[detour]

 あれは群青色だっただろうか。もっと暗い色ではなかったか。夜だったから? 重ねた色で影が消える。全てが影になる。ぞっとして僕は絵具の箱を漁り、乱雑にチューブを絞る。
 頭の中の色が薄められる。霞み、褪せていくのがわかる。だから僕は手を動かす。もっと濃く。黒く。影を出す。

 忘れられない。忘れたい。忘れるのが怖い。忘れたくない。忘れたい。堂々巡りを繰り返しながらも、少しずつ遠くなっていくのがわかる。けれど忘れられたとき、僕がどうしているのか、果たしてそれを僕と呼べるのか、全くわからない。
 忘れられない。きっと薄められても、染み付いていつまでも残るような気がする。

 僕は絵筆を放り出し、半ば這いずるように押入れの前へ向かう。立ち上がるのも億劫だった。押入れを開くと、紙袋ごと投げ出されていた薬の束を掴む。もう医者には行かなくなっていたし、ずっと飲まずに放ったままだ。何がどうだか確かめもせず(まあ大概、頭がぼんやりする類の薬だ)、次から次へと口へ含んでいくうちに、溜まるだけ溜まった分をほとんど全て飲み下していた。

 どうして生きよう。何の為に、何をして、どう振る舞っているのだろう。

 この種の問いを、僕は口にしたことがない。しかし声に出さず問う度、馬鹿だなあ、と誰かに笑われているような気分になる。例えばベランダの烏だとか、窓から見える向かいの家の大きな樹だとか、人間以外の誰かにだ。生きる為に必要なものを摂り、産み落として種を守る。それ以外の意味は全て、あとからついてくるものではないのか。ただこれだけのことに意味を見出したがる生物は、人間以外にあるのか。僕らは皆、何か大きな軌道の上のごく一部、ほんの小さな迷路の中を走っているだけなのかもしれない。そこに意味らしきものを印すことが出来るのは、もう十分に走り抜いた人だけなのだろうか。

 ならば彼女は、そこに何を印すことができた?
 幾度となく浮かび上がった疑問に、僕は頭を振るう。脱ぎ散らかした学生服、薄暗い部屋、投げ出した画材、薬の残骸。なにもかもに対して、急に嫌悪が込み上げる。

「そんなに絵ばっか描いてどうするの」
 今更。馬鹿だ。絵なんて描こうとして。
「嫌だよ。忘れる為に付き合ってなんになるの」
 忘れて、それか忘れないでいて? どうなるって言うんだ。
「わたしが好きになっちゃったんだから」
 なんであのとき言わなかったんだろう。

 普通に好きだって言えばいいんだ。言葉にするのが怖かった。触れたくて、だけど普通に、当たり前のように触れるのは嫌で、手を握ることさえ出来やしなかった。最後の最後になってようやく、……

 気が付くと僕は、片手にタオルを引っ掴んだままそこにいた。疲れていた。意識があるということ自体が、苦痛だった。ドアノブにタオルを結びつけ、輪をつくる。待ち構えていたように眠気が訪れる。吸い込まれる。瞬間、ドアを叩く音に動きを封じられた。

 向こう側から声がする。暫く間をおいて、今度は遠慮がちなノックが聞こえる。

 ぐちゃぐちゃに絡まっていた一切が遠退き、頭の中がすっきりとしていくのがわかった。居留守を使おうか。馬鹿みたいに首をぶら下げたまま考え、けれど僕はタオルを解いた。

 差し込む夕日の下、指先を汚す絵具の色が変わり出し、僕につくることの出来ない真新しい色になる。
 ドアを開いたことを、僕は後悔した。僕はまだ誰かを待っていた。言葉を交わし、何食わぬ顔で笑い合うことが出来るのだと、気付いてしまった。

 高木さん。商品のタグを読み上げるように僕は言って、抑えきれず微笑する。本当に彼女が帰ってきたみたいだ、と思いながら、言葉を続けた。
「おかえり。修学旅行、楽しかった?」

-

 切れかかった電灯のようにちらつく光が、嘲りながら僕を煽る。
 膝の裏を汗が滑り落ちていく。なにをしてるんだろう。途轍もなく瞼が重く、数秒前まで自分が眠っていたのか、どうにか起きていたのか、それさえわからないほど僕はくたびれていた。疲れ切っていることを除いたとしても、こんなことをしている場合ではない。
 けれど全く、憑かれたようにそれは繰り返された。気紛れな光に煽られるまま、入れ替わる肥大と萎縮に振り回されている。また、光が点いた。

 水を飲めば。横になって眠ればいいのに。うそぶく僕を取り残して、僕は従順に汗を流し、耳の奥をちらつく光は点灯のペースを上げていく。萎む。膨れる。眠気。膨れ上がる。萎む。水。散り散りに裂けた回路を行き来しながら、ふいに僕は気付く。すっかり嫌気がさして、それが腹の中で暴れ始めている。

