[12]

 覚束ない足取りで梯子を降りると、意外にも白んだ世界がそこにあった。曇り空の下、滑り台沿いに続く丘は広く、夜中でも見晴らしがいい。じっと眺めていると、丘の途切れるところがぼんやりと確認出来た。
 少なくとも、あの箱の中よりはずっと明るい。目の端に拾った電灯の明かりへ視線を泳がせながら、あたしは思った。そこで確かに何かが聞こえ、視界の中に誰かが動いているように思える。

 目を凝らす。光から少し逸れたところにうっすらと人影を見つけ、反射的にぐっと手を握り締める。渡された拳銃のボディは硬く、その割には軽かった。翔太(川島翔太/男子二番)を殺したあのピストルより大きく、立派に出来ているのに、大して重くはないのだ。あたしでも片手で持ち上げることが出来る。

 もっとずっしりと重たいものだと思っていた。だから綾(佐久間綾/女子五番)に差し出されてこれを受け取ったとき、あたしは少し面食らい、そしてどうにも忌々しい気持ちになった。

 銃口が向けられる。爆発。身体が撃ち抜かれる。あたしは想像したのだ。これが撃たれる瞬間を。たかがこんなものが、誰かの命を奪うことになる瞬間を。
 持っているのは嫌だった。けれどこれを受け取らず、どうして綾を守ることが出来るのだろうか。事実あたしはこれを持った。出来れば使いたくはない、もしも何かがあっても防ぐこと、逃げることが先だ、半ば言い訳するように考えながらそれでも、撃たれることを考えている。

 硬直した視線の中で、影は一瞬動きを止める。背筋がぞくりと跳ね上がっていくのを感じ、あたしは思わず後退っていた。

「誰?」
 緊張に締め付けられた喉で半ば自棄に叫ぶと、明かりの方からぽつりと声が返ってきた。何を言ったのかわからない、囁くように小さな声だ。けれどその声と言葉には確かに聞き覚えがある。あたしが眉をひそめる間もなく、人影は動き始めた。芝生に靴を摺らせる音とともに、気配がどんどん迫ってくるのがわかる。

「……った、さっちゃん」
 涙声を聞き取るのと同時に、あたしはその身体が意外にも小さいことに気付いた。駆け寄って来た小さな身体が勢いよく腰にしがみついたときにはもう、それが誰だかわかった。確かめるまでもなく、あたしは名前を呼んだ。

「未来」
 縮こまった彼女の肩がばっと起き上がり、闇の中で目と目が合う。

「わかる? さっちゃんじゃないよ、みずほ」
「……みいちゃん?」

 未来(市田未来/女子三番)はあたしの顔を見上げたまま、絞り出すように言った。瞬間、あたしは無心にその肩を抱え直していた。暗がりに見えた未来の目は穴のように虚ろで、頬には何かがちらっと光っているように見え、いたたまれなくなった。

「未来、紗知は……」
 切り出した言葉に、未来は頭を振るって応える。「わかんない。会えなくて、探してたら、ここにみいちゃんがいて」
 さっちゃんと間違えちゃった、と情けない声で続け、未来は鼻を啜った。

「そっか」あたしは頷き、しゃくり上げた彼女の肩を摩って言う。「怖かったね」
 腕の中で、未来の頭が幾度も縦に揺れた。摩った掌で制服の襟を二度叩き、あたしは唇を噛む。

 本当に怖かったのだろう。いつも雛のように紗知(山川紗知/女子十四番)のあとをついて回っていた未来が、暗い中に一人、見失った親鳥を探し回っていたのだ。声は然程似た気がしないけれど、体格や髪型の似通ったあたしを彼女と見間違うのも無理はない。

 重なった身体越しに、くぐもった声が響いてくるのがわかる。思い出したように未来が顔を上げ、震える腕にあたしの背を掴み上げる。

「ねえみいちゃん、行こう? 早く、逃げなきゃ」
「え?」
 待ってそれどういうこと、と訊き返すのを遮り、未来は切迫を露にまくし立てる。

「見たの。あっち、森の方で凄い音が聞こえて、そんで怖くなっちゃって、ぐるぐるぐるぐる逃げ回ってたらね、見ちゃったの。たぶん、あれ……」
 訪れた一瞬の沈黙の後、声は悲痛に歪み始めた。

「死んでた。身体が下向いてて、誰だかちゃんとわかんなかったけど、変なの」
「変って……」
 拳の内側、汗に滑る銃身を、我知らず握り直す。あの、と声を濁してから、未来は大きく息を吸った。

「腕がなかった」
 細く響く声が、耳の奥でいびつに捻じ曲がったような気がした。

「何……それ」
「本当になかったの、肩がぐちゃぐちゃで気持ち悪くてそこらへんずるずるで絶対あんなのおかしいもん」
 仕舞いには叫び声になっていた。あたしは身を捩って泣き出す未来に寄り添ったまま、硬い拳銃を握り締めた。そうしていないと思考が止まってしまいそうだった。身体の重心が定まらず、自分が真っ直ぐに立っているのかわからなくなる。あたしは恐々と足を引き、未来を促しながら身を翻した。

