[05]
頭の中で声がする。
「……」
決して遠くはなく、けれど確かに聞こえる訳でもない、切れ切れの歌声。
「……」
どこかで聞いた覚えはあるのに、それがどこなのか、誰の歌なのかは思い出せない。頭の片隅に染み付いた、うら寂しい旋律。
「……い」
なんだったっけ。考えた途端にふっと声が遠退き、僕は視線を持ち上げる。だらしなく腕を組んだ男が、意地の悪い笑みを浮かべて僕を見下ろしている。
「……ってんだろ?」
彼のぐちゃぐちゃした口元の動きだけを眺め、僕はとりあえず笑った。唇が、頬が、動いていた。
笑うのは癖になってしまっていたのだろう。無理もない、僕はいつも笑っていた。三年二組に転入してからは特に、意識していたのかは自分でもよくわからないけれど、笑っていた。前どこに住んでたの? サシカタって珍しい苗字だよね。女みてえな顔。誰に何を言われても、僕はとにかく笑顔を返していた。
そうして丸一年演じきった。僕は自分でも気味が悪くなるほど、すっかり「大人しい病弱な転入生」になりきっていたのだ。
僕は立ち上がる。それから動きを休めることなく、歩く。横から投げられた黒い荷物を受け取り、再び足を進める。それらはまるで開けたドアを閉めるように、一連の動作として滞りなく進行する。わかっているのだ。きっと。
台車を埋め尽くしていたはずの黒い荷物が、もう一つしか残っていないのを僕は横目に見た。あれはきっと翔太
(川島翔太/男子二番)の分になるはずだったものだろうから、僕で最後、ということになる。
出発する順番は事前にくじで決められていたのだという。けれどこの部屋を一番最後に出るのが僕だということに、意味はあるのだろうか。
「おーい」
からかうようなゴウダの声が室内に大きく響き、足が止まる。「頑張れよ。期待してっからなお前にはよお」
流石に今度は頬が動かなかった。僕は少しだけ先を急いで展望室を出、続く階段へ向かう。足は規則的に階段を下り続け、十数段目まで行ったところで突然、エラーを起こしたようにその動きを止めた。
どうしよう。細く息を吐いて考えた途端、急速に身体の力が抜けていく。それに逆らうことなく、僕は薄汚れた階段の上に腰を下ろす。
ようやく僕の身体が、僕の元へ戻ってきたような気がした。学校から帰り、部屋の鍵を閉めるときと同じ感覚。全身を満たす虚脱感の中に、いつも同じ言葉が浮かび上がってくる。
終わりにしたい。
ゆらゆらと体内を泳ぐそれはたびたび衝動となって、都合よく逃げ出そうとする僕の足を助ける。首筋を包丁でなぞったりだとか、ドアノブに巻いたフェイスタオルに首を通したりだとか、古いマンションに忍び込んで最上階から地を覗き込んでみたり、だとか。笑ってしまうような行為の数々。
いつもそうだった、向こう側にはもう少し、あと一歩半もあれば届きそうだったのに、いざ踏み出そうとすればそこはあまりにも遠く深かったのだ。もしかすると僕は、その遠さを確かめるために手を伸ばしていただけだったのかもしれない。
思いがけず唇が歪む。確かめたところで何がどうなる? 何も変わらない。変えられない。ただ確かめるために学校を休んで、みずほ
(高木みずほ/女子八番)がまた難しい顔をして、綾
(佐久間綾/女子六番)がそれを気にかけて。なんだかそういうことが煩わしくて、僕はまた無駄に笑顔を振り撒いて、もう大丈夫だから、と適当なことを言う。翔太が僕の肩を叩いて笑えば(ちゃんと寝れ。もっと食え)、それでまたいつも通りの穏やかな雰囲気に戻る。
僕は何食わぬ顔でそんなことばかりを繰り返していた。窓の外、変わりゆく空の色を眺めながら、きっとこれからもそれが続いていくのだと思っていた。
けれど翔太は死んだ。
殺されるのが翔太でなく、僕であればよかったのに。そう思うことが出来れば楽だった。「終わりにしたい」でなく「終わりにしよう」と思えたら、きっと僕はここに留まっていられる。最後の一人が出発した二十分後にここは禁止エリアになるのだから、そうすれば今度こそ全てお終いに出来る。
それでも僕はそう思うことが出来ずにいる。
相変わらず聞こえるか細い鼻歌に気を取られて、時計を確かめることも忘れ、ただそれの記憶を探り掻き寄せる。聴覚に絡みつく音階の揺れ。長細い影。通り過ぎる車の音で遠ざかり、ふいに終わる歌。
思い出す。いつも何かを言いかけて、「なんでもない」とやめてしまう彼女。柔い片頬にうっすらと笑窪をつくり、再び背を向けて、僕の一歩半先を歩き始める。
僕ははっと顔を上げる。
そうだった。いつかの帰り道で、みずほが小さく歌っていた。
正夢に気づくように、朧げなメロディーは鮮やかさを増していく。耳にこびり付いて離れない音色が、じりじりと神経を荒立たせていく。
うるさい。
黙ってくれ。うるさい、うるさい、うるさい。気になって仕方ない。
弾かれたように立ち上がり、僕は一歩だけ足を進める。
