[16]

 不恰好に窪んだ樹の根元に、ばら撒いた水が流れ込み、小さな水溜まりをつくっている。水泡のように浮かび上がった丸は、目を凝らして見れば、見たことのある虫だった。無数の手足を上手く胴の間に仕舞いこんで、背を丸めたまま動かない。首を屈めて覗き、息を吹きかけると、波に揺られた小船みたいに水面を押し動かされている。錆と胃液の混ざった臭いが、まだ残っている。

「佐久間とか、高木、には」

 小突いてみようとして、出した指を止める。突付かれると丸くなる虫だったような気がする。捕まえて小突いてやると、掌の上で、小石にでもなりきったみたいに丸まって動かなくなる。日のあたらない場所で、何かの裏側に隠れて、生きているのか死んでいるのかわからないみたいに、じっとして。けれどそいつもそのうち起き出して、丸めた身体を伸ばし、日向でちょこちょこと歩き出す。一生丸まっているだけのやつなんて、いたらきっと死んでいる。

「なあ、優、誰かに会えたのかよ」

 こいつの殻の中は、本当はなにもないんじゃないか、と僕は思う。馬鹿げたことを考えていると、わかりながら、僕は思う。乾涸びるか食い荒らされるかして、空になっているから、こうして丸まっていられるんじゃないかと、思う。

「……お前、ほんと、どうしたんだよ」

 肩に置かれた手は骨張っていて、僕が探していた手とは、全くかけ離れたものだ。かけ離れたものが、今このとき僕に触れているということに、なにか意味があるのだろうか。

「嫌いだ」
「は?」
 間の抜けた声を無視して、僕は彼の手から視線を外す。結果としてこうなってよかった、だとか、こうなるのが必然だった、とか、そういうのは、嫌いだ。吐き気がする。

 彼の手は戸惑ったように少しだけ動き、けれど肩を離れない。嬉しそうに寄ってはきたが、僕の顔を覗き込んでからずっと困った顔ばかりしている。困っているなら、どこかに行けばいいのに、そういうことができないのだ。他人との距離をとるのが下手な人間。いいやつだ、とも、思う。

「駿のことが嫌いな訳じゃない、けど」

 駿(中島駿也/男子十番)は瞬きを数回してから、急に嬉しそうな顔になった。なんだよ優、お前、喋ってくんねえかと思ったよ、そう言って歯を見せて笑い、かと思えば慌てて真面目くさった顔に、目まぐるしく変化する。

「で、けど? どうした」

 彼の目はじっと僕の目を見つめる。僕は何度目かの試みをする。このまま僕が黙っていて、目を逸らさずにいられるのは、どちらだろう。考えているあいだにすぐ、息苦しくなって、僕は瞬きついでに整髪料で立てられた前髪に目線を投げ捨てる。
 駿はいいやつだ、と思う。いいやつだから、ときどき、視界から消えてほしくなる。掌に乗せられて、慌てて身体を丸める虫みたいで、僕は無様だ。

「なんだか、……」
 なんだか、どころではなく、居心地が悪い。僕の前を通りすがっていくのが、なんでよりによって駿なのだ、と、文句を言いたくなる。けれどそれは、どうしようもなく身勝手な言い分だとわかっている。僕は急に口ごもって、思いついたままに微笑する。

「なんでもない」
 口を衝いて出た言葉に、思いがけず含み笑いが洩れる。あの、今ひとつはっきりしない、思慮深いんだか浅はかなんだか、大胆なんだか臆病なんだか、よくわからない彼女。いつの間にか、彼女の癖がうつっている。

 全く便利な癖だ、なんでもない、なんて、それで傷つかずに済むし、傷つけずに済むし、歩み寄れなくたって、見ているだけでいい、そうやって殻の中で殺していけばいいんだ、どうせ大した葛藤じゃない、瘡蓋を引っ掻いて自分を慰めてくだらない感傷に浸って、反吐が出るような時間を過ごしていれば。ひとしきり僕は嫌な笑い方をする。笑えば笑うほど、息苦しくなっていくのがわかる。僕にはわかる。血液の流れが急に速くなり始めて、どこかでつっかえたように熱を帯びる。喉の奥の熱が吐気となって込み上げ、笑声を掠れさせる。吐き捨ててしまいたくはない。僕にはもう、その汚物同然の渇望しか残っていない。欲しい。欲しい。ただ、それだけ。

