■110

水谷桃実(女子16番)が振り返った先、開かれたドアの向こうに彼女はいた。ぺたぺたと床を叩く足音。ゆったりとしたワークパンツの鈍い動き。細い腕がだらしなく揺れると、その手に握られた華奢なミュールが床板に打ち付けられる。
床のミュールに通される白い脚を睨みつけ、久喜田鞠江(元担任教師)は微かに震える唇を開く。
「どうして……あなたが」
「今度飲みに行こって言ったじゃん」
驚きを露に歪む鞠江の顔を見つめ返し、榎本あゆ(担当教官)は悪戯好きの子供のように笑んでみせた。やたらと不調和に室内を響くけだるげな声に反応したのか、鞠江の瞼がぴくりと引き攣るのが見える。あゆは首をすくめて鞠江から視線を外し、廊下側の最前列に置かれた机に腰掛けた。
「なーんて、ね。おかしいと思ってちょっと覗きに来ただけ。ここの警備が止められてるって聞いたから」
脱色した短い髪を揺らし、笑い混じりに言葉を続ける。「なんとなくわかっちゃったしね。鞠江チャンがなんかやらかしてそうだなぁって」

そしてやはり、予想通りであった訳だ。床に倒れたまま動かない岩本雄一郎(元副担任教師)を一瞥し、あゆは静かに唇の端を歪めた。お気の毒にね、お悔やみ申し上げときますんで。心の中で呟いてから、再び口を開く。
「派手にやり過ぎなんじゃない? まぁアンタなら適当に揉み消せるんだろうけど」
「お黙りなさい。あなたには関係のないことだわ」
嫌悪感が肌に感じられるほどに鋭く尖った鞠江の視線が突き刺さる。最早彼女にとって失策は失策でないのだと、わかった。気の済むところまでやり尽くすことしか頭にないのだろう、全く馬鹿馬鹿しいことに。

「関係ないって?」あゆは小さく鼻を鳴らし、机に突いていた右手を背中へ回す。迷いなどなかった。
「本当に関係ない人間なんかいないんだよ、この国にはね。みーんな同じ穴の……なんだったっけ」
まあいいや何でも。言い終わるのと同時にワークパンツの後ろに差したホルスターから小型拳銃を抜き出し、鞠江へ向けて引き金を引いた。鈍い銃声にびくっと身を震わせる桃実と、ワンピースの胸元に穴を開けたまま後方へ倒れていく鞠江が見える。床に叩きつけられたその肩から伸びる腕が、何かを掴もうとするように空を掻き、しかし叶わぬまま床へ崩れていく。見開かれた鞠江の目と、何かを言わんとして不器用に動く唇。自嘲的に口元を歪め、あゆは声にせず呟く。醜いな。
呻きに似た声を洩らす鞠江の唇から、何かがゆっくりと溢れ始める。それに反応したのか、桃実が声を上げるのも聞こえた。
「あ……」
言葉らしい言葉は出てこないのだろう。それに代わるように、桃実の双眸から涙が零れていく。頬を濡らすそれを拭うこともせず、桃実はただ呆然と沈みゆく彼女を眺めていた。
「また殺しちゃったなぁ」
呆れ混じりに呟き、あゆはパンツの後ろポケットから煙草のソフトパックを取り出した。器用に抜き出した一本を咥えてライターで火を点ける。窓から見える遠い遠い街の景色を眺めながら、いつもより苦く感じられる煙をふっと吐き出した。彼女は何を思って泣いているのだろう。ふと浮かんだ疑問はすぐに打ち消された、そんなことを理解しようとしても無意味だ。だいたいどうして、こんなところまでのこのこと来てしまったのだろう。
失笑の洩れる唇へ紙巻を運び、あゆはちらりと視線を動かした。二人から逃れるようにずるずると床を這って進む鞠江の姿が見える。ぎこちなく動く彼女の細腕の先に、何があるのだろう。怪訝に眉をひそめたそのとき、鞠江が小さく声を上げるのが聞こえた。

