[11]

 よく晴れた空に夜が訪れたら、星は光を遮られることなく、闇に映えて見える。太陽の下で熱気に変わる風は涼しさを取り戻し、汗ばむ肌を心地よく冷やしてくれる。賑やか過ぎる祭のあとなら、静かな夜道も寂しくはない。

 行きより重くなったペダルを無駄に張り切って漕ぎながら、あたしは思った。帰りたくない。あとちょっとだけ、この見慣れた道でいいから、何も考えずにぶらぶらしていたい。夜遊びの好きな子たちの気持ちが、少しわかった気がした。

「あの、ごめん」
 背中の向こうで、気遣わしげな声が聞こえる。どうしたの。言おうとしたところですっと背後の気配が失せ、ペダルが一気に軽くなる。あたしはブレーキを握ってサドルを降り、彼へと振り返った。

「全然いいのに」
「ううん、やっぱ女の子の後ろに乗せてもらう訳には」

 優(指方優/男子五番)は困ったように笑いながら、ゆっくりと後ろを歩いてきた。
「あたしは平気だけど。ほんとに大丈夫?」
 表情は変えず、ただ頭を振るって応え、優は自転車の前で足を止める。それからあたしに向き直り、確かめるように一人で頷いてみせた。

「ありがとう。やっぱ歩こうね」

 そう言って優がにっこりと笑うから、結局は歩いて帰った。あとになってから翔太(川島翔太/男子二番)にそれを話して、叱られた。いくらなんでも自転車の後ろに乗せるのは男に対してのあれだと。あれって何、そうは思ったけれど流石に聞かなかった。
「あれ」が何を意味しているのかは、あたしでもなんとなくわかっている。わかってはいるが、まだ上手く乗り切れていなかった。翔太だってついこの間までは、当たり前のようにあたしと自転車を二人乗りしていた。どちらが前になるかなんて、じゃんけんで決めていたのに。

「……ていうか、軽い」
「ん、何が?」

 呟いてしまった言葉に、優はやんわりと訊いて返した。何が軽いのか、見当がついているのかいないのか。相変わらず優は笑んだままだ。あたしは妙なばつの悪さを噛み締めて、口癖の「なんでもない」を使いたくなってしまう。噛み締めたあの味の正体こそが、男に対してのあれ、なのだと思う。

「いや、うんと、優ってもしかして結構細い?」
 あたしはなかなかの馬鹿だ。ばつの悪さを認めず、半端に開き直って墓穴を掘る。

「ああ、それね」
 優は見当がついていなかったらしい。なんでもないというように、涼しげに笑って頷いた。「そうだね、そういえばちょっと痩せたかなあ」
「うん、乗っけてる感じが綾と変わらないもん。何キロくらい?」
 引き際を掴めなくなっている。彼に変わった様子がないのをいいことに、あたしは更に先を掘り進めていた。

「身体測定のときは、四十五キロくらいだったけど。家に体重計なくてさあ、管理不十分だよね」
 苦笑する優に、あたしは思わず向き直っていた。合わせて優もあたしの一歩半後ろで足を止め、「どうしたの」と小首を傾げてみせる。

「……ううん、ほんとに細いなあって」
 あたしはハンドルを握り直し、再び自転車を押して歩き始めた。掘りたいだけ掘ってしまった穴を埋める話題を探し、けれどそれが思い浮かばず、口を噤んだままで三歩。急に訪れた静寂の中、足元をうろつくチェーンの音がやたらと気になり始め、あたしは五歩目を待たずに口を開いていた。

「家に体重計あるんだけどね、管理不十分だよ」
 そうなの、と優の相槌を短く挟み、口は勝手に動き続ける。「うん、綾なんか全然細いのに色々気にしてるみたいでさ、痩せなきゃっていつも言ってるけど。あたし最近太るばっかで」
 ってああもうあたし何喋ってんだろ、ごめんね。腋の下を汗に濡らしながら、それでもあたしは笑ってみせた。こんな風に笑うのは、なんだかいかにもブスっぽくて嫌いだ。こんな話だって、誰かに聞かせたいものではなかった。

「へえ、全然太ってないのにね」
 優の台詞には主語がなかった。あたしは真っ先に後者を当て嵌めて捉え、しかしすぐに、その台詞は前者を主語としても通じるものなのだと気付く。
 シャツの内側、冷え冷えとした汗の感触が気持ち悪い。瞬く間に広がる嫌悪の正体を突き止めるのが嫌で、自然と足が速まる。早く帰ろう。帰ったらすぐお風呂に入って、しっかり身体を洗おう。

