[04]

 始まりは上手く説明出来ない。誰かに背中を押されたように一歩目を踏み出してしまうと、そこからはあっという間だった。何が背中を押したのかはわからない。ただ長く長く続いていた階段をじぐざぐに駆け下り、その先に開け放されたドアが見えたとき、ようやく呼吸が出来たような気がしていた。

 非常口を示す緑色の光を目指してドアを抜けると、電源がオフになったように足が動きを止めた。膝に手を付き、まず乱れきった呼吸を整える。息苦しくて堪らない。肩を大きく上下させて外気を吸い、吐く。もう一度吸う。吐く。もう一度。

 大丈夫。ここで待とう。待っていよう。思いながら上体を起こしたところで初めて、あたしは気付いた。わからないのだ。優(指方優/男子五番)と綾(佐久間綾/女子六番)がいつになればここへ出てくるのかが。

 それだけではなかった。次にあの部屋を出て階段を下りてくるのは誰なのかも、あたしの前に出発していたのは誰だったのかも、わからなかった。出席番号順だとすれば優も綾もあたしより先に展望室を出ているはずだが、そうではなかった。出席番号の逆から出発していたとしてもおかしい、あたしが出発したときにはまだほとんどのクラスメートたちがあの部屋に残っていたような気がする。

 左の手首を撫で付けるように握り、あたしは唇を噛む。優の骨張った指の感触とともに、薄ら寒い後悔が蘇ってくる。振り解いた訳でもなく手が離れた瞬間の、優の目。あたしを高木さんと呼ぶときのそれと似た、優しく突き放すような眼差し。あの目を向けられると、あたしはいつも怖くなって目を逸らしてしまう。目を逸らさずにいたら「突き放すような眼差し」が「突き放した眼差し」になってしまうかもしれない、そう思うと怖くて見ていられなくなる。だからあたしはもう彼の顔を見ることが出来ず、逃げるようにあの部屋を出た。

 待っている、と伝えられなくてもせめて、二人の顔をもう一度見ておけばよかった。そうすれば俯くばかりの綾と寂しそうな顔をした優に、精一杯の笑顔だけは向けられたかもしれないのに。

 今となってはもうどうにもならないとわかっているのに、あたしは身を翻していた。次に出てくるのは誰だろう。もしかして綾だったら。優だったら。足は思うままに出てきたばかりの非常口へ向かう。瞬間、何かを踏みつけた感触がスニーカー越しに伝わり、硝子が割れるような細い音が耳を突いた。

 零れそうになった悲鳴を呑み込み、目を凝らして地面を確認する。非常灯の薄い明りに照らされる、ひしゃげたフレームと割れたレンズ。一目で眼鏡だとわかった。

 拾い上げようと身を屈めて、見えた。
 どうして今まで気付かなかったのだろう。塔の白い外壁に寄り添ってうずくまるそれは、確かに人間だった。動いている。ほんの微かに身じろいで、きっとあたしを見ている。思い出したように息を洩らす苦しげな音。聴覚が咎めることのない風の音のようだったけれど、それは間違いなく呼吸の音であり、声だったのだ。

 消え入りそうな吐息の合間に細い声が聞こえる。強風が吹けばきっと気付くことも出来ないほどに小さな声。聞き取りにくかったけれどわかった、「たかぎさん」、高い声でそう言っている。女の子の声だ。

 あたしは彼女の方へ腕を伸ばしていた。きっと恐怖でがちがちに震えた腕はそれでも彼女の柔らかい身体に触れ、その身体があたしへ倒れこむように身を寄せる。それで緑色の明りが彼女の顔へ射し込み、あたしは目を見張った。額の真ん中で綺麗に分けたロングヘアー。眼鏡を外した有希ちゃん(林有希/女子十一番)の顔を見るのは初めてだったけれど、すぐにわかった。

「あの、ね」
 あたしが声を上げる前に、有希ちゃんが言う。「これ」
 彼女の冷え切った手があたしの手首を捕え、どこかへ導いていく。そこが丁度彼女の体の真ん中の辺りだとわかった瞬間、指先に硬いものが触れる。反射的に手が引き攣ったが、有希ちゃんは構わずそれを握らせた。

「刺さってる、から、抜いて?」
 その言葉に応えるどころか、意味を呑み込むことさえ出来ず、ただあたしは闇の中で何かを握る自分の手を凝視した。
 何を握っているのか、なんとなく予想は出来た。だから、なのか。手が固められてしまったように動かず、それを放すことすら出来ない。掌に納まる細いプラスチックの塊が、じっとりと汗に滑る。