「これ、で……終わり、だわ」
後に続いたのは、何かが割れるような笑声だった。それに重なるように何かが倒れる鈍い音が聞こえ、間もなくボトルの水が零れるような高い音も続いた。そういえばこの匂いは。続きを考える間もなく、電子ライターの乾いた着火音が耳に届く。
灯された炎が照らし出すそれらが、一瞬だけ見えた。倒れた小さな缶から床に零れていく、シンナーのつんとした匂い。鞠江の上げる張り裂けるような高笑いと、歪みきった笑顔。そして次の瞬間、炎は床を伝う液体に沿って大きく広げられていた。
「ふ、ぎゃ、あはっ、ははは」
炎の両腕に包み込まれても尚、鞠江は笑っていた。呑み込まれながらも教卓を薙ぎ倒して暴れ回る鞠江の体は、見る間に炎の塊と化していく。蠢くそれを一瞥して、あゆは煙草の灰を床に落とした。どこまでも馬鹿馬鹿しい女だ。あたしに言われちゃ、おしまいなんだろうけど。

炎を纏ったその体は窓側に近づいたところで動きを止めた。窓際のデスクに隠れるように倒された一斗缶が、燃え上がる炎に照らされている。缶は先ほどのそれと同じ、塗料用のシンナーの詰められたものだった。
そうだった。教室に入ったときからこの匂いはしていた、前もって室内に撒いてあったのだろう。座り込んだままそこを動かない桃実を見て、あゆはフィルターを噛む。そういえば桃実の親は塗装工らしい。なるほど、それでシンナーね。あゆは吸殻を中指で弾きながら解した。桃実を殺して「頭のおかしくなった可哀相な殺人犯、兼放火犯」にでも仕立て上げてしまえばそれでおしまいだったのだ。
弾いた吸殻は桃実の頭上を越え、勢いよく爆ぜる炎に吸い込まれていく。
「わー、燃えてる燃えてる」
異臭に顔をしかめながら呟き、あゆは机に置いたソフトパックから二本目の煙草を取り出す。なびく炎の合間、醜く変色した鞠江の腕がちらついた。その細腕が抱えていた執念を引き継ごうとするように、炎はその手を伸ばし続ける。床から床へ、カーテンから壁へ、そうして机も椅子も、教卓も黒板も全て。飽き足りずに何もかもを呑み込もうとするその姿は、ひどく貪欲に見えた。
その手に捕えられるまでに、どれくらいの時間が残されているのだろう。

咥えた紙巻の先に火を点し、あゆはその煙を深く吸い込んで味わう。やはり、いつもより苦く感じられる。吐いた煙の先、振り返った桃実の表情がようやくはっきりと見えた。
桃実はどこかを見ていた。こちらを見ているようであり、しかしそうではなくどこかを、ただただ見ていた。熱気に乾かされた頬には涙の筋が残っている。味わいもせずに二口目を吐き出して、あゆは唇を動かした。彼女は何を思っているのだろう。

「ねぇ、焼死ってかなりヤバイらしいよ。さっさと帰れば?」
それに応じたのか否か、桃実がゆっくりと瞼を閉じる。
「じゃあどうしたいの。こいつらと一緒に死にたいってこと?」
小さく音を立てて爆ぜた火の粉が、視界の隅にちらつく。
おかしな感覚だった。桃実に訊いている筈なのに、自分自身に訊いているような気分になってくる。溜め息混じりに煙を吐き、あゆは皮肉めいた笑みに口元を歪める。
静かに開かれた桃実の目が、こちらを向いた。生け作りの魚のような瞳には一点の輝きもなく、ただそこに映る明々とした炎には虚しさしか感じられない。
訊かずとも答えはわかった。それでも紙巻から落ちる灰のように、乾いた声は唇から洩れていた。

