[06]

 指先から順に、ゆっくりと力を抜いていく。大丈夫。何度も頭の中で繰り返して、息を吐く。
 そこに込めた魂が、少しずつ戻ってくるのがわかる。次は掌だ。そこまで行けば、きっともう本当に大丈夫だと思える気がする。
 じっとりと汗ばむ肌からその塊が剥がれる。離れていく。その感触こそが余計にそれの存在を示しているようで、ふっと恐ろしくなる。
 駄目。駄目。打ち消そうとしても敵わず、耳の奥に銃声が蘇ってくる。

 脳裏に続く光景を今度こそ遮ってしまおうと、あたしは大きく頭を振るう。再び指先に魂が戻り、ナイフは結局掌を離れず、そこに残った。

 ああ、駄目、駄目。我知らず掠れ声が洩れる。怖い。殺す。殺される。
 わかっている。あたしだけじゃない、小原(小原一仁/男子四番)だってきっと怖かっただけなんだ。あたしが有希ちゃん(林有希/女子十一番)を刺したんだって、そう思って、だからあたしを。

 急速に恐怖が膨れ上がり、あたしは握り締めたナイフの刃先に視線を落とした。有希ちゃんはまだあの塔で泣いているのだろうか。それとも、もしかしてもう。考えるのが恐ろしくて、けれどあたしは顔を上げる。

 木々に囲まれた舗装道の上、砂を踏んだスニーカーがじりっと動く。どれくらい逃げてきたのだろう。どこをどう走ってきたのかもよく覚えていない。それでもこの道を戻れば、あそこまで行き着くことが出来るかもしれない。

 振り返った先、暗む空の向こうに目を凝らす。高い建物の影が闇に溶けて見えた気がした。行かなきゃ。漠然と思ったそれが、あたしを歩き出させる。とにかく早く、あの子のとこ、行ってあげなきゃ。でも行ってどうすればいい?

 ころして。未だ耳のどこかに引っかかっていたその声が、足元をすくう。はやくちゃんとさして、いたいよ。有希ちゃんは確かにそう言った。苦痛に泣き濡れた目であたしを、そう、他の何をも許さないくらい強くあたしを捉えていた。殺してほしかった? 本気で? じゃあなんで、なんのためにあたしはあの子の体からこれを抜き取ってきたんだろう。

 考えたくない。けれどもう止めることが出来ない。思考はあまりにも容易く結論を弾き出す。
 殺すため、だ。殺すためだったのだ。身体の奥底から込み上げる震えを堪えて唇を噛んだとき、あたしの足は完全に止まった。そればかりか膝の力が抜け、地面へくずおれてしまいそうだった。

「絶対に殺し合いなんか、しねえ」。翔太(川島翔太/男子二番)の言ったそれが胸を刺す。どうすればいい。どうしよう翔太、あたし、人を殺しちゃったかもしれない。怖い。怖いよ。あたし人殺しになっちゃったかもしれないんだよねえ翔太、怖いよ。人殺しになっちゃうのは嫌だよ。あたしは悪くないって言って、嫌だ、あたし最低だよ。叱ってよ。殴られたっていいから、お願い、なんか言って。

 訳なく思い出された翔太の顔は、嘘みたいに屈託なく、生気に満ちている。あたしはどうしてもあのときの翔太の顔を思い出すことが出来ない。動かない瞳も唇の血も学生服の穴ぼこも全く、本当に全部嘘みたいだった。

 わかっている。それでも翔太はいない。叱ってもらえるはずがない。あたしが何を言っても、もう絶対に言葉が返ってくることなんて、ない。

 なんで? 喉に詰まった言葉の端が、噛み締めた唇から零れる。どうして。なんでいっちゃったの? 問うてみても何も変わらない。
 いってしまった。置き去りになっているのはあたしの方だ。あたしもきっと、死ぬ。

