□109

2001.07.07 Sat. PM08:43
三年四組の靴箱の前だけ、玄関口が開いていた。やはり彼女が開けて待っていたのだろうか。
ぼんやりと頭の隅で考えながらも、足は勝手に階段を上っていく。おぼつかない足元もぐらつく視界も相変わらずであった。不安定にどうにかバランスを保つその体は、羽のように軽くも、鉛のように重くもあるように思える。
シャツの内側にじっとりと汗が滲んでいたが、蒸し暑さはなかった。夜の校舎に漂う空気は、どこか気味が悪いくらいに冷え切っている。どうしてだろう、やはり「夜の学校」だから? 誰もいないからなのかもしれない。誰もいない筈なのに、階段を上る足音が幾重にも響いて聞こえるような気がしていた。
ガラス窓から差し込む外灯の光が、ゆっくりと進む足に影を伸ばす。その影の向こうには誰もいないように見える。やはり自分しかいない。静かに確認して、水谷桃実(女子16番)は再び足を上げた。自宅からここまで履いてきたままのスニーカーが、階段の中央を縦断するラインに薄く汚れを残していく。

ようやく段差が終わると、薄暗い視界の中に懐かしい場所が見えた。階段の終わりにがらりと広くスペースをとったそこは廊下へ、そして三年四組の教室へと続いている。たまにここでお弁当を食べたり、座り込んでお喋りをしたり。ふざけておいかけっこしたり、誰かがバク転なんか、したりしてた。
思い出された光景を振り解くように、桃実は再び歩き始めた。長く伸びる廊下の一番奥に、三年四組の教室がある。そこへ一歩近づく度に込み上げる陰鬱な何かを無視して、よろめく足は教室へ進んでいく。もう引き返すことはできないのだと、静かに笑うように。
桃実の赤いスニーカーが動きを止める。眼前にあった教室のドア、上部に吊るされたプレートがそこを三年四組のものだと示していた。こうしてきちんと見上げるのは初めてかもしれない。一年生のときは緊張しながらプレートを見上げて、ああ中学生になったんだなぁ、なんて思ったりしていたけれど――
ドアへ伸びる手が汗ばんでいたのがわかった。緊張しているのだろうか。
小さなガラス窓の向こう、寂しげに並ぶ机と椅子が見える。薄暗い室内の中、窓辺にある荒川幸太(男子1番)の列の座席だけにぽつぽつと外灯の光が射していた。
緊張しているのだろうか。それとも、怖いのか。見ることが。聞くことが。これ以上何かを知ってしまうことが。
我知らず、笑みに似た吐息が洩れる。怖い? 今更。ここまできて、一体何から逃げたいのか。逃げられるとでも思っているのか。本当にばかだ、あたし。どうしようもないばかだ。
怖いのは誰だ。何よりも一番恐ろしく思えるのは、他の誰でもない自分自身だ。あんなに好きだった彼を殺した、自分自身だ。かさついた唇を噛み、桃実は表情を歪める。ぽつりと外灯を受け止めている幸太の机が、細めた瞳に映っていた。からかうような彼の笑顔がぼんやりと思い浮かぶ。本当に、どうしてこうなってしまったのだろう。あんなに大好きだったのに。