わかっていた、足を踏み出すことはきっと落ちることに繋がっている。それでも僕の足は動き続ける。次第にその速さを高めながら、長い長い階段をただ、下りていく。
「優」
みずほはいつも、まず僕の名前を呼ぶ。
「高校、どこにすんの?」
どれだけ手を伸ばしても届きそうにないほど、屈託なく笑う。
「……そっか。寂しくなるね」
ときどきそうして顔を曇らせる。伏せられた眼差しの色があまりにも艶やかで、僕はいちいちひやひやする。
見たくなかった。そんな表情をするくらいならいっそのこと、はっきりと言葉にしてほしかった。けれどそれを言われてしまったとき、僕はどんな顔をして彼女を見つめ返せばいいのだろう。
浮かび上がる疑問の答えは見つからず、かさぶたを引っ掻いてしまったような不快感だけが残る。同時に込み上げる、意義の見えない衝動。
いっそ全て剥ぎ取ってしまえばいい。
-
長かった。階段は幾度も折返さなければならない造りのもので、どれだけ降り続けてもどこまで進んでいるのかわからない。だから余計に長く感じてしまう。照明も踊り場の壁で蜘蛛の巣を照らす、非常灯のくすんだ明かりだけだ。
閉塞した空間に漂う埃臭い空気。薄気味悪い静けさ。どこまでも続く変化のない世界。それらは乗り物酔いに似た不快感を伴って、少しずつ意識を乱していく。
どこまで続くのか。出口は本当にあるのだろうか。そんな不安さえ、脳裏を過るほどに。
やがて暗がりに慣れた目が、続く階段の先にようやく訪れた一つの変化を見つけたとき、僕は一瞬だけ足を止めた。それはまるで、眠りから覚めたように。肩を滑り落ちる荷物を背負い直して、僕は思い出したように再び足を進める。
ここを出ても何も変わらない。出口なんて、本当はどこにもないのだ。
「優」
緑色の光に照らされた枠の隅に、一つの影が浮かび上がっている。枠から吹き込む、心地よい湿りを帯びた外気が、額の汗を冷やす。
「遅えよお前。待ったじゃん」
遠慮がちな声量と裏腹な声色。僕はおびき寄せられるように階段を下りていく。一段。また一段。おぼつかない足元に僕は僅かな苛立ちを覚え、唇を噛む。
「優? 大丈夫かよ」
躊躇いを見せながらも、影はこちらを伺うように小さく動く。足先にもう階段が残っていないことを確認して、僕は頬を緩める。自分でも驚くほど、笑顔が上手く出来ていた。
「大丈夫」
言った僕自身、何が大丈夫なのか、大丈夫と言える状態がどういうものなのかわからなかった。それでも淡い光を浴びた牧野
(牧野大輔/男子十三番)の顔は、ただただ安堵の色に溢れていた。垂れ下がった太い眉も、細められた瞳も、情けなく歪む唇も、そこから零れる「よかったぁ」という言葉さえも、全てが嘘臭く思えるほどに。
「どうしちゃったのかと思ってたんだよ。ちっとも出てこねえから」
急にボリュームを増した声でまくし立て、牧野は小刻みに頭を掻く。ハリネズミのように毛先の立った短い髪を掻くのが彼の癖であることは、僕も知っている。女の子と話をするときは特にひどく、一言発するたびに頭を掻く、もしくは撫でるのだと、駿
(中島駿也/男子十番)が苦笑していたのを覚えている。
無闇に警戒心を振り払った牧野の目を見つめ返し、僕は頭の片隅で思った。僕に向けられているようで、どこか焦点のずれた視線。きっと彼は駿を待っていたかったのだろう。
「待ってたの?」
僕は持ち上げた唇の先から言葉を洩らす。
「ああ」
牧野が頷き、笑みを少しだけぎこちなく歪める。「あいつ……青木は、俺、なんも声かけらんなかったんだけど」
「そっか」
今更のように思い出し、僕はふっと笑声を零した。そうだった、さっきまで僕と一緒にあの部屋に残っていたのは牧野と青木
(青木里菜/女子一番)だったっけ。あんなにおっかない女の子をやり過ごしてまで、牧野は僕を待っていたのだ。そう考えるとなんだかおかしくて、忍び笑いがなかなか抑えられなくなる。
「優?」
何がおかしい。そう言いたげに牧野が眉を寄せ、僕は唇を引き攣らせて顔を上げる。
「あ、うん。じゃあ牧野は、誰にも会ってないんだ?」
「え? 俺、青木しか見てねえ……けど」
牧野は少し考え込むように視線を落とし、それから唇を引き締め直して笑う。「でもさあ、駿、出てくとき俺の方見てたんだよ。貴博も、山川も、未来も……気付かなかったかもしんねえけど、優のこともちゃんと見てたぜ、あいつ」
はにかんで続ける牧野の目は、非常灯の下で徐々に溌剌さを取り戻していく。
「だからさ、なんとかしてあいつに会えねえかな? 優もさ、高木とか佐久間とか、探してさ。俺もどうすりゃいいかわかんねえけど、みんなで集まったらさ、なんか……」
「何を?」言葉を遮って僕は問う。最早堪え切れなくなっていた笑声に、牧野の表情がすっと消え去った瞬間だった。
「牧野は何がしたいの?」
意識せずとも動き出すこの手が、奪っていた。
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