[09]

「みずほちゃんてなんか、綾ちゃんの王子様みたい」

 未来(市田未来/女子三番)のいつか呟いた言葉を、思い出していた。周りの女の子たちが頷く中で、傍にいた翔太(川島翔太/男子二番)だけは手を叩いて笑い出し、あたしは彼の頭を突きながら苦笑したのを覚えている。

「ねえ。ねえ。マジでありえねえ」、容赦ない否定に少しだけむっとした顔は見せながらも、内心あたしはほっとしていた。

 王子様。それを聞いたとき、あたしは笑い飛ばしてしまいそうになった。勝手に込み上げたその気持ち悪い感情が、どうしようもなくあたしを憂鬱にさせる。翔太が笑い飛ばしてくれたお陰で、あたしは笑い飛ばさずに済んだのだ。

「みずほ」
 囁く声に、揃えた膝小僧から視線を上げる。綾(佐久間綾/女子六番)はジッパーを下げたリュックサックの中を探りながら、微笑んで上目にあたしを見る。

「展望台の近くに、おっきい花壇、あったでしょ。これ、あそこの売店から持ってきちゃった。みずほと食べようと思って」

 包装紙の擦れる乾いた音。ぱきっと小気味よい音を立て、それは綾の手の中で二つに分かれる。天井からうっすらと洩れた月明かりの中、差し出されたチョコレートの銀紙と、伸ばした爪の美しい曲線が浮かび上がってぼんやりと見える。

「食べるでしょ?」
 綾が僅かに眉を下げる。え、あ。口を衝いた情けない声を曖昧な笑みに変えて、あたしは応える。
「いいの?」
「お腹空いたでしょ、一緒に食べよ」
 ね、半分こ。そう言って綾は密やかに笑う。あたしは半分こが好きだった。「半分こ」と言って微笑む綾の顔を見られることが嬉しく、「半分こ」と言って綾と何かを半分ずつ分け合うことにも、ささやかな幸福を感じていた。

 強張っていた頬の筋肉が緩む。「ありがと」、あたしはそろそろとチョコレートに手を伸ばし、綾と顔を見合わせて含み笑いを洩らした。齧ったチョコレートは甘く、身体に溜まっていた澱が急に掻き回されるような感覚を覚える。一欠けを舌の上で溶かしながら、こんなに甘かったっけ、と思った。

 綾に連れられて、林を割る散歩道を抜けたところだった。あたしたちは四角い木製の箱の中に身を潜めていた。中央にある梯子を上れば、長い長い滑り台が芝生の上にうねっている。ところどころが窓として切り抜かれてはいるものの、四方をしっかりと囲われたこの場所は、身を落ち着けるのに丁度いい場所だと思えた。

 あたしとは違い、綾は直接齧らず、割ったチョコレートの欠片を唇に摘んでいる。細い指を添えてそれを唇の奥へ運ぶ動作は、暗がりに浮かぶ陶器のように滑らかな頬と相俟って、美しく見える。見つめている間に、口元へ運びかけたチョコレートが動きを止めた。昨夜、鏡の中に見つけた顎のにきびの存在を思い出してしまったのだ。

「どうしたの」
 不思議そうに丸まった綾の瞳があたしを向く。思わずにきびに触れそうになった指先を制し、あたしは小さく頭を振るう。

「なんでもない」
 ごまかすように言ってから思い出し、唇を噛む。またやってしまった。すぐに「なんでもない」で済ませてしまうあたしの癖を、綾はきっと好ましく思っていない。

「え、なあに? 気になるじゃん」
 笑みを残しながらも、瞳から微かに消えていく色。ほんの小さな変化。鈍感なあたしにもようやくわかってきた。付き合い始めたばかりの頃は、気付かない間に綾がすっかり機嫌を悪くしてしまい、戸惑うこともあったけれど。

「あ、うん、なんかね。もうにきびなんか気にしないで、好きなだけチョコ食べちゃえー」
 チョコレートを再び口元へ運びながら、あたしはからっと笑ってみせる。「とか、思っちゃって、うん」

 だって、もうすぐ死んじゃうもんね?

 喉に引っかかる言葉を、噛み砕いたチョコレートとともにさっさと飲み下す。思い浮かんだそれは馬鹿みたいに冗談めかされていたのに、今はとても笑えそうになかった。綾がちらっと睫毛を伏せるのが見え、途端に喉の奥から後悔が込み上げてくる。

「そんなの気にすることないのに」
 すぐさま綾は笑みを広げ、あたしに向き直って頷いた。「にきび気にしてチョコ食べないなんて、絶対らしくないもん」
「そっかな」
「うん。綾、みずほのそういうとこ大好きだもん」
 さらりと言い放って、綾は無邪気に笑顔を崩してみせる。妙な気恥ずかしさを覚え、あたしもつられて顔を歪めた。