暫しの間を経て、ドアに手がかけられる。乾いた音を立ててドアが開くと、いつもと違う三年四組の教室が視界に広がった。机も椅子も教卓も変わっていない筈なのに、何故だろうか。教室にある全てが持ち主を失ったまま、ただ呆然と立ち尽くしているように見える。
桃実は無意識に眉根を寄せていた。おかしな匂いが鼻腔を刺激する。どちらも記憶にあった。どこか懐かしいつんとした刺激臭と生々しい何かのそれが混ざり合った匂いが、胸の辺りを不快で埋めていく。なんだろう。
それからゆっくりと動かした視線の向こうに、桃実は認識した。黒一色の長いワンピースに包まれた、久喜田鞠江(元担任教師)の細い体。ゆらりと揺れるワンピースの裾、俯せたまま動かないスーツ姿の彼。床板に広がる水溜り。見慣れたトランペットのケースを濡らすそれがどんな色をしているのか、薄暗い教室の中でもわかった。容易についてしまった予測に、寒気がしていた。
ああ。それでもまだわからなかった、一体これは? 喉のずっと奥から急速に込み上げてくるものを堪えきれず、桃実の膝が崩れる。床に手をついて喘いでも、おかしな味をした唾液しか出てこない。どうして岩本雄一郎(元副担任教師)がここで倒れているのか、考える余裕さえなかった。ただ一つだけわかる、横たわる彼が、笑う彼女がその現実を恐ろしいほどにくっきりと示している。まだ終わってはいないのだと。
ひくひくと胃を締め付けられる感覚に涙ぐむ桃実の横を、鞠江の声が通過していく。
「ご苦労様、村瀬さん。あなたはもうお帰りなさい。このことは口外無用よ」
「しかし……」
初めて聞こえた男性の声に、桃実は口元を手で覆ったまま振り返る。教室のドアの向こうで、村瀬と呼ばれたスーツ姿の男が難しそうに眉根を寄せていた。年齢は二十代ほどだろうか、若々しい顔立ちをしている。見たことのない男であった。それ以前に疑問だった、彼はいつからそこにいたのか。一体どこから出てきたのか。まさか最初から?
ふいに男と視線がかち合う。彼の細く吊り上がった目に、同情の一端らしきものが混ざっているように見えた。怪訝に思う間もなく、鞠江の笑い声が耳に届く。
「いいのかしら、あなたひとりを亡くしても全く問題ないのよ。私にとってもお父様にとっても、ね」
瞬間、男の表情に焦燥が浮かんだ。それを見逃さなかったように、鞠江の声が続く。
「もうあなたに用はないの。わかったら早くお帰りなさいな」
冷やかに響く声に男は閉口し、唇をへの字に曲げたまま不器用に頷く。
彼の顔を見ても、もう視線は合わなかった。踵を返し去っていく男から視線を外し、桃実は再び鞠江を見た。尾行? まさか。何故そんなことを。
それに気付いたのか、鞠江が笑顔を見せる。彼女が頬まで使って笑うところは、今までにもあまり見たことがなかった。

「会いたかったわ」
来客に丁寧な挨拶を返すように、彼女の声が流れ出した。「お久しぶりね。水谷さん」
それに答えず、桃実はぼんやりと鞠江の笑顔を見つめていた。人形のように美しいそのパーツは今までのものと変わりなく、しかしそれが作り出した表情が、今までとは違うように思える。
どうしてだろう。見つめている間にふと思い出す。幼い頃読んだ童話の絵本。白雪姫に毒りんごを差し出すとき、きっと魔女はこんな表情をしているのだろう。もしかしたら、鞠江は魔女だったのかもしれない。違うそんな訳がない。何を考えているのだろう、馬鹿馬鹿しい。ふっと湧いたおかしな考えを打ち消してみても、絵本の記憶は続いていく。何故だろう、思い出したのは葬式に赤い靴を履いていった女の子のお話だった。六歳の自分はあの童話をひどく怖がっていた覚えがある。女の子は懲りずに教会のお祈りにも、赤い靴を履いていった。それからどうなっていたのだろう、確か兵隊さんが女の子を叱りつけるのと同時に、赤い靴が勝手に踊り出していた。外へ飛び出し、茨の中を突き進み、いつまでも踊り続ける赤い靴。疲れ果てた女の子の足はもうくたくたで、体もすっかり傷ついてしまって、それから。
思い起こした結末とともに、思考が一気に溢れ返る。どうして岩本雄一郎がここに倒れているのか。久喜田鞠江という人間は。赤い靴に踊らされていた女の子。あの日のこと。去っていく彼女が放った言葉。消えるべきものは。傍観していた。「先生だって悪いよ」。なかったことになればいい。みんな消えた。いなくなった。何故? 絵本を閉じた母親が言う。「そんなに泣くんじゃないの。悪い子はお仕置きされちゃうんだから、いい子にしてなさいって話なのよ」
――悪い子は、お仕置き。

