[08]

「翔太は?」
「……なんか、サッカー部の子たちが解放してくれないとか言い出して、いきなり」
「綾は?」
「……塾があるから、今日はちょっと、って」

 ぎこちなくそれだけ答えてから、みずほ(高木みずほ/女子八番)はようやく僕の顔を見て、困ったように笑ってみせた。

「あ……はは、えっと、どうしよっか。翔太、どんだけ遅れるかよくわかんなくて。勘弁だよね、ごめんねほんとに」
「そんなことないよ」
 とりあえずそう言って、僕は笑う。途端にみずほは瞼を伏せ、風に乱れた前髪を指先で整え始める。背後を通り過ぎていく茶髪の男たちがちらりと僕らを見て、にやにやと笑う。口元が動く。雑音を右から左へ受け流す僕の視界の中で、みずほは相変わらず足元に視線を泳がせ、唇を噛んで往生している。

「あー優、明日ヒマ? 遊ぼ遊ぼ。六時半にローソン来れる?」。そう僕の家へ電話をかけてきたのは翔太(川島翔太/男子二番)だった。けれど伝えられた通りの時間に待ち合わせた場所へ来ると、そこにいたのは私服姿のみずほだけだ。どうするべきか少しだけ考え、すぐに翔太を待つという結論に行き着き、僕はみずほから視線を外して道路側へ向き直った。背後の「コンビニ」と呼ばれる大きな箱のことを、僕はなんとなく好きになれなかった。

 それから十数分ほど、僕らは黙りこくってただそこに立っていた。「どうする?」「どうしたい?」「どうしようね」。キャッチボールにならない、どちらも躊躇ってボールを投げられずにいるような会話だけをぽつりぽつりと交わし、互いに視線さえ合わせようとしなかった。みずほは俯いたまま、僕は行き交う車と夕焼け色の街並みをただ眺めていただけ。そうしてやり過ごす中、なんとなしに時計を確かめようと振り返ったとき、ようやくみずほと視線がかち合った。

「……行く?」
 行き先もわからないくせに、僕は言ってしまった。目が合ったほんの一瞬、みずほが本当に困った表情をしていたから、思わず口を開いていたのだ。

「あーだりい」
 電子音とともに自動ドアが開く。歩いてくる男の声に被さって、みずほはぶっきらぼうに頷いた。口元が小さく動くのが見えたけれど、声は聞き取れなかった。


 あとになってから気付いたことだ。みずほは僕と並んで歩くのが嫌いらしい。他の男の子とは並んで、女友達となら手を繋いで歩いていることさえあったけれど、彼女が僕の隣を歩いていた記憶は今までに一度もない。


 僕はアスファルトに長く伸びたみずほの影を踏みながら、街路樹の脇を歩き続けた。先に歩き出したのは僕の方だった気がするけれど、気がつけばみずほが一歩半先を進んでいた。そう言えば僕はこれからどこへ行くのか知らなかった。当然のように今歩いているこの通りだって、決して遠くはなくも初めて通る道だ。思えば僕はここへ転住してから、自宅と学校を往復するばかりの毎日を過ごしてきた。だからそれは無理もないことなのだが、そもそもどうして来たことのないところをみずほと二人で歩いているのかさえ、よくわからない。

「もうすぐだからね」
 足を休めず振り返って、みずほは言う。頬にかかる髪が夕日を浴びて妙に赤っぽく見える。僕は口角をきゅっと持ち上げて頷き、どこに行くのか訊ねようと口を開きかけた。丁度そのとき、向かいから走ってくる自転車が見えていた。
 
「あ」
 慌てて道の脇に寄ったみずほのすぐ隣を、自転車に乗った高校生が通り過ぎていく。ごめんねー。すれ違いざまの言葉にみずほははにかんで笑い、向き直ってまた僕の一歩半先を歩き始める。頬に浅く浮かんだ笑窪に一瞬だけ動きを止め、しかし僕も再びみずほの影についていく。


 訊き損なってしまった行き先は、視界に飛び込んできたそれが教えてくれた。走り去る車越し、道の向かいを若い男女が歩いていたのだ。身を寄せ合い、手を繋いで歩いているところを見るとどうやら恋人同士のようだったが、そんなことは問題ではない。
 僕の視線を捕えたのは、女性の方が身に纏っている藍色の浴衣だった。


 それからもう少しだけ、歩いた。先へ進むにつれて周囲は少しずつ喧騒を増していき、暗まる舗装道に蠢く人間の群れも当然、比例して増殖していく。目を離せばすぐ傍にあるみずほの背中さえも見失い、雑踏に呑み込まれてしまいそうだった。みずほも逸れてしまうことを懸念してか、心持ち歩を鈍らせ、しきりにこちらを窺っている。

