黒煙が舞う。炎が吐き出す毒々しい色をした靄の中で、二人が身を寄せ合っているのが見える。何かを確かめるようにしっかりと。強く。強く。
榎本あゆ(担当教官)は廊下側の壁に背中を預けて座り込んだまま、目を細めてただそれを眺めていた。きっとそれはとてもとても美しくて、絆だとか何だとか呼ばれるようなものなのだろう。けれどそんなものの脆さなんて、今まで嫌になるくらい思い知らされてきた。

「ごめんね、お姉ちゃん。ごめんね、お願い」
小さく小さく耳に届いたのは、水谷桃実(女子16番)の声。
「……帰って」
弱々しい拒否の言葉に、桃実を抱いていた彼女の腕がくらりと落ちる。失意に歪む切れ長の目と、熱風に揺れる色の抜けた髪。桃実の姉、らしき彼女――水谷咲菜の姿を見ていると、桃実が穂積理紗(女子15番)と親しくしていたことにも頷けるような気がする。
ふいに咲菜と視線が合う。ただ呆然と開いていたその瞳の中、インクを零すように不信な色が広がっていく。誰だテメー。そんな声が聞こえてくるようだった。あゆは肩をすくめ、熱気に乾いた唇の端から笑みを洩らす。

「どうすんのお姉ちゃん」
幾分ふざけた声色に咲菜が露骨に表情を歪めたが、構わず続けた。「桃実ちゃんは帰りたくないんだって。そりゃ死んだ方が楽だもんねぇ」
ねえ桃実ちゃん? 歌うように続け、あゆはマイルドセブンの紙巻を咥える。桃実はその身を咲菜に預けたまま、何も答えない。咲菜の腕に抱かれた小さな背中は、微かに震えている。
そうだろうね。声に出さず呟きながら、ライターで火を灯す。答えがすぐに出るのなら、もっと簡単に生きられる筈だった。桃実だって、自分だって。

真っ直ぐにこちらを睨みつける咲菜に向けて、あゆはふっと煙草の煙を吐いた。何故だろうもう味がわからない。ただ自身に向けられた、彼女の瞳の中にある意志の強さだけはわかる。
「桃実、聞きな」
咲菜の上ずった声がはっきりと聞こえる。怒ったように歪んだ細い眉の下、目に滲んだ何かが音もなく頬を滑っていく。
「あんたはあたしの妹なんだよ。今まであたしがどんだけバカやったってあんたがあたしのことお姉ちゃんだって言ってくれたみたいに、あたしだって桃実に何があったって桃実のこと妹だって思ってんだよ。だから」
だから。だからさぁ。涙ぐんだ声が繰り返され、咲菜の腕が再びきゅっと桃実を捕える。
「桃実はあたしの妹だから、あたしより先に死んじゃダメなんだよ。年功序列ってやつだよ。そりゃ桃実はあたしより辛いこと、死ぬほど辛いこといっぱいあったしさ。あたしには何も、ほんとになんにもできないかもしれないけど、だからこんなのあたしのわがままかもしれないけど……でもやっぱ桃実はあたしの妹だから、あんたまだ死んじゃいけないんだよ」
濡れた瞼を持ち上げて、咲菜は唇を噛む。その瞳に映る炎は、未だ室内を暴れ続けている。
「……だって、先に死ぬのはあたしなんだから」
力なく洩れた咲菜の声を覆い隠すように、ぼうっと唸りを上げて炎が燃え上がる。

あゆは紙巻を咥え、机の上に置いたままの小型拳銃へ手を伸ばした。唇が無意味に弧を描いているのがわかる。
「優しいお姉ちゃんだね」
フィルターを噛んだまま呟き、そっと腕を持ち上げる。「ま、こんな国にいるよかマシかもしんないし。先、行く?」
向けた銃口の先、切れの長い咲菜の目が大きく見開かれるのが見えた。瞬間、振り返った桃実の表情が凍りつく。
「やめて!」
桃実の悲鳴が大きく、はっとするほどに大きく響き渡る。引き金にかけた人差し指から力を抜き、あゆは破顔してふらりと腕を下ろした。咥えた煙草の先から灰が崩れ、腿の辺りへ落ちていく。相変わらず煙草の味はわからなかった。
床だけでなく、背中に当たっている壁までもがすっかり熱を持ち始めている。煙に乗って天井へ舞い上がっていく火の粉を眺め、それからあゆは手元の拳銃へ視線を落とした。くるくると頭の中を巡る思考を無視して、咥え煙草の唇が開く。

「そんなに頑張らなくていいからさぁ」
言って、あゆは桃実を見た。唇は無意識に笑みを作ったまま。
「まぁ頑張ってみれば? 死んだ子の分まで生きろなんて無理なこと、誰も言わないから」
あゆは言い終えると肩をすくめ、ゆっくりと桃実から視線を外した。桃実の顔を見なくてもわかる。きっと彼女だって、もうわかっている。
「あんたも……行かなきゃ、死ぬんじゃないの」
咲菜が恐々と言う。乾いた笑声を上げ、あゆはフィルターを噛み直して口を開いた。
「あたし、もうとっくにイッちゃってんだよ。勝っても負けなの。だから、バイバイ。また、ね」
寄り添う二人に向けてひらひらと手を振る。返ってきた「でも」という細い悲鳴を無視して、あゆは瞼を閉じた。もう見なくてもわかる。きっと行ける。大丈夫だ。だからもう、この目は必要ない。
じわじわと頬をあぶる熱風は、もう目の前まできている。その頬を勝手に滑り落ちていく涙は、煙のせいだろうか。

ばりばりと巨大な何かが崩れゆく激しい音が聞こえ、肩に熱い火種が降りかかる。やられたのは黒板だろうか? しかしそれに続いて、小さな悲鳴と不揃いの足音は確かに耳まで届いてきた。
ふと疑問が湧き上がる。あゆは拳銃を床に落とし、その手を首元まで持ち上げた。裸の首にそっと触れ、湧き上がった疑問をゆっくりと反芻する。
本当に大丈夫か。一体何が大丈夫なのか。確かに彼女には姉がいる。しかしそれでも、自分たちは「勝っても負け」なのに。

裸の首筋が温かいのか冷たいのか、もうわからない。それでもとくとくと脈を打つ静かな振動は、指先から確かに伝わってくる。とくん、とくん、とくん。こんなものが一体何になる? この音こそがきっと罪だった。眠りを恐れて狂気に身を投じたこの命の逞しさが、脆さこそがきっと、全ての罪の始まりだったのに。
閉ざされた瞼の向こうに古い情景が広がっている。返り血に塗れたセーラー服を着た十五歳の自分が、きっとあのときの桃実と同じように、暴れ狂っていた。撃って刺して殴りつけて、そうして誰もいなくなっても、銀の首輪は外れてはくれない。狂気は手に染み付いた真っ赤な血のように、ずっとずっと落ちないまま。どれだけ殺しても無駄だった、落とそうとすればするほどこの手は汚れていく。きっと過ちに気付くには遅過ぎたのだろう。

「……ねぇ、桃実ちゃん」
きっともう彼女さえ残っていない、何もないこの場所で、あゆはひとり呟く。
「あたしたちの首輪、一生外れないね」





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