あと少し。もうあと少しで全てが繋がりそうなのに、これ以上自分で考えることはできそうにない。乾いた唇を押し開き、桃実は混沌とした思考の切れ端を洩らした。
「誰、なの?」
「私?」生温い笑いを含んだ鞠江の声が、すらすらと続く。「私は久喜田鞠江だわ。あなたの知る通り、三年四組の担任を務めていた久喜田鞠江。それから……専守防衛陸軍大佐の娘でも、あるわ」
「せんしゅ、ぼうえい」
何かを確かめるように、鞠江の言葉を復唱する。
「……たいさ?」
ああ、怒らせた兵隊さんだ。入り乱れる断片が繋がりようやく一枚の絵を見たように、桃実は理解していた。みんなみんな報いを受けた。赤い靴を履いて、彼女の掌で踊らされていた。そうして消された。いなくなった。帰ってこない。もう、二度と。
持ち上げた視線の先、鞠江は笑っていた。何故だろう、いつも彼女に感じていた冷やかな色はない。ただそこにある、毒気を帯びた喜びと歪んだ生気だけが溢れているように見える。やはり、白雪姫に毒りんごを差し出す魔女の笑顔であった。

心のどこかにぽつりと火が灯るような感覚がした。弱々しくも燃え上がった炎が唇を押し開き、声となって零れ落ちる。
「返して」
消え入りそうにか細い声が、涙のようにぼろぼろと溢れていく。「返して。返して、ください」
鞠江の表情がふっと崩れる。炎を煽るように薄笑いを続ける鞠江が、教卓に置かれたハンカチを持ち上げるのが見えた。ところどころに暗い色の染みができたそのハンカチは、何かを包んだようにいびつな形をしている。それを広げながら話す鞠江の表情は、大事なものを友達に見せびらかして自慢する子供のように嬉々としていた。
「お膳立てを整えただけだわ、私は。実際に奪い合ったのはあなたたちでしょう」
ハンカチが広げられ、包まれていた何かが姿を見せる。薄暗い室内の中、窓から射す光に照らされた白い刃。音も立てず桃実は息を呑んでいた。
「知っているの。あなたも殺したんでしょう? 荒川くんを」
続いたその言葉で動悸が更に高まる。何故彼女が知っているのか。見ていた、のか。くたくたになるまで踊り続けるところを見て、やはり鞠江は笑っていたのだろうか。
炎はもう消えてしまったらしい。電池が切れたように体の力が抜けていく感覚を受け止めながらも、桃実は思った。やっぱりあたし、本物のばかだ。
鞠江に笑われても当然ではないのか。返してください? よくもそんな言葉を口にできたものだ、一体何を勘違いしていたのだろう。奪ったのは誰だ。憎むべきは誰だ。三十七の命を踏み台に帰ってきたのは、誰だ。改めて確かな実感が湧き上がってくる。自分はもうとっくに、返してくださいと言われる側の人間になっていたのだ。
くるくると頭の中を巡る思考に、再びわからなくなる。自分の存在は一体なんだったのだろう。「あたし」は一体、誰だったっけ。名前は水谷桃実。甘ったれ。弱虫のクソガキ。そして、人殺し。醜く歪んだ自分の輪郭が見えなくなっていく。構わなかった、もう見たくもない。このまま消えてしまえばいい。きっともう何一つ返すことなどできないのだろうけれど、気が済むのなら誰かが根こそぎ奪ってくれれば、それで構わない。「あたし」がなくなってしまえばいい。この頭が弾けてぐちゃぐちゃになれば、もう何も見ない。聞かない。言わない。絶対に求めたりなんて、しない。そうして全部おしまいになる。