 死ぬ。
 繰り返したその言葉が、ぐちゃぐちゃに絡まる思考に大きな渦をつくっていく。

 死にたくない。嫌。死ぬのは怖い。あたしはまだ死にたくない。

「ねえねえ、みい。みーいー」
 思い出す。急に恋しくなる、紗知(山川紗知/女子十四番)の声。
「駿がね、卒業式終わったら打ち上げやろって。みんなでご飯とかどうかなあ」
 翔太が焼肉食べたいって言うから焼肉に決まって、紗知がお店に予約入れてくれたんだっけ。「みいも綾ちゃん連れといでね」って。「たまにはあたしとも遊んでよ」って。「次に会うのが成人式なんて嫌だからね」って。笑ってあたしの肩を叩いてくれる紗知を見ていたらなんだか嬉しくて、でも少しだけ苦しかった。気付かないうちに引っ掻いてしまったような淡い痛みが、まだどこかに残っている。
 なのにあたしは目を逸らし続けた。

「……じゃあ、綾も行くよ。終わったらみずほ、綾のとこ泊まりに来ない?」
 少し唇をすぼめてから、何かをいいことを思いついたように笑みを広げた綾(佐久間綾/女子六番)の顔は、全くどれだけ見ても見飽きないほど愛らしかった。当然頷く以外に思いつかず、じゃあクッキー焼くから、とあたしは笑った。「決まり。中学最後のお泊まりだね」。そう言って綾が楽しそうに笑うから、あたしはやっぱり彼女から離れることなんて出来ないと、改めて思った。

 それでもときどき、考えてしまう。いつかまた、紗知と二人で疲れるくらいに喋り明かせたら。都合のいいこと、なのだろうけれど。けれどそれももう、本当に叶わなくなってしまうのかもしれない。

 額に浮かぶ気持ち悪い汗を左手で拭う。捨ててしまおう、こんなもの。そう思って離そうとしていたはずのナイフは、まだしっかりと右手に捕えられている。

 貼り付いていた前髪を掻き、あたしはただ唇を噛む。泣きたくなかった。吐き出せばあたしはきっと今よりぐちゃぐちゃに歪む。おかしくなってしまう。
 会いたい。一人で死ぬのは嫌。紗知。綾。翔太。

「……優」
 思わず呼んでしまったそれに、喉が痛む。その痛みが何かを呼び起こすように、崩れ始めていたあたしの輪郭を思い出させていく。

 そうだ。そうだった。あたし、まだ優に何も言ってない。

 少しずつ恐怖が形を失っていくのがわかる。あくまで形を失っていくだけで、消えはしない。けれどそれでも十分だった。

 目尻に滲むうざったい涙を拭い去る。大丈夫。再び繰り返して顔を上げようとしたとき、感傷に鈍った聴覚が声を拾い上げていた。

「みずほ?」

 反射的に身体が硬直する。一瞬の間を置いて、ゆっくりと地面を擦る足音が聞こえる。悠長にさえ感じられる独特のテンポと、遅れて認識した柔和な物言い。その声の主を察し、あたしは躊躇うことなく振り返っていた。
 その姿を目にした瞬間、全身を支配していた何かが解けていくのがわかった。

「みずほ……」
 あまりの安堵に、拭ったはずの涙が頬へ零れていく。それを再び拭うことも、掌で顔を覆い隠すことさえも忘れ、あたしはただ滲む視界の中の彼女を見つめる。

「どうしたの。大丈夫?」
 髪に触れる指の感触。か弱く問いかける声。不安げに歪む眉のライン。はっと何かを思い出させられたように、あたしは唇を引き締め、頷いて笑い返す。

 きっと滑稽な泣き笑いになっていたのだろう、大丈夫と返そうとしたのに声が出なかった。それでも彼女はあたしの手を握り、頷いて静かに笑ってみせた。

「大丈夫だよ」
 ……行こう? そう続けるようにあたしの手を引く綾の笑顔が、闇の中で片側だけ浮かび上がって見える。手を離せるはずがなかった、どうにもあたしはこの笑顔に弱いのだ。

 ほつれた髪の波の中、崩れやすい洋菓子のように魅惑的に笑う綾は、今までにないほど美しく、心強く見えた。



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