「抜い、て」
 少しだけ眉をしかめて、有希ちゃんは繰り返す。苦しいのか、困っているのか。どちらにも見えるようで、どちらでもないような表情だった。

「お願い」
 レンズ越しにしか見たことがなかった目元に、汗か涙かわからないものが滲んでいる。それでも声ではっきりとわかった、有希ちゃんは泣いている。泣くところを見たのも、そういえば初めてだったような気がする。指先の震えをごまかすようにそんなことを考えながら、あたしはぎゅっと目を瞑り、ゆっくりと息を吐く。

 感覚はほとんどなかった。ただくぐもった呻き声だけが聞こえ、あたしは確かめるように瞼を開いた。きつく握った拳骨の先に、濡れた刃先が見える。細い息を洩らす彼女の唇もまた、濡れている。唇に留まりきらなかったそれが顎を伝っていく様は、翔太(川島翔太/男子二番)とまるで同じだった。

 うう。息の合間に小さく小さく、泣き声が聞こえる。う、ううう。ころして。たか、ぎさん、もっかい。さして。魘されるように言いながら有希ちゃんは身を捩り、ずるずるとあたしの肩を滑り落ちていく。はやく、ちゃん、と、さして。はやく。いたいよ。いたい。いたいよやだよ、たかぎさ、あ、う。

 そこから先は言葉として聞き取れないものになっていた。弱く続く呻き声は虫の羽音のように耳にこびり付いて離れず、微かに蠢いて苦痛を示し続ける彼女の体から目が離すことが出来ない。

 有希ちゃん。声になったかはわからないけれど、名前を呼ぶ。手当てしよ、早く。有希ちゃん。血止めなきゃ。早まっていく動悸の中、それでも言葉だけは切れ切れに浮かんでくるのに、指先さえ動かない。スカートから出た腿の裏側に吸い付くコンクリートの冷たい感触が、今更意識を刺激する。急に寒気を覚え勝手に震え出した肩から、ずるりと何かが滑り落ちる。あの部屋を出たときに軍服の兵士から渡された、リュックサックだった。

 中に入っているのはなんだろう。もしかするとタオルか何か、使えそうなものが入っているかもしれない。はっと思い直し、あたしの腕がようやく動いたそのときだった。

「動くなぁ!」
 鋭く響く声に続いて短い爆発音が耳を突き抜け、弾かれたように振り返る。上下に揺れる黒い穴、その向こうに見える学生服。かっちりとフックを止めた襟の上、緑色のライトに照らされた不気味な色の頬、散らばったにきびと濃い眉毛。滑稽に遅れたテンポでそれらを受け止めた頭が、また一歩遅れて事態を認識していく。穴ぼこ。学生服と頬のにきび。爆音。

 つまりそれは小原(小原一仁/男子四番)が銃を撃った、ということだった。

 理解した瞬間、身体が動いていた。もつれそうになる脚がどうにか体重を支え、くるりと彼に背中を向けて走り出す。

「待てよ、お前が、お前がやったんだろ!」
 違う。そう言いたかった。言わなければいけない、とも思った。けれど足を止めることは出来ない。追ってくるのは銃だ。銃なのだ。翔太を、あんなにも呆気なく翔太を壊した銃弾だ。

「くそ、くそっ、くそっ、くそっ、くそっ」
 少しずつ声量を増して追ってくる声と、不規則な銃声に耳を塞ぎたくなりながらも、あたしは闇雲に走り続ける。

 思い出す。落としたボールペンを拾ってもらったときのこと。ペンの先に付いていたハート型のチャームをつついて、「何これ、似合わねえ」なんて呆れたように笑っていた、小原の顔。鮮やかに思い出された懐っこい笑顔も、ぐんぐん遠ざかっていくのがわかる。当然だった、逃げているのはあたしの方だ。

 再び背後で二発の銃声が鳴り響き、思考が遮られる。小原が何かを叫ぶ声が、知らない動物の咆哮のように遠く聞こえたとき、あたしは気付いた。指から滑り落ちそうになっていたはずのナイフの柄が、ぴったりと掌に吸い付いていることに。

 恐ろしくなった。まずこれを捨てなければいけない。これを捨てて、彼に本当のことを言わなければいけない。なのにこの手はそれを離さず、ただ縋るように握り続ける。身体の一部になってしまうほど、強く。強く。



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