だった私立入試に合格したことをきっかけに、コンタクトレンズを使い始めたらしい。「合格したら買ってあげる、ってお母さんに言われてたの」。嬉しそうに笑う山川は、確かに眼鏡を外すとがらりと印象が変わる。
 動揺を隠し切れずも普段と大差ない彼女の口調に、周りの女子たちが次々と同意を見せる。そうだよ説明してください。あたしたちなんでそんな。ていうかあの人誰? そいえば大川先生は? 大川ちゃんに会わせてよ。少しずつ語気が強くなっていく。女の子は複数になるとやけに逞しくなるところがあるのかもしれない、場違いにもそんな考えが脳裏を過った。

 ふと視線をずらし、二人を見た。いつも僕の近くにいた女の子。みずほは困惑した表情のまま綾を見つめ、綾は唇を噛んでただ一点を睨みつけている。その視線を追って、綾が「殺し合え」と僕らに言ったあの男を睨んでいるのだとわかった。
 綾はきっともう把握できている。みずほは? 不安げに揺れる丸っこい瞳が僕へ向こうとしたその瞬間、再び響いた濁声がそれを裂いていた。

「お前ら中三だ、もうわかってんだろ」
 綾の長い睫毛が観念したように伏せられ、みずほは色味の薄い唇を微かに震えさせてただ一言、力なく呟いていた。
「嘘」
「嘘じゃねえ」
 静かな室内にぽつりと湧いたみずほの声に、スーツ姿の男が答えた。面倒くさそうに小さく首をすくめ、男は吐き捨てるような口調で続ける。
「お前らの担任は俺……紹介が遅れたが、ゴウダタケシだ。大川さんは最初反対してたけどなぁ、これ見たらひいひい泣き出しちまってよ」
 ゴウダと名乗った彼はスーツの内側から拳銃らしきものをちらつかせ、下卑た笑みに唇を歪めた。黄ばんだ歯の隙間から、滑稽につくられた声色が零れ出す。
「わかりました、お願いですから殺さないでくだひいい、とか言って」
「これは」
 不快を露に吐き出された怒声が、ゴウダの表情から笑みを消した。吹き飛ばした、と言ってもよかったかもしれない。それほど激しく、挑戦的に響く声だったのだ。

 だから僕には一瞬、それが翔太のものだということがわからなかった。きっと彼の幼馴染であるみずほでさえわからなかっただろう。わかったとしても、とても驚いていると思う。
 けれど翔太は堂々と立ち上がった。一文字に結ばれた唇を噛み直し、翔太は顔面を強張らせたまま言葉を続けた。
「……これは、プログラムなんですか」
 緊張に吊り上がった一重の目。思いつめたように曲がった唇。教室で冗談を言ってふざけている翔太とはまるで別人のような横顔を眺めながら、僕は聴覚が拾い上げたそれを頭の中でゆっくりと反芻する。

 戦闘実験第六十八番プログラム。
 軍服。マシンガン。桃のバッジ。首輪。
 それから、僕たちに「殺し合え」と言ったあの男。

「わかってんじゃねえか」
 彼は事もなげに言ってみせた。「お前らは対象クラスに選ばれたんだ。さっさと始めんぞ、お前も座れや」

 瞬きも出来なかった。これはさっきまで見ていた嫌な夢の続きだ。そう思いたかったし、既に僕のどこかはそうだと認めつつあった。にも関わらず僕は翔太の黒いズボンに手を伸ばし、ぐいと引っ張っていた。座れ、と促しているつもりだったのか。
 僕の手をやんわりと振り払った翔太の唇が、苦しげに震え動いている。喉元までに広がっていく震えは、無茶苦茶に苦い薬を飲み下すときのそれと似ていた。翔太は俯いて繰り返し息を吐き、それからくっと顎先を持ち上げた。

「おい」
 ゴウダの吊り上がった眉尻がサングラスのフレームから覗いている。やばい翔太座って、座れよ、座れってば。言いたいのに声は出ず、指先さえ動かない。翔太は口元を震わせながらも、ささくれ立った視線をゴウダに向けたまま座ろうとしない。
「……座れっつってんだろうが!」
 唾を飛ばしてゴウダが声を張り上げる。示し合わせたようなタイミングで軍服の兵士たちがマシンガンを持ち上げ、その銃口を一点へ集めた。先は勿論、翔太だった。

「翔太」
 凍りついた室内にみずほの細い悲鳴が響き渡る。夢でも嫌だ。僕がようやく腰を上げようとしたそのとき、翔太が大きく頭を振るっていた。
「俺は嫌だ」
 震えながらも、力強く通る声だった。「絶対に殺し合いなんか、しねえ」
 サングラスの上から再び眉毛が覗く。持ち上げた眉を下ろし、ゴウダは口角を上げて笑っていた。にやついた嫌な笑顔だ。

