[15]
その頃あたしたちは杏仁豆腐に凝っていて、コンビニに入ると大概一つずつを買い、無駄に広いコンビニの駐車場、時には帰りがけにある公園で、お喋りをしながら食べるのが習慣だった。
いつものように軽口を叩きながら、デザートの並ぶ棚の前まで来て、あたしたちはあ、と揃って声を上げた。たまたまその日は杏仁豆腐が一つしかなかったのだ。
「あたし今日はいいや、綾食べなよ」
「えーいいよ、綾ダイエットする。みずほが食べて」
「え、なんでなんで?」
「いいっていいって」
隣に並ぶプリンやヨーグルトを選ぶことは、何故か思いつかなかった。互いに勧め合ったのち、間の抜けた沈黙が訪れる。けれどそれは一瞬だった。
「ね、今日は半分こしよっか」
そう言って、綾
(佐久間綾/女子六番)はとてもいいことを閃いたように満面の笑みを浮かべた。あまり嬉しそうに笑うから、あたしはちょっと照れ臭くなって、含み笑いで頷いた。一つのカップを二人で突付き合う、少し面倒臭いようなことが、そのときのあたしにはなんだか嬉しく思えた。半分ずつ共有し合うことのできる喜びがあった。
けれどもう、あたしの中身はぐちゃぐちゃで、半分こにできないものばかりが溢れ返っている。
気が付けばあたしは地面をもんどりうって転げていて、もう暫くは立ち上がる気がしなかった。ただ、転んだはずみに手から何かが滑り落ちたのがわかった。それを探して手を伸ばし、あちこちをまさぐって、やめた。
指先に金属の感触がする。輪郭をなぞって確かめる。
手に取ろうとして、やめて、それでも本当は欲しくて欲しくて仕方がないことを知る。何度も切り捨てようとしながら、結局、あたしはこれを選んでいた。
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全然大したことじゃないんだよ、人一人死ぬのって。ねえみずほ、知ってるよね。プログラムの対象クラスって一年で五十クラスでしょ。うちのクラスの三十人で計算すると、一年に千五百人はプログラムに選ばれてて、生き残るのが五十だけだから、千四百五十人はこうやって死んじゃってるんだよ。今まで想像したこと、ある?
なかったよ、綾は。普通に卒業して、高校行って大学行って、働いて遊んで、結婚とかして。適当に大人になっちゃうのが当然だと思ってた。千四百五十人が大人になれなくたってしょうがないと思ってたし。自分じゃなんにもできないくせに、そんなのひどい、とか言うのってなんか違うと思わない? いじめられてる子のこと、可哀相、とか言いながらなんにもしないのと、一緒。
綾、そういう子嫌いなんだ。だから最初からなんにも言わない。いじめられっこはいじめられてればいいんだって、わかるから。
みずほはなんで綾と仲良くしてくれたの。なんで何も言わないの。綾にはみずほなんか、いらなかったんだよ? 綾はいじめられっこでよかったんだよ。性格悪くて、ちょっと可愛いからって調子乗ってて、遊んでるくせにぶりっこして点数稼いで。それでよかったの。そんなのどうでもよかったの、みずほなんかいなくたって、そうやって上手くやれてたの。
友達なんか、最初から、いない方がよかった。
返してあげるよ。そう言われて初めて、あたしは膝に叩き付けられた生徒手帳に気付いた。思考を止めたままそれを開くと、表紙の裏に赤いてるてる坊主のようなキャラクターを象ったチャームが挟まれていた。あたしが綾にあげたものだ。それを今返されることの意味を呑み込めず、あたしはチャームを握ったまま、綾を見上げる。
意味わかんない、何言ってんのか全然わかんない。それだけしか言えそうになかったけれど、意味わかんない、で済ませることは今のあたしには到底できそうになかった。
綾は身を屈めてあたしの顔を覗き込むと、急に嬉しそうな顔になった。心から嬉しそう、というよりは、冗談で友達をからかうときのような笑顔だった。
「みずほ、嘘吐いてたでしょ」
あたしは反射的に背筋を伸ばす。思い当たるところが多すぎた。きっとあたしは平気で嘘を吐く人間なのだと思う。それもどうでもいいような嘘ばかりで、気になることがあるのにないふりをしたりだとか、嫌なのになんでもないような顔をしたりだとか、相手の思い違いに対してなにも指摘しなかったりだとか。人の迷惑になるような嘘は吐いたつもりはないのだけれど、考えようによってはそれが何よりも迷惑なこと、だとも言える。
「好きな人いないって、嘘でしょ。本当はいるんだよね」
