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また来ようね。卒業式の日にかつての同級生とお決まりの言葉を交わしながらも、結局今まで一度も来ることはなかった。友人の口から「ナマイキなのがいたらイワしてやろうね」などという言葉が返ってきたからだったのかもしれない。散々悪事を重ねたこの場所に卒業後まで図々しく上がり込み、挙句かつての自分たちのようにのさばっている在校生をたしなめるつもりなど今更なかったのだ。小うるさい上級生が消えたんだから好きなだけバカやればいい。あたしのときだってそうだったんだから、年功序列ってやつだ。卒業証書を片手にしみじみと思いながら校門を出たあの日の自分は、きっと「ちょっとだけ大人になった高校生の咲菜さん」にでもなったつもりでいたのだろう。

しかし今の彼女に、そのことについてのむず痒い気恥ずかしさを覚える余裕はなかった。水谷咲菜は数年ぶりに足を踏み入れた母校の校舎で、ただ夢中になって階段を駆け上っていた。懐かしさを噛み締める暇もなく、ひたすらに先を急いだ。

ここへ来る手がかりとなったのは、妹と同じ丹羽中学校の三年生の証言であった。闇雲に走っていた路地が見慣れた公園の横へ差し掛かっていたとき、かつて自分を見送った顔見知りの在校生と偶然出会したのだ。
「桃ちゃん……ですか?」
妹を見ていないかと訊いた咲菜に、ベンチから立ち上がった彼女は幾分気詰まりした声で答えた。さながら薬物中毒になった挙句男に騙されて売春三昧の日々を送る友人の名前でも挙げるようなよそよそしさ。それでも火を点けたばかりであろう長い煙草の紙巻をさっと消したあたり、「お世話になった先輩」に一応の気遣いはしているつもりなのだろうか。どちらにしても不快だった、うちの妹はバケモノじゃねぇ。お前らだってどっかで「自分たちが選ばれなくてよかった」って思ってるくせに。
そう思いたかっただけかもしれない。ちらりと伏せられた彼女の瞼は、暗い色のアイシャドウが乗っているにも関わらず少し腫れているように見えた。
「公園の前通ってくの、ちょっとだけ見ました。たぶん学校の方、行ってたっぽくて」
「ちょっとふらふらしてて……なんかヤバそうっていうか」彼女の隣で別の少女が続けた。同じ丹羽中学校の制服を着ている。彼女の友人であった。
ふらふら。ヤバそう。その言葉に動悸が早まる。咲菜は思わず二人を睨みつけていた。
「お前ら、ヤバそうってわかってて声もかけなかったわけ?」
口を衝いて出たその言葉に、二人の少女が押し黙って俯く。煙草を捨てた方が「咲菜さん……」と力なく呟いたが、それに続く弁解らしきものは見つからなかったようだった。「すみません、でした」
何に謝ってんだ。心の中で吐き捨てて踵を返した咲菜には、彼女たちが妹の姿を見つけるなりそそくさとトイレへ隠れてしまったことなど知れる筈もなかった。

ともかく、咲菜は彼女たちの言葉を頼りに丹羽中学校へ向かった。もしかしたらクラスメートの家を訪ねていたのかもしれなかったが、その可能性は静かに打ち消した。今の自分でさえ、桃実のクラスメートの家へ向かうことを考えると後ろめたさが湧き上がってくる。あの泣き虫の甘ったれがクラスメートの、ひいては遺族の家を訪ねることなど、できるとは思えなかったのだ。
ああ、しかし何故。校門の前に自転車を乗り捨てて走りながらも、咲菜は思う。何故後ろめたさを感じているのだろう。あたしが後ろめたい気分になるってことは、あの子を人殺しだって認めることと同じだ。違う、桃実は悪くない。悪くない悪くない悪くない、そうだ悪くないんだって父さんも言ってた。こんな狂った国だから。こんな法律があるから。だから桃実は「被害者」で、本当の「加害者」は。
本当の「加害者」は?

「違う」
玄関口、一つだけ開け放されていたガラス戸の前で足を止めた。闇の中、ぽつりと洩れた声が校舎へ吸い込まれていく。
ああああああ。悲鳴を上げて誰かの体にナイフを突き立てる桃実の姿が、ふっと脳裏に浮かぶ。
違う! 叫びそうになるのを堪えて咲菜は地面のタイルを蹴った。早く行こう、ここに桃実がいてもいなくても。探すんだ。一緒に帰るんだ。そうだあたしどうかしてた、殺したか殺してないかなんて関係ない。
例えばドラマ等で、凶悪な殺人犯にとある女性が殺されようとしているとき。あの状況で女性を守るために彼女の恋人が殺人犯を殺したりした場合、それは一概に「悪」と決め付けていいものか?

