[13]
「もういい、もういいよ。あたしだって綾ちゃんのことは信じれない」
「そんなのわかってるよ。もう行ってくれないかなあ? 未来ちゃんがいなきゃこんなことになんなかったんだからね」
「何その言い方……だから友達出来ないんだよ?」
「未来ちゃんみたいな八方女にそんなこと言われる筋合い、ないから」
「八方女? 綾ちゃんみたいになるよか全然ましだよ」
「何それ意味わかんない。なんで綾が未来ちゃんにそんなこと言われなきゃいけないの」
「だからあ、綾ちゃんて一体何様?」
あたしは女同士のいがみ合いというものが嫌いだった。人間同士のいがみ合い自体、あまり見ていて気分のいいものではないのだが、女同士となれば別段だ。
交差する毒気が足元から全身へ回ってくる、この感覚。ヒステリックに叫ばれたりしようものなら、もうそれだけで逃げ出したくなる。引き摺り込まれそうで、嫌悪どころか恐怖さえ覚える。だからあたしはいつも、視界の中に女同士のけんかがあれば、とにかく黙ってそこを去った。毒が回らないうちに目を背け、耳を塞いだ。
けれど今、あたしに逃げ出す術は与えられていない。
そこには噛み付き合う二匹の雌だけがいた。
「ねえちょっと待って待って」
逃げることは出来ず、咄嗟にあたしは愚策を弄した。
「何二人ともどうしちゃったの、ぴりぴりしちゃってさあ」
こんなときだから。仕方ない。二人とも、少し気が張っているだけ。毒に気付いていないことにして、あたしは言う。
「やめようよそういうの、ね? ちょっと落ち着こ」
「わかってるよ」
すぐさま綾は感情を殺した声色を取り戻す。「みずほ、早く中入ろ? こんな子に構ってる場合じゃないし」
「そんな言い方やめようよ、ね、こんなときだし」
「こんなときだから言ってんじゃん。綾、もう未来ちゃんは無理。絶対無理」
絶対無理。ぴしゃりと言い放たれたたかが四字ばかりの言葉に、鳥肌が立った。
「……はあ?」
背後にただならぬ気配を感じ、身を翻す。未来は冗談でしかこんな声を出さないけれど、とっくに冗談でなくなっているのは、流石にあたしでもわかる。小さな彼女の身体から、飛び掛らんばかりの剣幕と、微かに洩れ始めた嗚咽が発せられている。未来はキレると、泣くのだ。
「未来落ち着いて、ごめんね、ほんと」
あたしは未来に向き直り、宥めるように言う。火の着いた彼女がそこで止まるはずもなく、未来は怒りを露にまくし立てる。
「なんでみいちゃんが謝るの、なんでそんな子庇うの!」
ひび割れた彼女の声にようやく気付かされ、あたしは言葉を失った。
右手に綾。左手には未来。その真ん中であたしはバランスを崩さないよう、重心に気を遣って立っていたつもりだ。つもりになっているだけだった。
綾の言葉に、未来が怒った。謝ったのはあたしだ。
それはあたしが重心を右に傾けていることを証明していた。
「いっつもそうじゃん、綾ちゃんはみいちゃんのこと独り占めにしてばっかで、そうやってみいちゃんのこと上手く使って……さっちゃんとみいちゃんがけんかしたのも綾ちゃんの所為でしょ? 綾ちゃん汚いよ」
「それは違う」
あたしは初めて声を張り上げていた。
「紗知のことは綾とは関係ないよ、それに未来にも関係ないでしょ? あたしと紗知のことなの、わかる? 紗知がなんて言ったっていいけど、未来にはなんにも関係ない!」
吐き捨ててしまえば、すぐに静寂が戻った。
綾は何も言わない。未来のまくし立てる声も、しない。闇に溶け込んだ視界の中では、全てが息を潜め、動きを止めて、あたしを睨みつけているように思えた。
誰も破らない沈黙を、やたらと長く感じた。
恥ずかしくなる。すぐにでもこの場所から逃げ出したくなるほどに、悔やんでいた。