「馬鹿かお前よお。しねえとか関係ねえ、プログラムなんだから殺し合えっつってんだよわかんねえのか」
「わかんねえよ」剥き出しになった敵意の視線を彼に突き刺し、翔太は唇を歪める。「こんなもんわかってたまるかよ。何が殺し合えだ。何がプログラムだよ」
 誰か止めてくれ。思いながら僕が立ち上がるのと、ほとんど同時だった。ゴウダが白いスーツの内側に再び手を入れ、抜き出したそれを真っ直ぐに翔太へ向ける。

「翔太!」
 僕は叫んだ。翔太が少しだけ驚いた表情をするのが一瞬、見えた。彼の前でこんなに大きな声を出すのは初めてだったのだ。
 直後、きっかり二回の銃声が翔太の表情から驚きを消した。全くの無表情になった翔太はそのまま腰をくの字に曲げ、ゆっくりとゆっくりと床へ身体を崩していく。銃口からうっすらと上がる硝煙の向こう、ゴウダがヤニまみれの醜い歯を覗かせて笑うのが見える。

 やあああああああ。甲高い悲鳴が空を切る。川島くん、川島くん、川島くん。狂ったように繰り返す誰か。ざわめいた空気が頬を打つ。
 夢だ、夢だ、これは夢だ、なんて質の悪い。頭の中でぐるぐると渦を巻く言葉は、空気を裂く涙声に遮られていた。

「クソ!」
 駿(中島駿也/男子十番)の声だと、確認しなくてもわかった。「なんでだ、なんなんだよてめえ!」
「やめろよ、お前も殺されんぞ」
「ざけんなてめえ黙ってられんのか、翔太が、翔太が」
「おい駿、しっかりしろよ」
「……畜生!」

 聴覚を潜り抜けていく幾つもの悲鳴と怒声の中で、僕はただ翔太を見ていた。カーペットの上へ仰向けになって倒れた翔太は、まだ生きていた。学生服の胸元に二つ穴を開けながらも、翔太は瞼を震わせて僕を見ていた。
 それから、笑った。目で柔らかな線を描き、眉毛を少し下げて翔太は笑っていた。あーあー駄目だな、やっちまったよ。そんな風に呟くような笑顔だった。

 けれど翔太の口からはもう、言葉が出てこなかった。代わりに一筋の赤色を零し、翔太はぎこちなく眼球を動かした。みずほを見ようとしたのか、綾か、駿か。僕には何もわからない。どうすることも出来ない。一年間ずっと傍にいたのに、僕は一体何をしていたんだろう。

「翔太」
 拍子抜けするほどに普段通りなみずほの声が耳に届き、僕は視線を上げる。感情がまだ事態に追い付いていないのだろう、翔太の顔を覗き込んでいるみずほの表情はどこかきょとんとしていた。
 僕は何も言えないまま、再び翔太の顔に目を向けた。
 翔太の目はもう動いていない。ただのビー玉か何かになってしまったように、呆然とした僕らの顔と白っぽい照明だけを映している。
 もう一度彼の名前を呼ぼうとしたのか、みずほは再び口を開きかける。けれど綾がその肩に手を置いて、穏やかにそれを遮っていた。
 綾は唇を噛み締めて翔太の顔を見つめたまま、ゆっくりと首を振るう。崩れかけた巻き髪がふわりと揺れると、思い出したようにみずほの潤んだ瞳から涙が零れ落ちていく。
 小さく洩れる彼女の嗚咽に、思わず眉が歪む。喉の奥から湧き上がってくる熱をくっと飲み下して、僕は翔太の顔に手を伸ばす。

「なあ、お前みずほとどこまでいってんの?」
 いつかそう言って悪戯っぽく笑った翔太の顔が、不自然なほどくっきりと思い出される。さらさら揺れる真っ直ぐな黒髪。小麦色に焼けた肌。細められて線になった目。
 一年前。転入生として彼らの教室へ足を踏み入れた僕に、一番最初に話しかけてくれたのは翔太だった。いつだってあの朗らかな笑顔で僕を受け入れてくれた翔太に、僕は一体何が出来た?

 震えを抑えきれない指が翔太の顎に触れる。まだ残っていた彼の熱が指から伝わる。ぬるりとした血液が爪を染める。生々しい匂いが鼻腔をくすぐり、舌の裏から嫌な味をした唾液が溢れ出す。
 夢じゃ、ないのか。頭の片隅で今更のように浮かび上がった言葉に、ぞっとした。渇いた喉の奥から何かが飛び出しそうになるのを、ひたすらに堪えるしかなかった。

 僕の頭はようやく認めていた。一年間。翔太と、みずほと、綾と。三年二組で過ごした時間全てが砕け、潰れ、もう二度と元に戻らなくなってしまうことを。



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