「違う」
足を休めず咲菜は呟く。もしも殺されようとしているのが桃実でそこにいるのが自分だったら、迷わず殺すに決まっている。例え刑務所と死刑判決が待っていようとも。世界中が「それでも人殺しは人殺しだ」と叫んだとしても、そんなことは。

鼻腔を掠めた異臭が、迷走する思考を遮った。階段を進みながらも咲菜は顔をしかめる。記憶に残っている匂いと近いような気がしていた。小学生の頃のことだ、よく覚えている。父親の工場から持ち出した塗料のうすめ液で火遊びをしたつもりが、図らずも放火犯になりかけたときの匂い。
ノースリーブのシャツから出た裸の腕が、何か得体の知れないものに触れられたようにざわついていた。燃えている? 細いヒールが階段を蹴り付ける音に動悸が早まる。足音も鼓動もどんどんテンポを上げていく。どこだ。どこだ。

四階へ足を踏み入れると、ようやくその正体がはっきりと視界に飛び込んできた。廊下のずっと奥から流れてくる濁った煙。反射的に掌で覆った口元が、情けなく震えている。
燃えている。今度こそくっきりと認識した事実に体は恐怖を示しながらも、目だけは背けることもなく廊下の奥へと吸い込まれていく。学校だったら屋上に違いない、と思っていたのも忘れていた。あたしが一番手前の一組で、一番奥は確か四組だった。燃えているのは? 桃実のクラスは?

弾かれたように咲菜は煙の中へ飛び込んでいた。もう本当に叫んでしまいたい。今度こそ思いのままに喉が震える。
「桃実、桃実!」
湧き水のように溢れて止まらない恐怖を押し隠すように、その名を呼び続ける。
大丈夫、落ち着け。大丈夫。自身に言い聞かせるように繰り返す。「消防車」という単語が脳裏を過り、足を止めてミニスカートの後ろポケットをまさぐった。硬いボディの感触はない。はっと思い出して咲菜は唇を噛んだ。携帯電話は自室に置いてきたバッグの中だ。
小さく頭を振るい、再び足を進める。大丈夫だ急げばいい。ぼんやりと煙る視界の中、足の向かう先に明々とした何かがちらつく様が、少しずつはっきりと見えてくる。
喉に引っ掛かる違和感を咳で振り払い、咲菜はもう一度唇を開いた。
「桃実!」
瞼が痛む。喉がひりつく。熱い涙が零れ落ちていく。それでも咲菜は目を瞬かせて、指先に湧き上がる震えを握り潰した。
もうもうと煙を吐き出していく大きな口は、もう目の前にある。
飛び込んだ内部はひどい様だった。窓側の床は火の海となっている。生徒用の机と椅子も呑み込まれ、教員用のデスクまでが真っ黒に焦げてしまっていた。それでも飽き足りず、暴れ回る炎は黒板までもを呑み込もうとしている。
「……桃実!」
肌をあぶる熱風を受け止めながらも、思わず咲菜は声を上げていた。

燃え盛る炎に侵食されゆく教室の中、床に横たわるその体。ずっと遠くにある美しい絵から切り抜かれたように、水谷桃実(女子16番)の姿だけが鮮烈に見える。
駆け寄って肩を持ち上げると、桃実がゆっくりと目を開いた。力なく開かれた丸っこい瞳はずっと遠くを見ているようで、何も見ていないように見える。何故だろう、こんなに近くまで来たのにそれでも彼女はまだずっと遠くにいるような気がする。込み上げる涙を堪え、咲菜は小さな妹の体をきゅっと抱き寄せた。

「おね……ちゃん?」
抱きしめたその体の温もり。細く掠れた桃実の声。言葉にしたいことが山ほどあったはずなのに、泣き出してしまいそうなほどの安堵に押し潰されて何も言えない。咲菜はただ幾度も頷き、いがらっぽい喉を小さく鳴らしてそれに応えた。
「お姉ちゃん、だよ」
ようやく声を洩らし、咲菜はしゃくり上げながらも続ける。「心配かけやがって、バカ。クソガキ」
「ごめん、ね」
妹の小さな声に被さって、勢いよく炎の爆ぜる音が聞こえる。
「お姉ちゃん、ごめんなさい」
消え入りそうなその声は、たちまち燃え上がる炎に呑み込まれてしまいそうに弱い。

「ダメだよ、桃実」
腕の力を強め、咲菜は小さく頭を振るう。桃実のほつれた黒髪、焦げた毛先がその動きに合わせて揺れる。「死刑なんてあたしが許さねぇから」
一緒に帰ろう。たとえ桃実が本当に誰かを殺していても。たとえ世界中の誰もが、人殺しと罵ろうとも。たとえこの世界が、あまりに広過ぎる桃実の独房であったとしても。
あたしはいつまでも、桃実の「お姉ちゃん」だから。




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