[ワタシ]
F06 side

 まるで全体の構図など考えず、これまで描いた感覚だけでバランスを保った、危うい絵。絵と言うよりは落書きと呼んだ方がしっくりくる。雑だが妙に気迫を感じる線の一つ一つが、衝動に任せひとりよがりに描いた様を正直に表している。
 ふっくらとした頬の内、片頬に薄く浮かぶ笑窪、ぼやけた二重瞼のライン、主張の弱い鼻に、薄い唇、柔和に描かれた全てが、モデルの特徴をうまく示している。

 意外に子どもっぽいことをする。私は衝撃とも呆れともつかない感情に、片頬だけで笑う。当然彼女のように、笑窪ができたりはしないだろう。それだけでなにか負けた気になって、下唇を噛んだ。

 一枚捲り、私は息を呑む。現れたのは人間の手だった。指先から肩口まで続く腕が、紙面の限りに数本、あらゆる角度から描かれている。私だって、練習したいものがあれば繰り返し描くことはする。特に珍しくはない。特徴的なのは、まずそれらが前の絵よりも遥かに巧く描かれていたことだ。計算し尽くされた構図の下、神経質に思えるほど、無駄なく仕上げられている。

 今朝、ぼうっとしてたら遅刻した、と理由にもならない理由を述べ、間の抜けた笑顔で教室に入ってきた彼のことを思い出す。あの男がこれを描いているところを想像して、私は少し気持ち悪くなる。集中しよう、だなんてわざわざ努力することなど、知らないのだろう。でなければ、こうはならない。まるで偏執狂とでも言うか、ちょっとした病気だ。私は絶対にこんな風には描かない。

 訳わかんないなあ。私は深く息を吐いて、スケッチブックを閉じる。窓の向こう、二列に並んで校庭を横切っていく無数の体操着が、視界の隅に入る。もう何週目になっているのだろう。全く、この暑い中を汗水垂らして走り込むところなど、想像しただけで脱水症状を引き起こしそうになる。ボール遊びに必要な体力はボール遊びで身につければいいのだから、さっさと解放してあげればいいのに。

 小さく鼻を鳴らしてから、無意識に出たよくない癖に気付いたところで、ついでのように彼の存在にも気付いた。ああ。つい間抜けな声を洩らして、私はスケッチブックを手に取る。

「綾さん。まだ残ってたの」
 きっと聞こえていたであろう私のよくない癖には触れず、優は柔和な笑顔でもって言う。「やっぱりここに忘れてた」
「ちょっとね。はい」
 私は隅に彼の名前が書かれたスケッチブックを差し出し、「やっぱ上手いね」、と言い添える。あはは、と大しておかしそうでもなく優は笑った。「見たの。なんか恥ずかしいなあ」
「最初の方だけね。あれ、何部のかなあ。ボール使ってると大体同じに見えちゃう」
「ああ、どこだったっけ。外で練習してるのが見えて、なんとなく描いてただけだから、あんまり覚えてないなあ」

 私の吐いた嘘に、優の小さな嘘が重なっていく。私が示したのは、スケッチブックのだいぶ古い方にあった、部活動の様子を上からざっと描いただけのデッサンだ。見慣れた光景だから、どこの部の練習だったのかは察しがつく。全く無意味な嘘の塗り合いだ、思ったとき、それを見透かしたように優が含み笑いを洩らす。同じことを考えていたのかもしれない。
 きっと彼にとっては、もったいぶった嘘混じりの私との会話なんて、ちょっと笑って済ませられるくらいにどうでもいいことなのだろう。

「ねえ」
 私は注意して声を使う。さりげなく、けれどそれを意識し過ぎて彼女のようにつっけんどんにはならずに、ささやかな好意を微笑で示す。
「もう帰る?」



 昇降口を抜け、夕陽の下でゆっくりと校舎を横切っていく。真昼の紫外線に比べれば少しはましだ。暑いね、と笑う優の顔は妙に涼しげで、汗なんてちっとも掻いてはいない。私はハンカチで額の汗を拭いながら、全然暑そうじゃないじゃん、と少し不満げな声を上げる。ハンカチに染み込ませた香水が微かに匂う。困ったように眉を下げる優の横顔が見える。私はその辺りで満足したことにして、ハンカチをポケットに仕舞う。

 話すことは、特にない。私は優に興味がない。優もきっと私に興味を持っていない。というより、彼はきっと誰に対しても興味なんてないのだと思う。彼はいつもへらへら笑って、ときどき川島翔太や、それと同類のお調子者に捕まっていじられてあげたり、柔和に振る舞ってはいる。けれど私は、そこに積極性や、人との関わりを求めるさまを感じたことがない。ただ中学生の役割の一つとして、必要となるコミュニケーションを果たしているだけ、というように見える。誰のことも拒まないが、誰のことも受け容れない。一緒に過ごす時間が長ければ長いほど、そう感じる。