思ったことをそのまま言った、はずだ。けれどそれが本心なのか、自分でもわからない。あたしはただ、あのとき彼女につくった醜い傷が、誰かの目に晒されるのが怖いだけなのではないか。
「もういいじゃん」
ぐらぐら揺れる頭の中に、落ち着き払った綾の声が響く。
「行こう、みずほ。未来ちゃんにはさっちゃんがいるでしょ」
腕を引く力に、抗うほどの余裕は残っていなかった。綾に促されるまま、あたしの身体はいよいよ大きく右へ傾き出す。しかし、追い縋る悲鳴がそれを留めた。
「嫌、嫌、待って、一人にしないでお願いっ」
未来が泣いているのが、声でわかる。「……ごめんねみいちゃん、わかってるんだよ? 困ってるんでしょ、あたしがいなきゃこんなことになんなくて、ごめんね、迷惑かけてごめんね、わかってるの、でも、でも」
怖いよ。お願い。一人にしないで。
くしゃくしゃに歪んだ声が、小さく蹲った身体から精一杯に吐き出される。
言葉がもう見つからない。寄り添って背中を撫でることもしない。けれどそれでも、あたしは綾の手を振り払っていた。
立ちすくむまま、泣きじゃくる未来の背中を見つめていたのは、ほんの数秒だったと思う。意を決して振り返ろうとしたそのとき、あたしの背中は何かにすっぽりと包まれた。
声を上げる間もなく、両腕が両腕に捕らえられる。何が起きたのか、わかったのは次の一瞬だった。
「撃って」
意味がわからない。ただ、耳元で囁かれた彼女の声は、寒気がするほどに美しく響く。
捕らわれた腕がみるみる強張っていくのを感じながら、しかしどうにも出来なかった。
見開いた目の、すぐ先。二人分の腕に繋がれたそこで、何かが弾ける音を聞く。爪の先を痛みに似た感覚が突き抜け、同時に痺れが腕を伝っていく。
それが身体中へ広がったとき、ようやく呻き声が洩れた。痺れは震えに変わる。徐々に高まる呻きが割れ、一気に全身の力が抜ける。震える喉を、絶叫が裂く。
「もう大丈夫」
地面へ崩れ落ちた身体が、再び彼女の腕に抱かれる。
「大丈夫、みずほ。怖くないよ」
どうしてこんなに優しい声が出せるのだろう。温かい声。柔らかい身体。大好きな綾。そこにあたしを苛むものは何もない。なのに、だから、寒気がする。
「離して、やだ、触んないでっ」
あたしは無我夢中になってもがき、半ば突き飛ばすようにして綾の腕を離れる。なお逃れようと、腰の抜けたまま必死になって地を這い進む。先へ伸ばした手が何かに滑り、前のめりに倒れ込んだところでようやくそれを見た。
浮かび上がった白いうなじの上で、お団子に結った髪が崩れている。真っ直ぐに揃った前髪の下には、小ぶりの瞳が開かれたままだ。
「未来」
上の空で名を呼んでから、二度瞬きをする。確かにわかった。掌の下でぐちゃぐちゃになっていたのは、未来だった。もう一度名前を呼ぼうと口を開き、しかし喉の奥で何かが引き攣るのを感じて、唇を噛み締める。強烈な匂いがしていた。錆びた金属を溶かしたら、こんな匂いがするだろうか。
どうしてこんな匂いがするのか。
吐き気がする。
「綾」
突き刺すような声が出る。ここまで冷たい声で彼女の名前を呼ぶのは、きっと初めてだ。
「……なんで殺さなきゃいけなかったの?」
振り返り見上げた先、綾は立ったまま少し首を傾げてみせ、あたしの顔を覗き込んだ。綾の顔に薄明かりが射し、その表情がよく見える。整ったパーツのそれぞれに笑みを湛えながらも、彼女の顔はどこか歪んで見えた。
脈絡なく含み笑いを洩らし、ただ一言、綾は言う。
「それしか思いつかなかったの」
混ざり合う感情の中に、はっきりと輪郭を示す後悔を見つけたのは、そのときになってからだ。
あたしは愚かだった。
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