これもどうでもいい嘘だ。好きな人、って言われてもぴんとこない。いつか綾に言った白々しい言葉を思い出し、頬がかっと熱くなる。
「当ててみよっか。ね、みずほ」とびきりおかしそうな笑顔で、綾は言った。死んでも言えない、と、あたしが頑なに仕舞いこんでいたことを。
「優のことが、好きなんでしょ」
違う。いや、違わない。けど、違うよ。優のこと、普通に、好きだよ。どうしてるんだろう、とか、会えたらどうしよう、とか、思うよ、普通に。だけどたぶん、わかんないけど、それ、綾に対しても思ったことだし、翔太……はちょっと違うけど、とにかく、あたしにとってはみんな同じ、だよ。
あまりの恥ずかしさに呻きながら、あたしは言ったような気がする。けれど、それが声になって綾に伝わっているのかはわからない。どちらにしても、見え透いた嘘に違いはない。あたしはとんだ大嘘吐きだ。けれど、綾の前でそれを認めるのはどうしても嫌だった。好きな人いるんでしょ、と平気で笑うことのできる綾と、今のあたしの間には、大きな隔たりがあるように感じた。受精をしている自覚を感じさせない植物と、大人向けの写真集を必死に隠す中学生との間にあるくらいの、大きな大きな隔たりだ。
ふと綾が真顔に戻る。あたしはどうしてもその隔たりが綾に伝わらないような気がして、唇を噛んだ。
「綾が気付いてなかったとでも思ってるの。馬鹿にしてる」
強張っていた顔の筋肉が緩んだ。あたしも真顔に、というより間抜けな顔に戻っていたと思う。
「馬鹿にしてる……って、何」
ようやく自分の声を捕まえられた感覚だった。「そんなつもり、ないよ。あたしは、綾のこと馬鹿にしようなんて思ったこと、ないよ。なんで、馬鹿にしてることになるの?」
「それが馬鹿にしてるってことなんだよ。本当に相手のこと馬鹿にしてる人は、馬鹿にしてる自覚、ないでしょ」
呆れたように息を吐いて、綾は言う。ほつれた髪の毛先が、細い指に弄ばれるのをじっと見つめながら、「よくわかんない」、あたしは応える。綾は苛立っているときにそうする癖があるのだと、最近気付いた。三年近くも、付き合ってきたのに。
「うん、みずほにはわかんないと思う。綾はね」
解放された髪の先が、緩やかなうねりを取り戻していく。「綾は、いっつも馬鹿にするつもりで、馬鹿にしてきたよ。だけどね、馬鹿にするつもりもないのに、馬鹿にしてる人には、絶対に敵わなかった」
長い髪が彼女の顔にかかり、表情を隠す。顔が見えなくて、よかった。
あたしは綾の友達だ。いらなくたって、いなくてよかったって、友達になったんだから友達だ。だけど今、あたしの目の前にいる綾は、きっとあたしが全然知らない顔をしていて、あたしのことを友達だと思っているのかどうかも、わからない。
「優のこと、好きなんでしょ」
わからない。
「わかるの。綾には」
全然わからない。
「考えてたんでしょ。優のこと。会いに、行くんでしょ」
そんなの決められない。
「会いたいくせに。いっつも優のこと気にして、ちらちら見てた、くせに。バレバレだよ、ねえ、なんでなんにも言わないの、優に会いたいんでしょ? そうなんでしょ、なんでそれを綾に言わないの」
「やめて」声を絞り出してそれだけ言い、あたしは頭を振るって、詰め寄る綾の無表情な顔から、感情を殺した冷たい声から、逃れようと足掻く。嵐が来たみたいにぐちゃぐちゃに混乱した頭の中で、どこか一部が不気味なほど落ち着いていて、あたしはこれが怖かったんだ、と理解する。
「……言えなかった」
綾の顔に歪みが走るのが見え、次の瞬間には無表情の人形に戻っていた。馬鹿にしてる、と言った綾の声が、耳の奥に蘇ってくる。彼女の言葉で言えば、あたしはやはり、綾のことを馬鹿にしていたのだと、思う。何があっても一緒にいる、そう頷きながらあたしは、誰のことを考えていた?
「ごめん」
言おうとしてやめたはずの言葉が、口を衝く。あたしは卑怯だ。
凍りついた綾の表情が、ふいに溶け始めたように笑顔に変わる。脈絡なく、あたしは紗知
(山川紗知/女子十四番)を切り離してしまったときのことを思い出す。あのとき綾は見たこともないような顔で笑っていて、あたしは今のように、ただ呆然と綾を見ていた。
綾は今、あのときと同じ笑顔で、あたしを見ている。
「もういいよ」
少し疲れた声だった。諦めたように、けれど優しく、綾は言う。
視界のちょうど中心に、真っ暗な穴が開いて、もう綾は見えなくなった。
「ばいばい、みずほ」
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