 私たちは互いの夏休みの予定や、美術部で今手がけているものの進み具合などを、当たり障りなく話しながら歩いた。顧問の女性教師に声をかけられて、やっつけ仕事で書き上げたいじめ防止ポスターのことを思い出して、私はふと意地悪を言ってみたくなる。

「ね、優は描きたいものとか、ないの」
 話題に困った風を装いながら、けれど私はいやらしい目をしていたと思う。「いつも、風景画ばっかり描いてるじゃない。好きなの?」

 一瞬だけ目が合う。すぐに優は私の肩の辺りに視線を逸らせて、そこに私の目があるみたいに笑いかけた。そこには拒絶すらない、と感じて、私は瞼を伏せる。

「好き、っていうより、人を描くのが、得意じゃなくて。でも、そうだね、ちょっと飽きたかな」
 そうだ、今度、綾さんで練習させてもらおうかなあ。でも、綾さんはちょっと、綺麗過ぎて難しいだろうね。

 顔に笑みを貼り付けたまま、優は私の顔を見て言う。私は曖昧な笑顔でお茶を濁しながら、私を対象として捉えるだけの優の目から、そっと顔を背ける。綺麗、だとか、可愛いだとか、そんな賛辞はもう聞き飽きて、すっかり感性が鈍っていた。けれど今、私は静かに狼狽している。綺麗だ、なんて言葉の似合わない、素朴な親友を思い、色を重ねて彩るばかりの自分が滑稽で、含み笑いが洩れた。



 彼女を親友と呼ぶのが正しいのか、私には今でもよくわからない。私はいつからか、友達と呼べる存在を得ることを諦めていた。私に接近してくる男の子を、友達として扱うのはとても面倒なことだ。こちらが友達として接していても、相手はなにか違ったことを期待していて、気が付けば、結果として私が思わせぶりに男の子を垂らし込んだ、なんて品のないことになっている。そういうことがこれまでに沢山あって、今の私は男の子と接することに少し疲れている。

 女の子同士の付き合いには、いちいちつまらないことが多すぎて、もう、諦めていた。犠牲を払わない範囲でなら、せいぜい私を利用させてあげたけれど、勝手に対抗意識を燃やして牽制されたり、男の子のことで一方的にやっかまれたり、くだらないトラップがそこら中に仕掛けられている。足を取られないよう、罠をくぐってでも守りたいと思えるほどの友情なんて、感じたことはない。労力の無駄だ。

 私とみずほが、友情らしきものを育むことができたのは、初めからそこが罠の中だったからだと思う。みずほはたまたま、ドジを踏んでトラップに引っかかった私に手を差し出した。私を引き上げるつもりで、結局は私が罠の中にみずほを誘い込んだようなものだ、と思う。

 みずほは花でも育てるみたいに、私に接した。自分のスタイルに私の一部を模倣して取り入れたり、私を男の子との付き合いに引っ張り出してみたり、そういうことはしない。所謂、晩熟なのだろう。女に生まれながら、未だ女に疎い。男子と軽口を言い合っているときの方が、姿勢に無理がない。女の子に対して、少し遠慮しているところが、この時期の男の子のように思える。

 少し不器用で、鈍感で、優しいこの友人と過ごすのは、私にとって新鮮なことだった。同姓でありながら、異性の親友を持ったような錯覚が、私にあったと思う。みずほが他の女の子と親しくするのが、やけに目につくことがあった。私と知り合う以前からの女友達であれば、気に障ってどうしようもなく、わざとやたらにみずほを呼びつけてみたり、一転してそっけない態度をとってみたり、気を惹こうと躍起になった。私のわがままを上手にあしらいながら、他の友達と以前のように付き合い続けることができるほど、みずほは器用な子ではない。私と親密になるのと比例して、みずほの周りは少しずつ静かになった。

 どうかしていたんじゃないかと思う。みずほを振り回して、思い通りに操作しようとする、こんなみっともないことはしたくない、普通に仲良くしていたいだけなのに、他の子が周りをうろついていると、急に不安になって、自制がきかなくなってしまう。みずほが困った顔で私に話しかけるのを見て、嬉しくなる。困らせるのは嫌なのに、困ったちゃんの子どもの振る舞い。そういうことは、もうやめたかった。

