■108

2001.07.07 Sat. PM07:31
散らかった部屋に流れる空気が重苦しく、その所為か呼吸を難しく感じていた。ずっと当然のようにしていたこの動作は一体何なのだろう。産まれたての赤子も凶悪な殺人犯も、同じようにこの透明な空気を吸って吐き、また吸って吐くことを繰り返して生きている。当たり前のようにこれまでずっと、そうして呼吸を繰り返して生きてきた。では、呼吸さえまともにできないのは何故だろう。どこも悪くないのに、呼吸さえまともにできない。こんな人間は本当に生きていると言えるのだろうか。
ベッドの上で膝を抱えて座り込んだまま、水谷桃実(女子16番)はぼんやりと考えていた。自室だけでなく、家全体が静けさに満ちている。姉はまだ帰ってきていない。父親は工場に居るのだろうか。母親は先ほど、訪問者に連れられて出て行った。開いたままのドアから聞こえた声。「優勝した生徒さんの今後についてご説明が……」。優勝した生徒? ああ、もう考えたくない。何も聞きたくない。

ふと、部屋の隅に置かれた全身鏡に映る自分の姿が視界に入る。だらしなく肩から背中へ流れ落ちる黒い髪。目の下の深いくまとやつれた頬のライン。不器用に息を洩らすかさかさの唇。右耳に巻かれた包帯。
誰だかわからなかった。老人のように思考は混乱し、自身の存在さえ、不確かなものになっていくような気がしていた。
導かれるように、桃実の体はベッドから滑り落ちていた。包帯をずるずると片手で解きながら、這うように鈍い動きで鏡の前へ進んでいく。ここはどこだ。これは誰だ。今日は何日だ。誰だ。あたしはどこにいる?
包帯が端まで解けると、少し腫れの残る耳が姿を現した。軟骨から耳朶の下側まで、綺麗にテープが貼られている。意識とは無関係に震える指先を伸ばし、そっとテープの端を摘んだ。
何もわからなくなってしまう。早く。これを見れば全てがわかるような気がする。
促されるようにテープを引く。剥がれたテープの向こう、耳朶に残る確かな裂傷の跡が鏡越しに見えた。
ああ、う、あああ。その傷跡が絶対的に確かな現実を物語っていた。何かが一気に崩れ落ちたように、記憶の波が押し寄せてくる。空を切るカマの刃。大きく目を見開いた、彼。死んじゃう。死ぬ。無我夢中になって動いていた、この体。それらを止めることもできず、桃実は波に飲み込まれていく。このままでは息ができなくなってしまう。
苦しげに咳き込みながらも、思う。それでも構わない。寧ろそうなってしまえばいいのかもしれない。いっそ。いっそあのとき、あの刃をあと数センチ離れたところでしっかりと受け止めていれば、良かったのに。そうすれば。そうすればあたしはきっと、大好きな人に見守られながら死んでゆけた。
もしもあのとき、自分が死んでいれば。そうであればきっと、冷たくなった親友の顔を見ることも、薄汚い嫉妬心で傷つけた彼を殺すことも、なかった筈だ。間違えたまま積み上げられたパズルゲームのように、鬱屈とした思考が重なっていく。
思った。生きているのか。きっと生きているのだろう。この体はここにある。心臓は身勝手に鼓動を打っている。不器用に音を立てながらも、空気は喉を通っていく。生きている。ここにいる。
なんで。どうしてあたしは生きてるんだろう。なんであたしは、ここにいるんだろう。今あたしがここにいるってことは、きっと――違う。確実に、恐ろしいことで。なんで。どうして。どうしてどうしてなんで。あたしひとりで、帰ってきたくなんてなかった。死んじゃえば、よかったのに。

気が付けば、テープを剥がした爪先がぐりぐりと傷口に埋められていた。抉られたそこから血液が滴り落ちるのが、鏡越しに見える。爪の間に染み込み、膝の辺りに落ちて花のようにぽたぽたと開く真っ赤な血。記憶に染み付いたその匂いに反応して、どくん、と心臓が鼓動を打つ。その力強さに驚いていた、まだこんなエネルギーが残っていたのか。そう思えるほどに強く打たれたそれが決定打になり、体の奥底から氷のように冷たい恐怖が湧き上がってくる。見たくない、きつく目を閉じても、瞼の裏にはあの光景が蘇る。地面の上、静かにたゆたう血液の水溜り。動かなくなった彼女。穴だらけになった彼の体。ぱらぱらと地面を叩く雨。見たくない、もう何も見たくない、心の中でひたすらにそう叫んでいるのに、その情景はどんどん鮮明になっていく。いや。嫌、誰か。