「おっと、光栄なお言葉を頂戴致しましたよ」
 戯けた言い草に綾は「もう」と唇を尖らせ、あたしの肩を叩く。触れられた肩から伝わった力が記憶を呼び戻したように、いつも繋いでいた綾の手の感触が蘇る。細く柔らかい手。けれど右手の中指には硬いペンだこが出来ていることを、あたしは知っている。

 二年の秋、静岡学芸に行く、と綾の口から宣言を聞いたとき、あたしは大して驚かなかった。放課後はいつも美術室に篭り、油絵具の匂いを制服につけて、あたしを迎えにグラウンドを訪れる綾のことだ。芸術科や美術課程のある私立高校に進むことがおかしいとは思わなかった。

 驚いたのは、綾の志望する学科は芸術科でなく普通科、それも特進コースだったのだとわかったときだった。学芸の特進。言えば、同じマンションの八階に住んでいた健ちゃんが、同じ年に受験したところだった。
 健ちゃんは学校でも有名人だった。成績優秀、品行方正、「我が校の模範生徒」と教師たちからも太鼓判を押された優等生だ。あたしも翔太も親からお小言をもらう際には、漏れなく健ちゃんを引き合いに出され、それを互いに愚痴りあったものだ。

 あたしは愕然としていた。綾の成績は確かにあたしの比でないほどのものだったけれど、学芸の特進はその健ちゃんまでもが落とされてしまった、とんでもないところだったのだ。あたしと翔太がすっかり目を丸くしている間に、綾は顔色一つ変えず、ただ通う塾と遊びに使う時間配分だけを変え、あっという間に合格通知を手にしてみせた。

 あたしは綾の顔ににきびを見たことがない。けれど綾はひどい乾燥肌で、洗顔後の手入れは全くしないあたしと違い、数分以内に二種類の化粧水、そして乳液とクリームでのケアをきちんとこなしていることを、あたしは知っている。

 初めて綾の家に泊まりに行ったとき、お風呂から上がった綾は長いこと洗面台に留まり、あたしに顔を見せようとしなかった。皮の剥けた顎や赤みの差した頬を見られたくなかったのかもしれないと、初めてそれを見たときに思った。「皮、皮、こんなに保湿してるのにもうどうしよう」、何度も繰り返して言いながら情けない笑みを見せた綾は、正にそんなことを気にする必要が全くないほど、可愛く見えた。

 綾は自分の目指す場所を、自分の手で掴む。掴むだけの努力をした上で、それを全く感じさせないように、遠慮がちに声を洩らし穏やかに笑う。
 眩し過ぎる。そう思ったことがないと言えば嘘になる。けれどあたしは、ペンだこの出来た指を片手に包み、充分に潤った唇を細めて笑う綾の顔を見ると、不思議に気持ちが昂ぶってしまう。感動。そう言葉で表してしまうのは嫌だけれど、あたしは綾を尊敬している。
「祝福」という言葉は、彼女のためにあるのだと思う。

「……でね、みずほ。みずほー?」
 またも膝小僧の上を彷徨っていた視線が持ち上がる。「あ、ごめんごめん。なんだっけ」

「もう、みずほってば全然聞いてないんだから」
 呆れたように首をすくめて、綾は続ける。「お正月にさあ、みんなで初詣行ったじゃん。そのとき……綾と翔ちゃんだけで喋ってたときだけど、翔ちゃん言ってたの、優がね」

 言葉の続きは、唐突に流れ出した大音量の音楽が遮っていた。あたしは思わず肩を震わせ、綾も「ひゃっ」と細く声を上げる。

 音源がかなり近い位置にあるのだろう。振り返り、一通り周囲を見渡してから、どうやらそれが軍歌であることに気付く。「やだなあ」、それらしい言葉を綾が呟くのが、音の合間に聞こえる。怪訝に歪んでいく綾の横顔を眺めながらも、頭のどこかで脈絡なく、あたしは考えていた。優(指方優/男子五番)は今、どうしているのだろう。

 優がね、そう切り出された綾の話の続きを、あたしは全く予想することが出来ない。あたしは優のことを何も知らないのだ。綾や翔太の方が余程優のことをよく知っていて、あたしはいつもそれを二人から聞くばかりだった。優に直接話を聞くことはほとんどなかった、例えば前の学校にいた頃優は事故に遭っていて、だから実は留年生なのだとか、ここに越して一人暮らしをすることになったのは、そのときの事故のことや親戚の事情が絡んでいるからなのだとか、そういうことも全て。

「あーっ」
 突如響き渡った濁声とともに思考が吹き飛び、今度こそあたしは耳を塞いだ。きいん、とマイクが悲鳴を上げるのにも構わず、声は続く。「よし。お前らやってっかあ、十二時の定時放送だぞー。内容は一回しか言わねえからな、さっさと記録しろよ」