 あたしは足を止める。街路樹沿いに続いていた一本道は左右に分かれ、右手へ進めば住宅街、左ならば飲み屋の立ち並ぶ通りへ入る。あたしの家は住宅街の中に、優の家は確か、左の通りに新しく建ったドラッグストアの近くにあった。

「高木さんはさあ」
 左へ向けてハンドルを押しかけたとき、優が言った。一歩半後ろを歩いていたはずの彼は、いつの間にか自転車を追い越していた。街灯の白んだ光の下、優は足を止めてあたしに笑いかける。

「綾さんみたいになりたいの?」
 凍り付いた。あたしは首を縦へも横へも動かせず、ただ保健室の先生のように笑いかけてくる優の顔を凝視する。

「……なれっこないじゃん」
 ようやく思いついた言葉を、あたしは極力軽く響くよう気を使いながら吐き出した。今度こそ本当に蔑まれてしまいそうだったから、もう笑いはしなかった。けれど優は色のない笑顔をふわりと崩し、穏やかに言った。何かいいことを見つけたときのように。

「それでいいじゃん」

 あたしは首を傾げ、しかしにっこりと笑う優の顔が見えたので、意味を掴みきれないまま曖昧に頷いた。どこか釈然としない視線の先を、優は右へ横切ってまた笑う。

「送らせてね。家、こっちでしょ?」
「え、あ、でも」
「まあまあ」

 T字路を右へ曲がっていく優の背中を追い、あたしはせこせこと自転車を押す。その背中を追い越したとき、花火大会の最中で顔を真っ青にしていたはずの優が、何やら満足げに笑っているのが見えて、つい足を止めた。

 ここで突っぱねてしまうのも、男に対してのあれ、になるのだろうか。

「……ありがと」
 やたらと低い声が出て、しまったと唇を噛む。前を歩く細い背中が、小さく含み笑いを洩らして揺れる。
 まるで見透かされているようで、恥ずかしくなった。俯きながらハンドルを押して歩くうちに、情けなくもなった。思えばあの日は失態続きだ。というより、優と二人でいると大概、あたしは失態を演じる破目になる。

 家に着く頃にはとうとう疲れ果ててしまった。道を引き返していく優の後ろ姿へ精一杯に手を振り、いちいち振り向いては手を振り返す優に幾度も頭を下げながら、それでも固く決意した。せめてあと三キロだけは痩せよう。あたしよりも身長の高い男の子が、あたしよりも三キロ軽いのだから。

-

「ねえ」

 やたらと高い声で呼びかけながらも、意識はそこになかった。昨晩、お風呂上りに乗った体重計の針が、四十一と四十の間を右へ左へうろついていたのを、あたしは今思い出している。

 秋頃からあたしの体重は勝手に減り続けていた。目標の四十五キロをぎりぎりで達成した辺りから、体重計にはあまり乗らなくなっていたけれど、減少は目に見えてわかった。あれほど大好きだったお菓子の買い食いをすっかり忘れ、三度の食事すら上の空だった。

 恋をすると痩せる。トイレに陣取る女の子の誰かが言っていたのを耳に拾い、本当かよ、と言いたいのを堪えてその横を擦り抜けていたのはいつのことだったろう。あの頃のあたしはそれを知らなかった。男に対するあれ、の意味さえも予想し得なかった。きっとまだ、自分が女だということもわかっていなかったのだ。

「ねえ」膨らんでいくホイップクリームのような声が、木造の箱に響く。それで自分の出した声の上擦った調子に気付き、あたしは唇を噛んだ。こんな声を出す女の子が嫌いな訳ではない。不似合いにもあたしがこんな声色をつくってしまっていることが、ただ恥ずかしかった。

「綾?」
 唇を引き締めて言い直す。けれどやや低いあたしの声は、変わらず四方の壁にぶつかるだけだ。正面に見える板の隙間をぼうっと眺め、外に声が洩れたかもしれない、と思った。気にかかるのはそれだけだった。

 みずほはなんで綾に構ってくれたの。

 綾(佐久間綾/女子六番)にそう訊かれてから今まで、どれくらい時間が経ったのかわからない。綾と友達になりたいって思ったから、と答えるあたしに、綾は質問を重ねた。

 なんで友達になりたいって思ってくれたの。

 あたしは上手く答えられなかった。答えとすべき感情は、記憶をなぞるまでもなくすぐに思い出すことが出来たのだけれど、それをどんな言葉で表せばいいのかがわからなかった。うんと、えっと、あの、だのなんだの言っている間に、綾はすっかり黙りこくってしまったのだ。