「どうしたんだよ、なに泣いて、……」

 戸惑いに歪む男の口、空洞が見え、唐突に短い爆発音が聞こえる。駿の身体がぴくりと硬直する。銃声だ。だいぶ近い。木々の向こう、きっと、すぐのところまで来ている。

 合図だ、と僕は思う。迷っていれば奪われる。急げ。急げ。

 僕の動きは早かった。傍らの荷物に埋もれた鎖鋸を振り上げ、血液と肉片と吐瀉物とで汚れた刃を対象へ向ける。

「な」駿が眉間を開き、声を上げる。「んだよ、それ。意味が」
「意味」は、嫌いだって言っているのに。復唱しながら、僕は苛つき始めている。
「わかんねえよ、優。お前、木でも切るつもりかよ」

 冗談と本気を半分ずつにしたような表情で、彼は言う。言われてみると、なんだかずっと木を切っていたような気もして、僕は微笑む。だって君らを早く切ってしまわないと、深雪は君らに踏み潰されてしまったんだから。

「そうだろう?」
「はあ? え、そうじゃねえよ。なにがあったのか知らないけど」
 刃先を見つめる彼の顔から、畏怖の色が消え始める。「木じゃねえだろ。お前が今それ向けてる相手、俺、人間だろ。そんなこと、簡単にすんなよ」

「簡単だよ」
 口元が笑みに歪む。苛立ちが身体の中を巡り、放出を求めて爪先を小刻みに動かし始める。「教えてやろっか。牧野さ、あいつ、これで切ったら死んだよ。殺したの、おれ」
 理屈の通らないことを言っているのはわかる。
「簡単に死ぬよ。友達だろうが、なんだろうが」

 僕は卑怯だ、と思う。彼の肌から滲み出る怒りと嫌悪を受けながら、それが達するのを、僕は薄ら笑いを顔に貼り付けて待っている。彼の拳が、腰の横で小さく震えている。こいつらしくない、と思う。どうして今、我慢するんだろう。足先から焦燥が上ってくる。

「優」
 駿の声にしては、静か過ぎた。「お前、翔太が死んだとき、悲しかったろ」
 僕は駿の顔を見る。駿は急に皮を剥いだみたいに無表情になって、僕の目を見る。やけに穏やかな声で言う。「悲しい……っつうか、抜け殻みたいな。そういう顔、してたろ」

 突然心臓を掴まれたように、息苦しくなる。無意識につくられた微笑の端に、動揺が現れたのだと思う。駿の口元が、少しだけ優しく歪む。

「お前が牧野を殺したから、俺がお前を傷つけたくなる。そうすると」
 大きな、温かい掌の上で、殻を丸めて閉じこもる小さな虫のことを考える。
「お前のことを大切に思ってるやつまで、俺が傷つけることになる、から」
 うるさい。聞きたくない。お前にはわからない。やめてくれ。

「なあ、こんなことしたって無駄だろ。やつらの思う壺だよ。人を傷つけていい理由なんか、あると思うか? やめろよ。そんなもん振り回したって、なんにもなんねえよ。簡単に死ぬ、なんて、言うなよ。そんなことしてると、お前、生きてたって心が」

 僕はスロットルを弾いていた。連結した刃が回り始め、けたたましいエンジン音が、彼の声を掻き消していく。相変わらず酸素が足りないままで、ちっとも楽になりはしない。わかっている。こいつは木じゃない。わかっている。

「黙れ」半ば喘ぐように言う。「お前、のわかりきった理屈で、全部片付くと思ってんのか」騒音の中で、彼がまだ何か言いたそうな顔をして、僕を見ている。「だったら、なんで」僕はグリップを強く握りこんだまま、刃先で彼の身体を薙ぎ払う。僕が切り倒すのは人間だ、と、僕はわかっていて、絶叫する。

 僕は彼に訊きたかった。深雪に傷つけられていい理由があったのか、そこに在ったはずの深雪が、いとも簡単にいなくなって、僕の目の前に腕一本しか残らなかった、あの不可解な喪失はなんだったのか。彼が得ているように見えるそれは、僕にとっては矛盾だらけの許せない解だ。それは答じゃない。彼は同じところをぐるぐる回る、入口を出口と言い張る、迷路の中にいることを忘れているだけの、善良ぶった、愚直な。

 ……彼女もそうだった。そういうところが好き、だと、僕は思っていた。

 手から力が抜けていた。振りかぶった鎖鋸が、汗ばむ手をすり抜けて地面に落ち、動きを止める。彼はもうとっくに生臭い肉の塊となって、四肢をおかしな方向へ伸ばしたまま、そこに転がっていた。彼の身体は、虫みたいに丸まったり、しないのだ。深雪と、同じだ。僕は微笑して、ゆっくりと顔を上げる。



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