[10]
森
(森祐一/男子十五番)って浅野
(浅野夏海/女子二番)とできてんだぜ、と聞いたことがある。それを聞いたとき、その場にいた全ての人間が同じように目を丸くしたことも覚えている。
確かに意外と言える組み合わせではあった。まともに授業も受けず、稀に教室へ顔を出したかと思えば教師を騒がせてばかりの森と、いつも教室の隅で俯いて本を読み、ときどき他のクラスの誰かに呼ばれて姿を消す浅野。立ち位置は全く逆方向でありながら、教室にいつもひとりでいることだけは、互いに共通項だったのかもしれない。
「本当に付き合ってんのかなあ? 仲良さげに喋ってたとか、そんだけじゃわかんねえし」
翔太
(川島翔太/男子二番)はそう言っていた。僕にもわからないし、正直なところ、どうでもよくもあった。たとえ親しげに笑い合っていようが、静かに寄り添っていようが、手を繋いで二人で走っていようが。
全てはどうでもよかったのだ。ただ、何故だろう。息が上がり、喉の奥は鈍く痛む。リュックサックのストラップは左肩に食い込み、ぐらぐらと身体の重心を崩す。それでも地を蹴る足は、まるで自分のそれとは思えないほどに(そう、通知表の五段階評定で、体育が二だった僕なのに)、素早く軽やかに動き続ける。
どれだけでも走ってやれる気がした。僕は確かに興奮していたのだ。
闇の中、木々の合間を縫うように影が走り抜けていく。ちらつく不明瞭な輪郭は、視覚だけでは到底認識出来るものではなかったが、僕にはそれらの行方が滑稽なほど確かにわかった。既に育ち切っているであろう大柄な身体は、長く伸びた枝葉にいちいち引っかかり、ざわめきを僕へ知らせてしまうのだ。
「指方!」
影は林を割って舗装道に出、学生服に包まれた広い背中は、ようやくはっきりと線を現し始める。
「やめろ、俺たちは何もしない、だからお前、も」
黙れ。言う代わりに引き金を弾く。小型拳銃が爆発音を上げ、右腕に痺れが走っていく。銃弾は狙いを外れ、大きく上方へ逸れて闇に消えた。言葉の続きを呑み込む背中の後ろで、小ぶりなセーラー服が悲鳴を洩らす。足を休めずそれを追いながらも、僕は笑った。かさつく唇を割った笑みは、どうやら嘲笑らしかった。
僕は足が遅い。五十メートル走のタイムは九秒三、翔太は勿論、身体を動かすのが好きなみずほ
(高木みずほ/女子八番)だけでなく、美術部に所属し体育を苦手とする綾
(佐久間綾/女子六番)にさえ負けていた。
男子の生徒を相手にしては、まともに追いかけることさえ出来なかっただろう。けれど今、僕が追っている相手は、小柄で痩せっぽちな女の子を連れている。彼女も足が遅かった。僕が二人を追い始めてすぐ、それは見て明らかに知れるものとなった。彼女はまるで彼の持たされた重い荷物のように、ずるずるとそのペースを引き落とし始めたのだ。
じりじりと近まる小さな背中の向こう、学生服の肩が振り返る。彼の腕ほどの太さすら持たないであろう脚で、ばたばたと地面を踏み切る彼女を案じて、だろうか。ほんの一瞬だけ見つめ、彼は再び身を翻した。ほんの一瞬だ。ほんの一瞬なのに、僕には見えた。初めて見た、その眼差しの色。取り上げられそうになった宝物を、しっかりと抱き抱えて抗う子供のような表情。
傾く視界の中、二人は少しずつ遠ざかっていく。浅く息を洩らす喉が、小さく唸り始めるのがわかる。
「……離せ!」
聞き覚えのある声に、僕ははっと首を起こす。
「やめろ、どけ、それは」
眼球の奥がひくつくように痛む。
「触るな! それは僕の」
瞬間、瞼の裏に映ったそれが、渇ききった喉の奥を震わせる。
それは何度も夢に見た、けれど夢に見たどれよりも鮮やかな色彩、肌触りすら目に感じるほどの精巧な存在感を持ってそこにあった。
宝物だ。それは僕の宝物だった。
「……死ね」
反射的に目を見開き、僕は呟く。言葉は冷たい水のように、心地よく身体中を染み渡る。
「死ね」
足は空を切る。
「死ね」
地を蹴って舞い上がる。
「死ね」
もう一度言う。
「死ね!」
僕は真っ直ぐに腕を上げ、目を細めて狙いを定める。銃口の向こう、心許なく揺れる小さな肩、はためく白い襟はもう、すぐそこにあった。
それが大きな手に捕われ、強く引き寄せられるのと同時だった。僕は撃っていた。彼の背中にすっぽりと影を隠した、セーラー服の小さな身体に向けて。
銃声の耳を裂いた後、世界は勝手に動き始めた。地へ緩く傾いていく森祐一の背中の向こう、狙ったはずの真白い襟が弾かれたように翻る。見開かれた浅野夏海の目は、恐ろしく静かにただ、僕を見据えていた。
その視線が僕から彼へ動いても、僕は銃を下ろすことが出来なかった。凍り付いてしまったように、身体が動きを忘れていたのだ。
何もかもが全く予想外で、全ては見たことのない世界へ向かって転がっていた。