 少し前、言葉に詰まったあたしが口を噤んだ辺りからずっと、綾は膝に顔を伏せたままじっとしている。きちんと答えられなかったことであたしが怒らせてしまったのか、それとも疲れて眠ってしまったのか。出来れば後者であって欲しいが、ともかく返答はなかった。

 本当になんで、だろう。どうしてこんなにも綾と一緒にいたがるのだろう。

 再び考えながら、あたしは視線を綾から宙へと移した。箱の中心を貫く古びた鉄梯子の、更に上。半分しか屋根のない箱の外には、長方形に切り取られた空がある。
 雲に薄く覆われた空を眺めながら、思った。邪魔だ。なんだか物凄く鬱陶しい。向こう側にあるものは知っているのに、あの曖昧に流れる雲の所為で見えなくなっている。

 はっとして、立てた膝の間に顔を埋める。組んだ腕をきゅっと締める。抱え込んでいた焦燥がふっと舞い戻ったとき、あたしは自分の中に生まれた不穏の存在に気付く。

 それは幼い頃、熱を出した日に見た夢と似ていた。夢の内容はよく覚えていなかった、ただ夢の中であたしはどうすることも出来ず、気が付けば何かが手遅れになってしまったような不安だけが残っている、そんな夢だった。その感触を残したまま目覚めたときはいつも、恐怖に駆られて部屋を飛び出した。母親でも父親でも妹でも、誰でもよかった。部屋を出れば必ず誰かがいる。顔を見ることが出来れば、得体の知れない不穏は自然と薄められていたから。
 けれど今、あたしは箱の中を飛び出すことが出来ずにいる。

 一歩引いて考えてみれば、それは当然のことだった。隣には綾がいる。手元には有希ちゃん(林有希/女子十一番)のところにあったナイフ、それからあたしのリュックに入っていた手錠……は役に立つかわからないけれど、綾の持っていた拳銃もある。何かが起きない限り、この枠の中は安全なのだ。

 比べて外はきっと危険だ。有希ちゃんを刺した誰かがまだどこかをうろついているかもしれないし、事実、出発してから既に五人が死んでいる。プログラムに参加することを拒み、自ら死を選んだのかもしれない、そう考えることも出来たけれど、少なくとも有希ちゃんは誰かに襲われたようにしか見えない。

 なのにどうしてだろう。綾に会えたのに。あんなに誰かに会いたいと思っていたのに。綾はあたしを必要としてくれているはずなのに。考えれば考えるほど、行かなければと思う気持ちが強まっていく。

 あたしは動かなかった。身を縮め、時間の過ぎることだけを待った。
 ここを出たいと思うことは間違っている。あたしに一緒にいて欲しいと言ってくれた綾が、ここにいる。それをどうして振り払うことが出来る? 自身に言い聞かせながらも、身体を縛るのは恐怖だった。動けなかっただけだ。未だ悪夢の中に取り残されているようで、あたしは取り返しのつかないことの起こる恐怖にただ怯えながら、何も出来ずに蹲っている。

 何も出来ないのは、この場所さえ失ってしまうのが怖いから。けれど怖いのは、今、確かにあたしの中のどこかが、これ以上を望んでいるからだ。

 腿に被さるスカートの生地。黒い影のかかる藍色に、いつか見た彼の絵を思い出す。
 むくむくと不穏が膨れ上がっていく。今にも立ち上がり、外へ飛び出してしまいそうで、あたしは膝を縛る腕に益々力を込める。

 絵を思い出したのがいけなかった。奥歯を噛み締め、この情動が通り過ぎていくのを待とうと瞼を閉じたとき、声は聞こえた。

「誰かいる」
 跳ね上げた視線が四方を巡り、声の元へと行き着いた。

 驚いたことに綾は首を起こし、しっかりと開いた目で既にあたしを捉えていた。大きな黒目はとても眠っていたものと思えないほどしゃんとしていて、それこそがあたしを現実へ引き戻した。悪夢から覚めたように、身体中を暴れ回っていた靄がすうっと引いていくのがわかる。

「ちっちゃい声、っていうか息みたいな感じの、聞こえた気がするの。たぶん……あっちの方」

 消え入りそうに細い綾の声をすっきりした頭で聞き取ると、あたしは迷わず腰を上げた。足元に緊張を感じ、けれどどこかに救われた感覚もあった。弱々しい声に。不安げに歪み始める綾の瞳に。あたしは導かれるように動けばいい。
 大丈夫。そう言うように綾へ微笑みかけ、本当は自分に言い聞かせていることにも気付きながら、あたしは口を開く。

「ここにいて。あたし、見てくるから」



back / top / next