「すごいね、人の数」
 ざわめきの中でぽつりと呟くみずほの声が聞こえ、僕は苦笑してみせた。
「お祭りでもやってるの?」
「え?」傍を歩く子供に道を譲りながら、みずほはちらっと僕の顔を見る。「花火大会だけど、翔太から聞いてなかった?」
「うーん、それは初耳かも」
 人込みの中で僕は力なく笑み、昨日の電話を思い出す。明日、六時半にローソン。僕が復唱すると翔太は「うっしゃ決まり。ローソンにて会おうぞ」とだけ言い残し電話を切ってしまった。

「あーもうあの男は」
 溜め息混じりに呟いてから振り返り、「もうマジごめんね、翔太ほんっとに適当だから」、みずほは呆れたように笑う。

 その横顔から目を逸らすように、僕は辺りを見回していた。油とソースの入り混じった匂いが鼻腔に絡む。たこ焼き、綿菓子、お面に風船すくい、クレープ。道沿いに連なった色とりどりの看板を眺めて、僕はふっと笑顔をつくる。

「なんか見てく?」
「あ、うん、あたしは……かき氷。買ってってもいい?」
「いいね。買ってこっか」
「あと、なんか見たいのある?」
「うーん、とりあえず買ってこう。かき氷が食べたい」

 本音だった。何故だか急に食べたくなったのだ。

 僕らは「かき氷」の旗を掲げた屋台の前で足を止めた。僕は苺を、みずほは少しだけ迷ってからレモンをそれぞれ買い、改めて顔を見合わせて少しだけ笑った。まだまともに話したことのない知り合いと、偶然同じ電車に乗り合わせてしまったときと同じような笑顔だった。

「どうしよう、疲れてない? とりあえずどっか座って食べよっか」
 氷のカップを片手に握ったままみずほは言いかけて、「あ」と急に身を翻した。
「ごめん、ちょっと電話」みずほはジーパンの後ろポケットから携帯電話を取り出し、不器用に片手で開く。「あ、翔太だ。もしもーし。今どこ? 遅いよー」

 携帯電話を頬に当てたまま、みずほは行き交う人影を切り抜けていく。ちょうど裏道に入る曲がり角、出店が途切れたところに自然と出来た、人気の少ない場所へ向かっているのだろう。連れ立って僕も足を進めるが、通り過ぎる人波を上手く横切れず、みずほに追いつくことが出来ない。

 流れていく群れの向こうに、みずほの背中が見える。翔太が何かおかしなことでも言ったのか、ちらつく横顔は笑声が聞こえてきそうなほどくしゃくしゃに歪んでいた。

 汗を吸ったシャツの布地が肌に吸い付く。薄っぺらいプラカップ越しに氷の感触が伝わり、指先が痺れそうになる。
 冷たさはいつも鋭敏だ。温もりを取り零すことはあっても、触れる冷たさに気付かないふりをすることは出来ない。

「は? もう死ねよ」

 すれ違う誰かが吐き捨てた言葉を、覚醒された感覚が拾い上げる。雑音。思い直したときにはもう遅かった。背中から首筋を這い、後頭部まで上り詰める冷気。支配される。焦りに背中を押されて僕は歩き始める。よろめく身体に訝しげな視線が刺さり、肩がぶつかる。滑り落ちそうになったカップを持ち直して、もう一歩、進む。徐々に息苦しくなっていく。いけない。蹲ってしまいそうになったとき、柔い感触がすっと僕の手を導いていた。

「優」
 名前を呼ぶ声がトリガーを弾いたように、それは眼前に蘇っていた。

「逸れちゃうから」。浴衣の袖から伸びた手が、僕を捕える。手を繋ぐ。ちらりと上目遣いに僕を見る。すぐにまた目を逸らす。はにかんで笑う。頬の笑窪。

「優!」
 思い出したのはそれだけだった。再び耳に届いた声がそれを遮っていたのだ。慌てて前方へ定めた視線の先、僕の手を取ったまま、その表情を不安げに歪めたみずほの姿があった。


「ごめん」
 差し出されたミネラルウォーターのボトルを受け取り、僕は三度目の謝罪をする。みずほはいいから、と言うように小さく頭を振るい、おずおずと僕の隣に腰を下ろした。

「あの、ごめんね。あたし全然気付かなくて、連れ回しちゃって」
「ううん」僕はミネラルウォーターを一口飲み下して応える。驚くほど美味しかった、どうやら喉が渇いていたらしい。「こっちこそ、本当にごめんね。せっかく一緒に来たのに」

「大丈夫。いや全然、そんなの気にしないで」
 みずほは忙しく答えた。僕がびくりと身を引きそうになるほどの威勢のよさに、彼女自身も狼狽を隠さなかった。「ごめん。でも本当、もし帰るんだったら家まで送ってくし、でも翔太ももうすぐ着くって言ってるから、それまでここで休んでくのもいいし、だからえっと、……」

 言葉に詰まり、みずほは目を逸らして遠慮がちにかき氷を突付き始める。緩やかに崩れていく黄色い氷山を眺めているうちに、僕は充満した不安が少しずつ薄まっていくのを感じた。

