[07]

「これ……翔太と綾と買ったんだけど、お土産」
 俯いたままそっけなく言ったあの硬い表情は、今でも覚えている。

 みずほ(高木みずほ/女子八番)と初めてまともに口を利いたのは六月になってからだっただろうか。それ以前から僕らは学校で行動を共にすることの多い仲だったけれど、みずほとはほとんど話をしていなかった。同じく一緒に過ごすことの多かった翔太(川島翔太/男子二番)や綾(佐久間綾/女子六番)などは頻繁に、少し距離を置きたくなるくらいよく話しかけてきてくれていたのだけれど、みずほだけはそうでなかった。

 思えばこのクラスに転入してすぐ、翔太たちが僕のことを「優」「優ちゃん」と下の名前で呼ぶようになっても、みずほはなかなかそれを口にしなかった。けれど「指方くん」と呼ばれた記憶もない。何かあれば「ねえ」「あのー」と呼びかけられ、僕が笑って自身を示せばみずほが無愛想に頷く、というやり取りをいちいち交わしていたような気がする。

 それを不快に思うこともなく、彼女の存在が気にかかることもなかった。みずほに限ったことではない、あの頃僕はクラスメートたちの顔さえきちんと認識していなかったのだ。今でもときどき、そういうことがある。話しかけられる。笑う。言葉を返す。けれど誰と話しているのかわからなくなる。
 そして僕自身さえ、そう、そのとき確かにそこにあったはずの僕でさえ、どこかにいる知らない誰かのようにしか見えなくなる。

 それで構わなかった。寧ろ僕も本当はそれを望んでいたのだと思う。もう何にも触れたくなかったし、触れられたくもなかった。僕は僕の中に生じた歪みを覆い隠すために笑顔を振り撒き続ける。そうすることが更に自身を歪めていくことを知りながら、それさえも硝子越しに眺め、ただただ僕は全てを受け流していた。

 でもみずほは、いつからか硝子越しにこちらを見ていた。何も言おうとせず、きっと言いたいことは笑窪をつくってごまかしながら、それでもときどき硝子を突付く。
 気付かないふりを通していた僕は卑怯だろうか。

-

 それは悲鳴と呼ぶには脆過ぎる声だった。
 何かを恐れ、ただ嘆く、無力な声。

 僕は立ち止まる。耳がすくい上げたそれを辿れば、視線は舗装道を囲う茂みの奥へ向かう。ぼさぼさに伸びた植え込みを割って、僕は声の元へ進む。枝や葉が制服の裾と擦れ合い、ざっと音を上げる。

「ひっ」
 音に反応してか、声の主が短く息を吸う。しかしそのまま止むことはなく、声は息になって少しずつそのテンポを速めていく。構わず僕は草を踏み付け、暗い視界に確認出来た木の根元へ目を凝らす。右手に納まる硬い感触を取り落とすことのないよう、指先に気を使いながら。
 
「あ……あ、や、ああ」
 ずるずると耳に流れ込む声で、彼女が泣いているのだとわかった。僕はなんとなく手を背に回して、蹲る影を覗き込む。胎児のように丸まったその身体からは、細い衣擦れの音が絶えず聞こえる。

「どうしたの」
 唇を割った言葉に、彼女はそろそろと顔を上げる。長い黒髪の隙間に、木の葉のくずと化粧崩れに汚れた頬がちらついて見えた。ひっ。あ、あ。く。短い嗚咽を幾度も洩らしてから鼻を啜り、彼女は言葉を紡ぎ始める。

「たす、けて。ねえ、さ、しかた、くん」
 迫り来る長い腕が学生服の裾を掴む。「こ……あの子、あ、たしの、あたしのこ、と、ころ、あ、あああ」

「あの子?」僕は眉根をひそめ、身を屈めて彼女の顔を見つめる。
「ねえ、誰に会ったの。殺されそうになったの?」
 嫌。嫌。彼女は僕の質問に応じず、涙の絡む声でただ繰り返す。死にたくない助けてああ。嫌。

「誰を見たの?」
 再び僕は訊ねる。無意識に強まった語気に彼女は一瞬だけ声を詰まらせ、ああああああ、と堰を切ったように叫び出す。頭を振るって泣きじゃくるその姿を前に、僕はもう一度だけ、問いを口にする。

「みずほ、見てないかなあ」
 嗚咽だけが返ってくる。

 僕は唇を噛み、上体を起こして辺りを見渡した。闇に溶けた雑木林は恐ろしく静かで、人間の匂いなど全く感じられない。ただここで、女の子が騒々しく泣き喚いているだけだ。

 ああ、あああ。やだよう。聴覚にいちいち引っかかる悲痛な声が鬱陶しい。咽び泣く彼女に再度視線を落とし、僕は小さく息を吐く。
 大丈夫だよと僕が笑えば、この子は泣き止んでくれるのだろうか。一瞬だけ考えてから、僕はふっと笑声を洩らす。その唇から、意外にも言葉が零れ落ちていた。
 
「ごめんね」

 それは、僕の役目じゃないんだ。
 付け加える代わりに、腰へ回した右手をすっと前方へ伸ばす。広い額に狙いを定めると、小さくしゃくり上げた彼女がふっと顔を持ち上げる。

「……え?」
 嗚咽を忘れて呟く声が聞こえる。視線が合ってしまったような気がして、僕は指先に力を込めた。

 一瞬、だった。耳を突き抜ける音が三輪(三輪麻里奈/女子十二番)の額を僅かに残して弾き、それで終わった。全く他愛なかった、さっきはもっと大変だったような気がする。けれどさっきも、今と大して変わりないのかもしれない。今もさっきもそのずっと前も、きっと一緒だ。何も変わらない、だってほら、やっぱり。こんなにも簡単に壊れてしまう。

 肩にかかるリュックサックのずしりとした重みを急に思い出し、僕は少しだけ脱力して、右手に握る小型拳銃を下ろした。

 爆発した頭部をゆっくりと後方に逸らしながら、壊れた身体は倒れていく。最期まで制服の裾を捕えていた彼女の指先がようやくそこを離れ、ともに倒れる。その動きに掠められ、布地の中で密やかに音を立てて金属が触れ合う。

 優。
 その存在を思い出すのと同時に、名前を呼ばれたような気がしていた。

 学生服のポケット、布地越しにわかるその感触を握り締めて、僕は唇を噛む。やっぱりこんなもの、捨ててしまえばよかったんだ。僕は馬鹿だ、家の鍵につけたりなんて。便利だから余計に捨てられなくなってしまう。

 背中をなぞる汗の冷たさが、脈絡なく意識に潜り込む。涼しいようで寒気がする、おかしな感覚。まだ三月になったばかりだ、肌寒いはずなのに、何故だろう。僕は眼前に広がる薄暗い雑木林へ視線を彷徨わせて、もう一度ポケットのそれを確かめる。

 思い出していた。夏祭りには、彼女とも行ったのだ。



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