 川島翔太が、私たちの周りをちょろちょろし出したのがよかった。みずほの幼馴染である彼は、勉強はできなかったけれど周囲とのコミュニケーションに長けた、まあただのお調子者の男子だった。子どものわたしが顔を出しそうになると、お嬢、なんて冗談交じりに絡んできて、不穏を忘れさせる。みずほのことはまるで男の子扱い、彼女もそれが気楽なのか、女の子特有のよそよそしさを忘れた丸腰の笑顔で、私に笑いかける。川島翔太が上手く引っ掻き回してくれるおかげで、変な緊張感が抜けて、ときには他の女の子を交えて騒ぐこともできた。二年の半ばには、子どものわたしも大分落ち着いたと思う。友人に恵まれて、私はこのままみずほと、普通に仲良く、やっていけると思っていた。
 なのに、全く想定外のところから、私の親友は奪われた。

 みずほが恋をしている、と、私にはわかった。彼がいるときのみずほは、まるで人見知りを覚え始めた子どもみたいに、上手に振る舞えなくなってしまう。

「ああいうタイプの男子って、今まで喋ったこと、ないんだよね」

 彼が転入してきたばかりの頃、みずほがすっかり疲れ切った顔をして、零したことがある。ごく普通に、女の子として扱われることに、みずほは慣れていなかったのだと思う。小学校の頃には、男子と蹴り合い殴り合いのけんかをしたり、ひどいお転婆だったと、川島翔太が言っていた。他校出身の私でも、容易に想像できるところで、一見するとごく普通の女の子に見えるみずほは、男の子を前にすると、意外に逞しいところがあった。中学一年のときにも、教室内で男子が殴り合いのけんかを始めて、確か隅の方で大人しい女子が脅えて泣き出していたのだと思う、突然その間に割って入り、怖がってる子がいるから二人とも出てって、そう言ったことがある。なんの目印もなく、平凡なばかりと思っていた彼女の顔が、そのときばかりは大型犬みたいな迫力を感じさせた。あれでは男の子も扱いづらいだろう。

 それが優の前では、がっかりするくらいに落ち着きがない。意識しているのは明らかで、なのにやたら愛想がなく、目で追ってばかりいるのに、目が合った途端怒ったみたいにそっぽ向いてしまう。優の方はといえば、余裕たっぷりにへらへらしている。そのくせあんな落書きをしてみたり、つくづくわからない人間だ。

 見ている私は、それはもう、気に入らない。けれど、同じ間違いはしたくない。

 初めて、意図的に気のあるふりをして接したのが、優だった。相手が悪かった、と思う。外見的に、そんなに魅力のない女の子ではない、と自負している私だが、優はこれっぽっちもなびく気配がない。

 今になって思う。優は、目の前にいる女の子を、上手く振る舞えなくなるようにするのが得意なのだ。

-

 秋の涼しい朝に、私は登校前の優を見た。優はいつも、家を出る時間が定まっていないのだと思う。毎日優の家の前を通る私が、登校前に出会すことは、あまりなかった。
 優はアパートの階段を降りて、道へ出るところだった。そのとき彼の指に引っ掛けられた、家の鍵が落ちた。地面にぶつかる金属の音に、優は足を止めて、ぼうっとした顔で振り返る。
 私の足元に鍵が落ちていたから、拾い上げた。鍵には赤い影法師のキーホルダーが、情けない顔でぶら下がっていた。

「おはよう。……これ、落ちたよ」
 鍵を差し出すと、眠たそうな優の目が、私の手を捉える。見覚えのあるキャラクターに目を落として、私は含み笑いを洩らす。
「こういうの、つけるの? 意外だね」
「……ああ、ありがとう」
 彼は生返事で鍵を受け取り、私に背を向ける。足を動かそうとして、ようやく思い出したように、「おはよう」と笑う。

「大丈夫? 睡眠不足、って感じ」
「そう、だねえ。昨日たくさん寝たから、今日は、駄目だね。なかなか寝つけなくて」
「そう」並んで歩く横顔を見て、私は言う。「わたしは、……昨日あんま寝てないから、今日たくさん寝たよ」

 はっとする。私は私のことを、綾、と言う。それは私が毎朝顔を薄く塗って、髪を巻くのと同じように、意味のないポーズに過ぎない。馬鹿な女に見えることを、恥じたことはない。

「だから優も、明日はよく眠れるんじゃない」
 笑顔を繕いながら、私は私の、意味のない行為について少しだけ考える。優は目線を前に向けたまま、「そうだね」と微笑する。会話が途切れて、少しの間、黙ったまま歩く。

「そういえば、綾さんは」
 私は優の顔を見る。私といるときに、優が話を切り出すのは、珍しく感じた。
「これ、どう思う?」
 ポケットがちゃり、と鳴って、私の前にあの影法師が差し出される。眉毛を下げて、困ったみたいに笑ったまま、突っ立っているそれ。