「泣かないのね、あなたは」
思考の沼に落ちた桃実の耳に、彼女の声はひどく小さく聞こえていた。「ねえ私、あなたの泣くところを見たいわ。あなたたちが泣き叫びながら奪い合うところを見ているとき……どうしてかしらね、とてもいい気分だったの。だから私、あなたの泣くところをもう一度見たいわ」
何を言っているのだろう。虚ろに開かれた目に鞠江を捉え、桃実は思った。幼い子供の相手をするように身を屈めた彼女は、何故だかとても嬉しそうな表情をしている。
「私はね、泣いてはいけなかったの。幼い頃から泣くことは禁じられていたわ。大声を上げて笑うことも飛び跳ねてはしゃぐことも、衝動のままに泣き叫ぶことも……人形のようにお行儀よくしていなければならなかったの、私の家では。そうでなければお父様にもお母様にも否定されてしまうから、私もずっとそうあるべきだと思っていた。なのにあなたたちは授業中でも大声で笑う。席を立つ。はしゃいで走り回る。別の種類の生き物だとしか思えないわ、憎たらしくて堪らなかった」
語気を強めながらも、鞠江の唇は歪んだ笑みを形作る。「消えろですって? 私がどうして消えなければならないの消えるべきなのは私ではないわ、そうよ私が正しいのだから。植野奈月は腐っているの、あなたたちも一緒よ。全員。安池文彦さえ私を侮辱したわ、非国民の息子の分際で。この私を愚弄した。野蛮で低俗な愚民が。醜い雑菌が。腐り切っているのよあなたたちは」

聴覚が彼女の声を拾い上げても、言葉の意味が認識できない。空を漂う視線の先、鞠江が何を思って笑っているのかもわからない。これ以上何かがわかってしまうことを頭が拒否しているのかもしれない。それでも桃実の唇は開き、我知らず言葉を発していた。
「ごめん、なさい」
ごめんなさい。ごめんなさい、本当にごめんなさい。ごめんなさい。声を発するだけの機械になってしまったように、「ごめんなさい」だけが続く。とにかく無性に、謝りたくなった。彼女に対して謝りたいのか、それとも他の何かに対して謝りたいのかさえ、考えられなかったけれど。
「ごめんなさい、あたし、もう」
言葉が途切れ、乾燥した唇から僅かに吐息だけが洩れる。続きは言わなかった、言う必要がないとわかったのだ。これから彼女が何をするのか、なんとなく予想できる。だから最早、それは口にしなくとも叶うことなのだと、わかっていた。
「水谷さん。私はそんな言葉が聞きたかった訳ではないの」
鞠江がハンカチ越しに握ったナイフを持ち上げるのが見える。白い刃と穏やかな声色。「これはあのとき穂積さんが使っていたものよ。どうして今私の手元にあるのか、わかるかしら」

穂積さん。その言葉に反応したのだろうか、彼女の後ろ姿が桃実の脳裏に浮かぶ。思わず声を上げてしまいそうになるのを堪え、心の中で呼びかけてみる。理紗。しかし彼女は振り返らない。何故。どうして顔を見せてくれないのだろう。もうその顔を見る資格もないのかもしれない、それでも抑え切れない何かがだらりと溢れていく。これでいいよね、理紗。これでいいんだよね? 垂れ流した呟きには何も返ってこない。耳に入ってくる鞠江の笑声だけが意識に残る。
「あなたの死に相応しいものだと、思ったからよ」
「死」。死ぬということは、何だったのか。死んだら自分はどうなるのだろう。
鮮やかな笑みに細められた鞠江の唇、彼女の握るナイフ。ゆっくりと迫り来るその刃に目を捕われながらも、桃実は思う。
死ぬ、ということ。この体が抜け殻になって、もう何かを思うこともなくなるのだということ。もう二度と、何かを求めて声を上げ、この手を伸ばしたりしなくて済むのだということ。
思う。思う。湧き上がる何かが渦を巻いていく。
怖い? 怖くない。怖いだなんて厚かましい。逃げられない。逃げる資格もない。求めていた? こうなることを。あたしは。そう、これでいい。あたしは。このまま全部奪ってくれたらそれで、あたしは。
「生きて、桃実」
くちゃくちゃになった記憶の中から、ふいに誰かの声だけが湧き上がってくる。それに思考を遮られた瞬間、ドアが勢いよく開く音が教室に響き渡った。ナイフを握る鞠江の手がぴたりと止まるのが見え、同時に思考も止まっていた。ただ呆然と見開いた目に、美しく伸びた眉を怪訝に歪めて呟く鞠江の姿が映った。
「あなたは……」




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