「大丈夫、早くここに入って。たぶん逃げ回る方が危ない」
 綾もいるから、言いかけて振り返った先、梯子から足を下ろす彼女の姿が見えた。捲れたスカートを直しているのか、膝の辺りに手をやってから、綾はあたしたちへ向き直った。

「未来ちゃんだったの。びっくりした」
 ふふっと洩れる含み笑いが、静寂の中、やけによく響いて聞こえる。

 あ。小さく声を上げたのは未来だった。意味がわからず首を捻ったとき、肩にかけたあたしの手が、おもむろに避けられていた。左へ一歩離れた未来の横顔と、向き合った綾の顔を交互に見つめ、あたしは釈然としないまま口を開く。

「綾」
「ん、それで?」
 一瞬言葉に詰まり、あたしは空を見上げてから問い返す。

「え……っと、聞こえてたんだ?」
「うん。未来ちゃん、変な死体見たって?」
 淡々と問う綾に、俯いたまま頷いて未来が答える。あたしは顔をしかめた。こうして見ると、二人のやり取りにはどこか違和感がある。

「それで未来ちゃん」
 我知らず、あたしは矢継ぎ早に綾の言葉を遮っていた。「うんと、だから未来、一緒にここに隠れてようよ。一人じゃやっぱ危ないし。紗知のこと、気になるかもしれないけど」
 口が勝手に動いて止まらない。言い終えてからようやく、それが強行突破に過ぎたことに気付く。あたしは慌てて綾に向き直り、「ね?」と同意を求めた。答えを待った。制服の下で肌着が汗に吸いつくのを感じる。
 綾は何も言わなかった。

「綾ちゃん」
 重い沈黙を割って、未来がおずおずと言う。
「あたし、一緒にいちゃ駄目?」
 消え入りそうに弱い未来の声を傷々しく思いながらも、あたしは綾を見つめ続けた。闇に慣れた目でも、綾の表情を窺うことは出来ない。憔悴した。どうして綾は何も言わないのだろう。

 なんで綾にそんなこと訊くの。

 ぽつりと洩れた彼女の声は、聞き取った部分を繋ぎ合わせればそんな台詞になっていたと思う。

 蓄積した何かが許容量を超えてしまう予感がして、今度こそ声を上げそうになる。けれどそれより先に、綾が言った。今呟いたそれとは全く逆の、穏やかな声色を使って。

「みずほ」あたしは気付く。綾は怒っている。
「綾、みずほのこと信じてるって言ったよね」
 握り締めた拳から、ゆっくりとゆっくりと力を抜く。
「うん」
「だったらわかるよね。今までずっと、一緒だったもんね」
「そう、だね」
「だから信じられるの。みずほのこと」

 落ち着こう。こんなときに、こんなところで、こんなことで全てをめちゃくちゃにする訳にはいかない。幾度も自身に言い聞かせ、あたしは頷く。

「綾の言ってることはわかるよ。でも、あたしのこと信じてるって言うんだったら、あたしが信じてる未来のことも信じてほしいって思うの、間違ってるかな」
 返答はなく、相変わらずその表情も、見えないままだった。

「ねえ未来ちゃん」
 綾は子どもを諭すように言う。「未来ちゃんは綾のことどれくらい知ってるの?」
 押し黙る未来の傍らで、あたしは唇を噛む。間違いなく綾は笑っている。そうでないとしたら、この静かな野原のどこからこんな笑声が聞こえてくるのだろう。

「綾も未来ちゃんのこと何も知らない。だってそうでしょ、綾と未来ちゃんに繋がりなんかあった? なかったじゃない、なのにそんな簡単に信用」
「綾」
 痺れを切らしてあたしは口を挟んだ。

「確かにさあ、綾と未来はあんまり仲良くしてなかったかもしれないし、……こんなときだから、そういう風に思っちゃうのはわかるけど、でも」
「全然わかってないよ。みずほは」
 相変わらず綾の声は穏やかだった。その柔和な物言いでもって、全てを否定した。
「綾が何言ってるか聞こえてないの?」
 答えられなかった。あたしはただ薄暗い視界の中、浮かび上がる綾の輪郭を見つめた。そんなはずはないと幾度も否定しながら、ようやく気付き始めていた。あたしにはもう、彼女の輪郭しか見えていないのかもしれない。

「聞いてないだけでしょ。言ってるじゃん、綾が信じてるのはみずほだけだって。わかるよね?」
「聞いてるよ。だけどなんで綾がそんなこと言うのか、それが全然わかんな」
「だから聞いてって言ってるの、いきなりこんな子が出てきたって綾は」
「あたし綾はわかってくれると思ってる、だから」
「違うよ、みずほは甘過ぎるんだって」

「やめてよ!」
 唐突に響き渡った悲鳴が、行き違う言葉を遮っていた。

 水を打ったように静まり返る暗闇の中で、あたしたちは振り返り彼女を見た。堪え切れない激情を示すように、未来の身体は大きく震え始めていた。
 あたしはただ膨れ上がる悪い予感を前に、呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。



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