[ending]-F08

 彼は顔を上げて、あたしを見て、笑う。それだけであたしは、自分があたしじゃない別の女の子になったようになる。喧嘩別れした友達と目が合って微妙に気まずいとか、明日は数学のテストがあるとか、そういうことがまるでどうでもよくなる。
 あたしがこれまで、僅かながらにつくってきたあたし、を、彼の笑顔は容易く解体してしまう。

 愚かだと思う。こんなときになっても、変わらない。
 優(指方優/男子五番)は赤黒い色の飛んだ頬をほころばせて、笑った。いつもと同じ。いなくなった友達も数学のテストも、ぐちゃぐちゃになって倒れてる死体も、全く関係ないような、穏やかな笑顔。めまいがした。なにか言わなければいけない気がしたけれど、優は本当にいつも通りに笑っていて、あたしはいつも通りに自分の輪郭を見失いそうになって、それを誤魔化したくて目を伏せた。大体この状況で、なにから話せばいいと言うのだろうか。

「生きてたんだね」
 なにを話しても他人事みたいな、優の話し方。なんでこんなに落ち着いていられるんだろう。「探したんだよ、みずほ。どっかで死んでないかと思って」

 あたしは余程変な顔をしたのだろう。優の眉毛が、ちょっと困ったみたいに歪む。どうしたの、とでも言うように首を傾げた彼は、夏に見た赤いてるてる坊主のキャラクターを、改めて連想させた。

「そう……あ、そっかあ」

 何これ意味わかんないなんで殺したのなにかされたの、なんにもしてないのに殺したの? 言いたいことは頭の中を過っただけで、口に出来たのは間抜けな返答だけだ。明らかに優はここに倒れている誰かと、なにかあった筈だ。優の足元にチェーンソーのようなものが落ちているし、さっきまで聞こえていた変な音は考えてみればチェーンソーの動く音だったように思える。はっきり言って、優が殺したようにしか見えない。優は自分の足元に、ひどいことになった男の子の身体が倒れているのに、そのことについてなにも言わない。全然いつも通りに笑ってるのはおかしい。ようやくまともな考えが働いてくると、次第に恐怖が膨らみ始める。

 優の困り顔が、ふいに崩れる。お婆さんが子どもを見て笑うような優しい顔で、だけど目だけが、変な光り方をしていた。それは綾(佐久間綾/女子六番)を思い出させた。思い出させられただけで、それ以上は考えられなかった。死体があって、凶器があって、明らかに殺人者としか思えない優がいて怖いのに、ああもう会えないかと思った、と考えているあたしの方も、たぶん相当におかしい。あたしは優を探していたのか。もう会えなくなるのがそんなに怖かったのか、と思うと、涙が出た。

「怖い?」
 あたしは優の目を見て、なにも言えずに頷いた。優が訊くのなら、なにを言われても頷いたと思う。あたしは普通に馬鹿だけど、今はきっと馬鹿以上の何者かになっている。
「そっかあ。怖いね」
 優の腕が伸びてきて、あたしの頭を撫でた。撫でた、というには弱すぎて、触るような感じだったけれど、あまりの恥ずかしさにお腹の下の辺りが苦しくなる。首を伏せて逃れたいのに、身体ががちがちで動けない。こんなただの抜け殻みたいになってるあたしに、なんで触るんだろう。

「大丈夫だよ」頬に触れた指が、首へ落ちていく。お腹の奥の痛みで、もうなにも考えられなくなる。「もう、やめようね」

 ゆっくりとゆっくりと、息苦しくなる。逃げなきゃ。警告は靄のずっと向こうにあって、今のあたしには遠すぎる。お父さんも、お母さんも、妹も、いつも一緒にいた友達も、足元の死体も、あたしがずっとあたしだと思っていたあたしも、なにもかもが遠すぎる。本当に苦しくなってきて、手も足も勝手に動いていて、身体中の汚物を排泄してでもどこからか酸素を取り入れなきゃいけないはずなのに、目の前で優が笑っているから、それでいいような気がした。そこまでして酸素を取り戻しても、あたしはもう今までのあたしにも今のあたしにもなれなくて、そんなあたしになるのは嫌で、なにより優がいなくなったらもうどうしていいかわからない。全てが遠くなって、身体中から苦痛が流れ出るばかりで、今あたしの手の届くところにあるのは、優だけだ。

 不器用に跳ね上がった手が、べっとりと汚れた優の頬に触れた。あたしはそこだけに意識を集中させて、彼の頬に飛び散った黒っぽい赤を、指先で撫でて拭った。もうまともに考えることができなくなって、なにも言えなくて、触ってくれたのになにもできないあたしが、優にできることはそれしかなかった。



 みずほの身体が地面に崩れ落ちて、咳込み、えづき、ひゅうひゅうと息を吸う音がひとしきり聞こえた。それで僕は、自分の手から力が抜けたことに気付いた。

 あと少しだった。手が届いたはずだった。なのに、みずほは僕に触ってくれた。呑み込まれる、と思った。呑み込もうとしていたのは僕の方で、だけど僕は本当にそうしたかったのか、急にわからなくなって、怖くなった。

 縮こまって虫みたいになった僕の身体に、みずほの手が触れる。怖々と不器用な手つきで、僕の頭を、子どもにするみたいに撫でる。その手を僕は怖いと思う。触られているのも怖いし、振り払って失うのも怖い。優、優、とただ僕の名前を弱々しく繰り返すだけの彼女が、こんなにも愛しいのに。

 こんなことをするくらいなら、殺してくれた方がいい。思っているのに、それを口に出してみずほに伝えることはできそうになくて、途方に暮れた。僕は本当は、みずほに呑み込んでもらいたくて、ずっと彼女を探していたんじゃないか。みずほはいつも硝子の向こうで黙っているだけで、だから呑み込むしかない、と思い込んでいたのかもしれない。

 みずほは困った顔で笑っていた。僕はやっとみずほを見て、本当にあの赤い影法師みたいだなあ、と思い、微かに笑う。笑みは身体に染み渡っていくようで、そんな風に笑うのは、物凄く久しぶりだったような気がする。やっぱり、もう殺してほしい。急に不安が込み上げて、僕は腕を伸ばす。これ以上離れることがあるとしたら、今度こそ僕はみずほを殺してしまう。

 手が届く前に、短く、爆音が響いた。なにが起きたのかよくわからなくて、けれど背中は慌しく痛み始めた。きょとんとした顔でみずほが僕を見ていて、僕は誰かが頭の中を覗いてくれたのかと思った。

 頭の中でずっと流れていたメロディーを、口ずさんでいたのは、誰だったのだろう。僕はずっとみずほだと思っていたけれど、本当はみずほじゃなくて深雪だったのかもしれなくて、でももうそんなことはどうでもいいと、今は思った。みずほの腕が、僕を引き止めるみたいにぎゅっと、僕の身体を呑み込んだ。


[ending]-M05

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