 寄せた眉根の遥か向こう、赤い光が灯るのがわかり、ぐっと息を止める。
 膝の裏を汗が滑り落ちていく。その動きと全く逆に、焦りに似たものが伝い上ってくる。

「どうやって作ってるんだろうね、あれ」

 はっと目を開ける。思い出しては形を変え、脱線して、消える。寝る前の考えごとのように脈絡なく、色づいた記憶が横切っていく。

 脚を捕らえた強張りが、上体へ上ってくる。眠りたい。瞼が閉じかけたとき、光が急速に膨張する。後頭から眼窩へ突き抜ける。毛穴がざわつき、肩が硬直し、爪先から一気に弛緩する。一瞬の恍惚。

-

 喉が渇いていたのに気付いて、傍らに投げ出していたリュックを手繰り寄せる。ジッパーを開いた瞬間、濃厚な血の臭いが漂う。眉を寄せて手を止めたが、遅かった。反射的に腹に力が入り、吐瀉物が地面へ滴り落ちる。

 支給された武器はやたらに大きく、持ち歩くのに難儀した。リュックに突っ込んでおいたのだが、その所為でリュックの中は血や肉に汚れ、悪臭を放っていた。血塗れになったペットボトルの水を、僕はまず頭から被る。少しを口で受けて濯ぎ、残りは放り出した荷物と吐瀉物に向けて撒いた。

 乾いていた血液が水を含み、再び臭い立つのに大した時間はかからなかった。洗ったのは失敗だったとすぐに気付き、ぶり返した嘔気を堪えながらも、僕は笑ってしまう。

-

「はいそこ、授業中に携帯電話を触ってはいけません」
 駄目だねえ、君には罰としてちょっと見本になってもらいますからね。担任を名乗るスーツ姿の教官が笑うと、唐突に甲高い電子音が響き始める。

「誰だよ」
「こいつだろ」
「やだ、なにこれ」

 指された女子生徒は携帯電話を仕舞うのも忘れたまま、音の正体を探して辺りを見回す。その周囲が急にざわつき出し、全体へ広がっていく。

「はいはい、静かにー」教官は大きく手を打ち鳴らし、迷子のように立ち尽くす彼女の元へ歩み寄る。
「戦闘実験の進行を乱す人には例外なく、はいここ大事だよ、例外なく相応の処分を受けてもらいます。江崎さんの首輪は今から爆発しますから、皆さんはくれぐれもルールを守って、……」

 狭い室内を満たす悲鳴が、話の続きを遮った。爆発。その言葉が大きく波を打って教室中を走り抜け、混乱の中で彼女は見る間に孤立してゆく。

「なに……なんで? え、止めて、早く止めてください」
 彼女はふらつく足を教卓へ向けて歩き出す。前方のクラスメートたちは逃げるように道を開く。

「う、嘘だ、爆発なんかする訳ないでしょ? こんな、ただの」
 か細い声で呻き、彼女は震える手に首輪を掴む。外そうとしているのか、うなじから喉元まで手を回して引っ張っている。あらあら、と教官がそれを手振りで制して言う。
「駄目ですよ。無理に外そうとするとその時点で爆発します」

 電子音の鳴る間隔が徐々に速まっていく。彼女の背中が大きく震え上がるのが見える。僕の身体は棒のように突っ立ったまま、動かない。

「なんとかしなきゃ……」
 誰かが呟く。くずおれかけた彼女がそれを追って室内を彷徨う。

「止めてよぉっ、なんであたしが、やだ、死にたくない!」
 髪を振り乱して泣き叫ぶ彼女を、皆、遠巻きに見ていることしか出来なかった。大人しい女の子だった。彼女がこんな大声を出すのを、僕は初めて聞いた。奥歯を食い縛って震えを殺し、僕はようやく声を洩らす。

「やめて、ください」
 こんな声じゃ聞こえない。蹲る彼女に背を向け、僕は教壇へ向き直る。

「お願いします」
 僕が口を開く前に、誰かが叫んでいた。「やめてください」
 聞き慣れた声だった、けれどこんな涙声は初めて聞いた。振り返った先、人垣の中に声の主を見つけた。深雪は立ち尽くしたまま、じっと教官を睨みつけていた。

「……そうですね」
 少しの沈黙を経て、教官は頷いた。
「じゃあ、もうやめましょうか」

 悲鳴も、嗚咽さえも止んだ。僕を羽交い締めにしていた恐怖が、静かに失せていくのを感じた。それは一瞬だった。

 短く切れた電子音が、不意に連結し始める。

「え……なに、なんで……」

 最期は絶叫だった。爆発音とともに彼女の上体が仰け反り、頭がおかしな方向へ跳ね上がる。ちぎれかけた首から、鮮やかな赤が散らばる。反動を受け止めた身体は仰向けに倒れ、僅かに痙攣して、その動きを止めた。

 沈黙。それから、教室中に叫び声がこだまする。

 僕は身動ぎさえ出来ず、噴き出した血液をただ凝視した。それが少しずつ床を広がっていく間に、なにが起きたのかがわかり始めた。
 腹の奥で暴れ回る何かが、震えとなって全身を伝い、喉を割る。
 江崎は死んだ。僕は人間の死ぬところを、初めてこの目に見た。



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