 混乱した。きっとそれは、僕にとって容易く薄められてしまいたくないものだった。それは決して僕を苛むものではなく、苦しめるものでもないのだ。恐れていない、と言えば嘘になる。けれどそれは紛れもなく、僕を形成する、僕の一部なのだ。

「ありがとう」
 それでも薄めた言葉を口に、僕は笑う。みずほの顔が見えないように手元へ落とした視線の先で、溶けかけた氷の一角がプラカップから零れ落ちる。刺したままのスプーンストローをそっと抜き、僕もすくい上げた氷水を食べ始める。俗っぽい甘味が口の中で溶け、倦怠感をさらって喉へ流れていく。

 曲がり角の向こう、裏の住宅街へ続く道は恐ろしく静かだった。向かいの縁石のところで男女が肩を寄せて座っている他に人気はない。喧騒から少し離れたその場所は妙に心地よく、僕は黙々とカップの中身を片付けることだけに集中した。

 すっかり溶けてさらさらになった氷水に、カップの底が透けて見え始めたとき、僕は横目にそれを見た。なんとなく食べる気をなくしてしまった僕が、手持ち無沙汰に眺めていた露店のアクセサリーだ。安っぽく煌く指輪やネックレスの奥、立てかけたボードにはキーホルダーやピンバッジがずらりと並んでいる。その端にあった赤いキーホルダーが、僕の目を引いた。
 クッキーの型で抜いたような人形をした棒立ちの赤いキャラクターは、眉をハの字に下げて情けなく笑っていた。

「あ」思わず僕は呟いていた。「これ」
「ん?」みずほがストローを咥えたまま視線を持ち上げ、僕が指した先へ顔を向ける。

「なんか、似てる」
 僕の言葉に、みずほは「あたし?」と訊き直してから、少し笑った。やっぱり似ている、と思った。彼女の少し薄い眉毛も、瞼に浮かぶぼんやりとした二重のラインも、笑うと気が抜けたように垂れるのだ。

「そうかなあ」
 赤い影法師と僕の顔を交互に見つめて、みずほは言う。「うん、優も似てるよ。ていうか優の方が似てる」
「え?」
 そう言われるとは思っていなかった。僕が自身を指して笑うと、みずほは「ほら」と含み笑いを洩らす。

「似てると思うよ。いつもこんな感じで笑ってる」
 そうだったっけ。少しだけ考えてから、そういえば笑ってるなあ、思いながら僕は頷いた。
「確かに、まあ……でもこんなに眉毛下がってる?」
「それはあたしが言いたいよ」
 一瞬だけ悪戯っぽく目を吊り上げてから、みずほはふっと頬を緩める。「でも可愛いね、これ」

 今度は首を傾げてしまった。女の子はもっと、耳にリボンを結んだ口のない猫だとか、背中に羽を生やした妖精だとか、そういった作り込まれたキャラクターが好きなのではないのだろうか。この赤い影法師は突っ立って申し訳なさそうに笑っているだけで、優しく言えばシンプル、率直に言えば地味だと思う(事実、後になってからこのキャラクターを見た綾(佐久間綾/女子六番)には「あんまり可愛くない」と不評だったのだ)。考えていると、もしかして僕はみずほに失礼なことを言ってしまったのではないかと少し不安になった。

 が、みずほは並べられたアクセサリーの前へ向き直り、その奥で煙草をふかす坊主頭の青年に何やら話しかけていた。

「これ? 三百円」
 男の目がサングラス越しにちらっと僕を捕える感触がする。彼には先程のやり取りが聞こえていたのかもしれない。みずほは鞄から財布を取り出し、取り出した硬貨を青年に差し出す。

 ありがとね、とみずほの手から硬貨を受け取り、ボードからキーホルダーを外して彼は続ける。
「彼氏はどうする? チャームだけのやつなら、もう一個あるよ」
「あ」
 みずほがキーホルダーを受け取ろうとした手を止めた。「すみません、あたし、チャームの方が欲しいです。携帯に着けれるし」

「じゃあ」、予想外の台詞が口を割っていた。「キーホルダー、ください」

 彼氏じゃないけど、という言葉は流石に喉に留めておいた。ありがとー。涼しげに笑う男を前にポケットの硬貨を探りながら、僕はみずほの顔を横目に窺った。受け取ったチャームを携帯電話のストラップに着けているみずほは何やら楽しそうで、少なくともこの赤い影法師のことは気に入ってくれたらしい。キーホルダーを受け取る僕と目が合うと、彼女は少し恥ずかしそうにはにかんで笑った。

 家の鍵にでも着けようかな。思いながら買ってしまったそれをポケットに仕舞い込んだとき、爆音とともに鮮やかな火花が空に咲き開いた。

 大輪の花。すぐに散ってしまうのに、残像だけは瞳に焼き付いて離れない。
 足早に過ぎ去る夏が、もう少しだけ続くような気がしていた。



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