立ち尽くすままに、僕は見ていた。倒れかけた森の身体はそれでも寄り添う浅野に支えられ、そこに踏み止まっている。けれど沈む肩にそっと回された彼女の手は、容赦なく振り払われていた。細い身体は乱暴に突かれ、嵐に遭った小枝のように呆気なくくずおれてしまう。
「行け」
ぱさついた髪を小刻みに震わせながらも、森は言った。吼えるに近い剣幕に、浅野の表情は今にも泣き出しそうに歪みきってしまっている。悲痛に声を洩らす唇に、それを許すまいと今度こそ森は叫び上げた。
「夏海!」
溶けていく氷のように光る瞳が見開かれ、次の瞬間には強く瞑られているのが見えた。それきり、だった。浅野夏海はゆらりと身を翻し、生い茂る林の暗がりへ向かって走り出していた。
僕の足はもう、それを追って走り出すことはなかった。銃を握る手の先から、力が吸い取られていくのを感じた。知らない世界に取り残されたまま、この目だけが彼の姿に縋っていた。
月明かりに晒されたタイルの上、学生服に覆われた身体は小さく、しかし不敵に蠢く。僕は自室のベランダに時折訪れる烏を思い出した。式を控え、染め直したばかりの髪は、不自然なほどに黒過ぎる。
「あいつは」
烏は言う。地へ身を崩した不似合いな姿で、それでも僕を睨む。「殺すんじゃ、ねえ」
彼の目は僕を刺す。決して鋭くはなく、使い古されて錆の浮いた、切れ味の悪い言葉で、少しずつ。
「つみ……あれは、俺のだ」
顎を伝う稚拙な願いは、脅迫だった。
「許さねえ」
深い艶に塗り潰された前髪が、ぱらりと割れて額へ垂れる。瞳は僕を刺したまま、けれどもう、動かない。
あれはどこに仕舞ったのだろう。鈍い痛みの中、僕はぼんやりと思う。塗らなければ。塗り潰してしまわなければいけなかったのに、僕はあれをどこへ隠してしまったのだろう。
べランダの隅、押入れの奥、流し台の下。頭の中に描いた、六畳一間の薄暗い自室の中を、僕は隈なく漁り散らした。けれど幾ら入念に探り、そこを再び確かめてみても、あれを探し当てることは出来なかった。
-
開いた窓の手前を、どちらへ吹くでもなく漂う風に、カーテンが揺られている。その動きに合わせ、机の木目が白っぽく照らし出されては、また陰った茶色に戻る。
午後の暖かさに塞がれていく視界に、翔太の笑う顔がある。目を細め、歯を剥き出して笑いながら、駿の肩を思いきりはたいている。うっせえよ。すかさず駿は翔太の頭を叩いて返し、顔をくしゃくしゃに歪めて笑う。傍らで話し込んでいた綾とみずほも振り返り、つられて笑い出す。
何してんの二人とも。そんなことを一言だけ言いながら、僕は笑っていた。何がおかしいのかもわからない癖に、気持ち悪くなるほどよく笑った。眠りかけたことさえ忘れた。
教室の片隅に差し込む、白々しいばかりの光の下で、確かに僕は笑っていたのだ。
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日の落ちた中にあっても、黄色は黄色く見えるらしい。無数に咲き乱れる黄色の足元で、彼女は蹲っていた。
見つけた。我知らず笑みをつくり、僕は彼女に歩み寄っていく。気付かれないよう、恐々と土を踏んで、一歩。また一歩。もう、あと、一歩。
僕は足を止める。笑う。なんのために探していたのか。どうして笑っているのか。もう、考えられなくなっていた。
そこにあったのは一面の菜の花畑だった。その陰に隠れた身体が、小さく震えているのも見えた。それでも僕は動いた。土を躙る音と彼女の嗚咽が重なり、その肩がびくりと持ち上がる。振り返った彼女へ向けて、僕はそれを放った。投げたそれがボールのように弧を描き、彼女の膝に着地するのを見た。落とし物をパスしたみたい。あまりにも軽々しくて、僕はまた笑った。
けれど、僕が投げたのはボールでも落とし物でもない。それは人間の腕だ。黒い袖を纏い、薬指に銀の指輪を嵌めたまま、肩から先が乱雑にもぎ取られただけの、腕だ。
瞬間、彼女の顔から色が失せる。大きく見開かれた目だけが震え続け、しかし表情も消え去った。濡れた白い頬の下、皮一枚下で、何かがゆっくりと動いているのが見える。色だ。水の中を絵具が泳いでいる。赤と青と土の色と、様々な色が静かに泳ぐ。白い皮の下に透けて見える色は、やがてぐちゃぐちゃに混ざり合い、表面へ染み出していく。
絶叫が耳を裂く。彼女の顔には色が戻っていた。皮を染める色はもう、名前を呼べるものではなかった。眉も鼻も口も歪みきったままに、彼女はただ、ぐちゃぐちゃの色を吐き出していた。
醜い。醜い。ほら、やっぱり、こんなにも醜い。だから僕は少しだけ安らかな気持ちになって、醜悪な色へ銃を向けた。
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