「放送?」
 小さく復唱するあたしの隣で、綾は頭を垂れてリュックサックのジッパーを開く。僅かにボリュームの下がった勇ましい歌声の中、その動きはひどく緩慢に見える。

「まず死亡者……あー、一応な、男子二番」
「一応、って」籠った声で吐き捨て、綾はリュックからクリアファイルを抜き出した。そのまま挟まれた用紙に、ボールペンで小さく何かを記す。男子二番って誰だったっけ、思いながらあたしも綾に倣い、リュックサックの中を探り始める。

「次、女子十一番。男子九番。男子十三番に、女子四番、女子十二番」
 淡々と読み上げられる番号が耳を擦り抜けていく。引っ張り出したファイルを開いた手が、凍り付いてしまったように動きを止める。男子二番。暗がりに慣れた目が捕える文字の集まり。川島翔太。女子十一番。林有希。

「死亡……」
 我知らず呟いたそれは、音源から続く声に掻き消される。

「以上。じゃあ禁止エリアな、午前一時からA3……サイクリングロードの入り口だぞ。三時からあF2、ってこれ池ん中じゃねえか。馬鹿野郎、F2っつった奴出て来い。あ? コンピュータ?」
 まるきり勉強でもしているときのようだ。綾は何も言わなかった。ファイルの名簿を捲り、その下でただボールペンを動かしている。俯く横顔は崩れた巻き髪に隠れ、表情を窺うことは出来ない。

「……仕方ねえな。次、午前五時はE4。木が生えてるとこがなくなってアスレチックに出るとこのすぐ手前の、あーもうめんどくせえ。以上。とろくせえことしてんじゃねえぞお前ら」

 短い雑音が放送終了を告げた途端、綾は深く息を吐き、顔を上げた。傍らに投げ出されたファイルが、間抜けな音とともに床へ落ちる。
 やばい全然駄目。いつだったか、テストが終わった後にらしくもなく吐き捨ててシャープペンを放り、眉をひそめた綾の顔を思い出す。けれど今、視線の先で、綾はその美しい顔を歪めてはいなかった。ぱしゅ、と音を立てて情けなく着地したぺらぺらのファイルのように、脱力した表情でぼんやりとどこかを見つめていた。

 あたしは膝を寄せて縮こまり、再び俯いてファイルを見る。用紙の角を指で小さく折りながら、ずらりと並ぶ三十名の名前を、ただ目で追う。相変わらず何も言わない綾の隣、印刷された出席番号と氏名の上を、何周にも視線が泳ぎ続ける。

 同じ名前で目が留まる。

「翔ちゃん」
 綾が呟く。
「みたいに」
 やけに透き通って聞こえる声。
「……なっちゃうんだね」
 女子十一番。林有希。

「なんか」
 それから。
「全部、嘘みたい」

 背中が冷える感触に、あたしははっとして綾を見た。綾の声が、ほんの僅かに湿りを帯びているような気がしたのだ。

 なだらかに線を描く白い頬。すっと筋の通った細い鼻。小さく膨らみをつくる唇。流した前髪の奥、人形のようによく出来た瞳は、まるで何も見ていない。

 息を呑んだ。あまりにも遠く見えるその目が、静かにあたしを捉えれば、もう身動きは出来なくなる。唇を噛み、綾から視線を離さずに、あたしは喉の奥で一音ずつ、繰り返す。死亡者、女子十一番。林有希。あたしは。
 男子五番。名簿に見た名前が脳裏に浮かび上がった瞬間、綾はあたしを見ていた。

「みずほ」

 名前を呼ぶ声に、開きかけた唇の動きが遮られる。綾は微かに目を見開き、戸惑ったように口を噤む。あのね。言いかけた言葉を唇の奥に押し込み、あたしは我知らず瞼を伏せた。
 一瞬の沈黙を破り、先に口を開いたのは綾だった。
「ごめんね。どうしたの」
 気恥ずかしげに破顔する綾を前に、あたしはようやく言葉を飲み下していた。なんでもない。危うく口に出しかけたそれを打ち消し、あたしは小さく頭を振るう。

「あたしは、さ」
 驚いていた。
「本当に、なんにも出来ないんだけど」
 飲み下したそれと全く違う感情が、すらすらと流れ出ていく。
「……でも」
「ううん」
 綾はあたしの顔を見つめ直して笑う。言葉を遮りながらも、その表情は全てを包み込むような肯定に溢れている。あたしを。胸の下に渦を巻く収拾のつかない言葉たちを。そしてもう、取り返しのつかないこの事態を。

「綾、みずほのこと信じてるから。だからね、お願い」
 何故だろう。消え入りそうにか細い声は、あたしの中で凄まじい力を持って何かを捕え、離れなかった。

「一緒にいてね? 絶対、何があっても、ね?」



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