「ああ……」私は自分が、どういう目をしてそれを見ているか、わからない。
「あんまり可愛くない」
 他人には絶対に聞かせたくないような、可愛くない声が、私の口を滑り落ちていく。顔を見られたくなくて、私は俯き、誤魔化すように続ける。「でも、いいんじゃない。男の子がつけるなら、それくらいのが、シンプルで」

 そっかあ、と、優がいつもの能天気な調子で言うのを聞きながら、少しだけ足を速める。調子が、狂う。

-

「返してあげるよ」
 吐き捨てるように言って、彼女の膝に生徒手帳を叩きつける。挟んだままとっておいた赤い影法師を、彼女が見つけ出して、私の顔を見上げる。
 ねえそれすっごく可愛い、綾も同じの欲しい、どこで買ったの? 私はそう言っただけだ。簡単だった、みずほは少しの間困った顔をしただけだ。私が模試の勉強のために誘いを断った、花火大会の日に、露店で買ったものだから、同じものは買えないと思う。そっかあ、私は大袈裟に見えないよう調節して、表情を翳らせる。途端に、みずほはそれを私に差し出す。よかったら、あげるよ、あたしは行ったけど綾は行けなかったんだからさあ、来年は一緒に行こうよ。
 それだけだ。こんなもの、手に入れたってなんの意味もなかった。

 私は自分でも、どこまでが本気だかわからないようなことを散々口走ったあとで、少し姿勢を崩していた。けれど、みずほが困った顔をしているのが、容易く思い浮かぶと、私はようやく笑顔をつくるだけの余裕を取り戻す。
 市田未来のことは、どうでもよかった。あれはただのきっかけに過ぎない。こうなるのは時間の問題だ、と、子どものわたしが暴れ回るのを感じながら、覚悟をしていた。

 腰を屈め、みずほの顔を覗き込む。真っ直ぐな髪と、ぼんやりした顔、まだあどけないみずほは、私を欺くことをきっと自覚していない。

「みずほ、嘘吐いてたでしょ」

 彼女の身体が強張るのを、気配に感じる。可愛い、と思うのと同時に、殴ってやりたくなって、私の笑顔が歪む。

「好きな人いないって、嘘でしょ。本当はいるんだよね」
 全くどうでもいい嘘だ。好きな人、って言われてもぴんとこない。いつかみずほが言った白々しい言葉を思い出し、頬から血が引いていく。

「当ててみよっか。ね、みずほ」顔が醜く歪むのを感じながら、私は言う。

 それはまるで発作だった。私の唇が動き、震え、抑圧できない怒りを吐き出していく。みずほはわたしに嘘を吐いた、棘が刺さらないように触れる、中途半端な優しさが、わたしを裏切った、と、聞き分けのない子どもが、喚く。止まらなくなる。

 やめて、と悲しい声でみずほが言って、ようやくわたしを止めてくれる。

「……言えなかった」
 みずほが言ったのは、それだけだった。

 死んじゃえ。一瞬だけ思って、必死に堪えた。わたしは、みずほがなにも言わずに誤魔化していたことが、こんなに腹立たしいのだと思っていた。でも、それだけではない。きっと、わたしも恋をしている。

「ごめん」

 わたしの目を見て言うみずほの顔に、もう迷いを感じることができなかった。わたしは笑う。何故だか、急に、山川紗知のことを思い出す。みずほが、彼女の手を離していくところを、わたしは今みたいに笑って見ていたのだ、と、他人事のように思い出す。

「もういいよ」
 わたしは笑ったまま、呟く。もう離してあげよう、と思う。どんなに欲しくたって、手に入らないものは、手に入れなくてもいいものだから、そのままでいい。

 腕を持ち上げて、銃口を彼女の額へ定める。ひっぱたいてやろう、と思っただけなのに、わたしの手には銃があったから、引き金に指をかける。

「ばいばい、みずほ」

 爆音が耳を裂く。腕が大きく跳ね上がって、降りる。その先に、目を見開いたままのみずほの顔が、ちゃんと見えた。

 初めてピアスを開けたときと似ていた。大失敗だった。市田未来をちゃんを殺すことができたのは、みずほがいたからだろう、と思いながら、わたしはみずほに弾かせた引き金から指を外す。豆鉄砲を食らった鳩と、目が合ってしまい、わたしは堪えきれずに笑い出す。

 背後に聞こえる声を無視して、わたしは歩き出す。次から次へと込み上げる笑いに、喉が絞められ、視界が薄く滲み始める。

「綾!」

 熱くなった耳朶に、樹脂のピアスが一つ。わたしは足を止めずに、先を行く。二つ目のピアスは、上手に開けられる。



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