[03]
同じマンションの同じ階で育ったあたしたちは、毎朝のように顔を合わせた。友達とけんかをして登校するのが憂鬱だった朝でさえ、言葉を交わしていた。覚えていないくらい昔、色違いのランドセルを背負う前からずっと。
お互い、特別に望んで歩み寄ったことは決してなかった。幼い頃からずっと部屋の隅にあった、ぬいぐるみのようなもの。それが翔太
(川島翔太/男子二番)であり、彼にとってもあたしはきっとそんな存在だったと思う。
だからあたしはわからなかった。わからないふりをしていたかった。
からからと何かを運び込む作業音。男の不機嫌な声。女の子のか細い声。再び聞こえる、あの男の声。くそくらえ。誰かが声を押し殺して吐き捨てた言葉。全ては時間に乗って先を進み続け、動かない翔太を置き去りにしてしまう。途切れ途切れに訪れる沈黙のたび聞こえる、ひっそりと唸るような空調設備の機械音だけが、やたらと強く存在感を示している。
あたしはぐちゃぐちゃに溶けた視界の中に翔太だけを見ていた。入学したときはぶかぶかだったはずの学生服、胸元にぽっかりと開いた小さな穴に目が吸い込まれていく。二本の指も入らないような小さな穴が、二つだけ。
頭がぐらぐらする。これだけ。これだけで? 違う、こんなものに叩き潰されてしまうほど翔太は弱くない。
思い出していた。翔太が公園のジャングルジムから落ちたときのこと。まだ小学生だった翔太の痩せた身体はほんの一瞬で地面に叩きつけられ、周りで遊んでいた子たちが一斉に叫び上げる。翔ちゃん。翔太。無茶苦茶に怖くなって座り込み、泣き出したあたしの目の前で、翔太がゆっくりと身を起こす。「いってえ」。それだけ言って額の血をシャツの袖で拭い、翔太はあたしの顔を見て困ったように笑ってみせた。「馬鹿、俺が泣きてえよ」。線のように細くなる一重の目は今も変わっていない。だからきっともうすぐ翔太は身を起こして、制服の袖で顎の血を拭いて、あたしの顔を見て、笑ってくれる。
そう信じればいい。けれどあたしは信じるふりさえ出来なかった。病院、早く、翔太を病院に連れていかなきゃ。頭の中で必死に繰り返しても、この手は翔太の身体に触れることすら出来ない。だって怖かった、声をかけても身体を揺すっても翔太が起きてくれなかったら、あたしは一体どうすればいい?
ふと、見慣れていたパステルピンクの生地がひらりと裏返されるのが視界に入った。華奢な手に握られたハンカチの白い裏地は、瞬きもしない翔太の顔へゆっくりと被される。
「待って」
綾
(佐久間綾/女子六番)の手首を掴み取り、あたしは思わず声を上げていた。その指先から離れたハンカチが翔太の顎に触れ、血液を吸ってじわじわと変色していく。
「……みずほ」
諭すように穏やかな綾の声が聞こえる。あたしはもう翔太の顔に被されたハンカチを剥ぎ取ることが出来ず、それどころか赤く染められた布地から目が離せずにいた。
何、これ。頭のどこかでぼうっとした声が響く。なんなのこれ、こんなんじゃまるで翔太が、違う、本当にもう翔太は?
手の甲で涙を拭い、あたしはもう一度翔太を見た。胸に空いた二つの穴は間違いなく銃創だった。ジャングルジムと拳銃。どちらが簡単に人間を壊す?
わかってる。わかってた。翔太は死んだんだ。声に出さず呟いたとき、あたしは目尻が乾いていることに気付いた。肩の力が抜ける。あたしには何も出来ない。何をしてもどうにもならない。もうどうすることも出来ない。
どうしてもっと早く動いていなかったんだろう。何も出来ないんじゃない、あたしは何も出来なかったんだ。そう考えた瞬間、視界の隅に映る翔太のズボンがじわっと滲み始める。
「高木みずほ」
唐突に響いた濁声が、溢れそうになった涙を強引に堪えさせる。ゴウダタケシと名乗ったあの男。翔太を殺したあの男の声だった。
奥歯を噛み締めたまま視線を持ち上げる。振り返ってあたしの顔を覗き込むクラスメートたちの向こうで、ゴウダは不機嫌そうに口元を歪めて立っていた。無性に怒りが込み上げる。なんでこいつがこんな顔をしているんだろう?
伸ばしていた爪の先が掌に食い込む。熱い。拳の熱がごわごわと身体中に広がっていくのに気付くより早く、あたしは立ち上がっていた。潤んだ視界の中、ゴウダのサングラスを睨みつける。感情を言葉に変換出来ないまま震える唇を開いたそのとき、あたしの手首を誰かの手が力強く捕えた。
「みずほ」
鋭い声に肩を引かれ、あたしは振り返った。なんで。口の中に言葉を留めたまま、声の主を目で探していた。
優
(指方優/男子五番)の顔はすぐに見つかった。肌の白さだけが妙に際立って見えるその顔に、いつもの穏やかな笑みはない。優はあたしの手首を握ったまま微かに目を細め、あたしを見つめている。何かを乞うようにさえ見えるその視線に捕えられ、目を逸らすことが出来なくなる。
「時間だ。出発しろ」
ゴウダの声が再び聞こえ、あたしはようやく優の顔から視線を離していた。
時間だ。出発しろ。聞こえた短い言葉の意味はわかる。簡単に理解出来る。物分かりのいい頭に腹が立った、まだ拳に込めた力は緩んでいないのに、まだ優の手はあたしの手首を握っているのに、どうして認めてしまうことが出来るのだろう。
どこからか。何故なのか。逃れることは、抗うことは出来ないのか。何もかもがわからないままだったけれど、はっきりとわかることが一つある。もう全て始まってしまっていたのだ、ということだけ。
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