「何がほしいの?」

彼女の抑揚のない声は、まるで自分の体の奥から沸いてくるように聞こえていた。
それを受け止めながらも、水谷桃実はゆっくりと視線を泳がせた。火の粉を舞い上げて室内を燃やす炎が、ひどく眩しく感じられる。鞠江が火を放った窓側の前方のほとんどは、既に炎に呑み込まれてしまっている。そればかりでない、床を走る炎はもう少しで座席も黒板も、やがては自分も、残さず燃やし尽くしてしまうのだろう。

熱気とともに舞い上がる煙に、喉がちりちりと痛む。きっと毒になる煙なのだとわかった。炎は毒を吐き出しているのだ。毒を吐き出しながらも、綺麗に食べ尽くしてしまおうとしている。この教室に残されたあたしたちの醜いところを、残さず全部。
ふっと肩の力が抜ける。そうだとしたら。この炎が全てを呑み込んで、何もかもが真っ白に燃え尽きて、終わってしまったなら。あたしたちはもう一度、みんなで笑うことができる?
何かが破裂するような音とともに、腕を焼かれるような痛みが走る。はっと左腕に視線を落とすと、そこにあった欠片が静かに現実を示していた。飛び散った小さな火種はじわじわと皮膚を焦がし、熱と痛みをしっかりと焼き付けていく。
夢物語だ。心の底から嫌になった。そんな都合のいいことを考えてしまった自分も、身勝手に頬を流れ落ちていく涙も、こんなときになっても図々しいくらいに力強く鼓動を打ち続ける心臓の存在さえも。

持ち上げた視線の先、ぼやけた視界の中で炎が踊り続けている。
もう「教室」と名付けられたこの空間は、なんの意味も持たない。だってここには、もう誰もいない。誰も帰ってこない。
きっともうとっくにわかっていた。ここにはもう、何もない。全てが粉々に砕けてしまって、もう欠片さえ残っていない。この体の中まで空っぽだと思えるくらいに、何もなくなってしまった。

「……いらない」勝手に声が零れていく。涙も声も、身勝手過ぎる。
「もう、なんにもいらない」
それだけ言って、瞼を閉じる。もう完全に電源が落ちてしまったように、体の力が入らなくなった。そのまま体がまるごと、入眠するときのようにゆっくりと落ちていくような感覚に包まれていく。
それでいいの? 彼女が静かに問う声が聞こえる。もう頷く気力もなかった。桃実は床板の上に丸まったまま、声に出さず答える。もういい。もうなんにもない。

床越しに熱が伝わってくる。あったかい。このまま。それを受け入れようとしているのに、頭の片隅で誰かの声が鳴り響いている。
「わああああ」
自分の体にしがみついて泣いている、七歳の女の子の姿が見える。
彼女が誰だか、すぐにわかった。幼い頃公園で怪しげな男にさらわれそうになったとき、無事保護されて遅くに帰宅した自分を泣いて迎えた、たったひとりの姉だった。
懐かしさよりも先に、彼女の記憶が次々と溢れていく。小学生だったとき、一緒に走った朝の通学路。転んで擦り剥けた膝小僧。痛くないと言い張りながらも、涙ぐんでいた切れ長の目。
いつも強がってばかりの怒りんぼだった。そんな姉のつたない優しさが大好きで、いつだって甘えてばかりいた。姉が中学生になっても、自分が中学生になっても、変わらなかった。喧嘩もしたけれど、同じ数だけ仲直りもした。そうしていつまでも、虫も殺せない甘ったれの妹のままでいられると、思っていた。けれど、今はもう。

やめよう。振り払うように思考を遮断し、くたびれた瞼に少しだけ力を込める。どこからかまだ、声が聞こえてくるような気がする。桃実。桃実。亡霊を呼び戻すような細い声と、それを打ち消すように轟く低い音。呑み下したこの醜さに炎が喘いで毒を吐く、凄惨な悲鳴。




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