脈絡なく、桃実の耳に届いた旋律がそれを遮った。ゆっくりと開かれたその瞳に、フローリングの床が映る。散らばった通学鞄、数学の教科書。その向こうに投げ出された携帯電話が、メロディーを響かせて着信を知らせていた。
冷たい電子音で作られたにぎやかな歌謡曲を安っぽい雑音として受け止めながら、桃実はゆるゆると携帯電話に手を伸ばす。ディスプレイに映る文字が、岩本雄一郎(元副担任教師)からの着信であることを示していた。
少し皺のある優しい顔が脳裏を過ぎっていく。懐かしさと恨めしさが同時に込み上げて勝手に混ざり合い、表情を微かに歪ませた。彼は今頃どうしているのだろう。あれからどんな気持ちで、日々を過ごしていたのか。ぼんやりとそんなことを考えながら、迷いのままに遊ばせた指をゆっくりと開始ボタンへ向ける。

「……イワちゃん?」
数日ぶりに発した声は、弱々しく掠れ切っていた。頬にあたるパールピンクの硬いボディがやたらと冷たく感じられる。
「なんで、こうなっちゃったのかなぁ」
虚しく響いたその言葉に、電話の向こうの彼は何も返さなかった。ただただ続く沈黙を無心のままに受け止め、桃実はぼうっと室内に視線を泳がせる。そこに思い浮かぶ光景は、三年四組の教室。数日前まで当然のように過ごしていた――けれど今となってはもう、はるか遠い昔のことであったように思える日常。
どうしてだろう。なんで。呟いたそれは声にならないまま、溶けるように空へ消えていく。だからこの部屋の空気はこんなにも重苦しく感じられるのだろうか。
ふいに沈黙が破られる。受話口から聞こえる薄笑い。桃実の手からずるっと携帯電話のボディが滑り、確かに聞き覚えのあるその声が一瞬だけ遠くなった。
何かの間違いではないのかと思いながらも、桃実は携帯電話を握り直した。流れるように続く笑声のあと、思いがけない彼女の声がはっきりと聞こえる。


「がっ、こう」
思考のままに、隙間風のような細い声が洩れる。教室。四組の、教室。
そこで彼女が待っている。行かなければ。とにかく、行かなければならない気がしていた。ここへ帰ってきたのは、自分だけなのだから。
息が切れる。毎朝走っていた通学路を歩いているだけなのに、何故だろう。頭の中がぐらぐらして、自分が真っ直ぐ歩いているのかさえわからない。それでも勝手に足は動いている。ベビーブルーのジャージパンツの内側、Tシャツの腰周りが少しずつ汗ばんでくるのがわかった。普段は気持ち悪く感じるそれも、どうでもよかった。
ふいに足がもつれ、視界に映る見慣れた景色がぐらりと歪む。あ、と思った瞬間には外灯に照らされる地面が目前まで迫っていた。反射的に付いた右腕が地面に擦れ、膝の辺りにもじわじわと痛みが広がっている。立たなきゃ。そう思っても体はなかなか持ち上がらない。あんなに沢山歩いていたのに、どうして一度転んでしまうと、再び立つことがこんなにも辛く思えるのだろう。乾燥した喉からふうふうと息を洩らし、桃実は思う。やっぱり、自転車に乗ってきた方がよかったのかなぁ。

携帯電話から聞こえた久喜田鞠江(元担任教師)の指示のままに、桃実は学校へと向かっていた。何故岩本雄一郎の携帯電話から彼女が自分へ電話をかけてきたのか。あれから――あのことが起きてから、学校に姿を見せなくなった鞠江。一体何が起きているのか。何もかもがわからないままではあったのだが、それでも桃実は家を飛び出した。
帰宅してからの一週間近く何も口にせず、ほとんどをベッドの上で過ごしていた為か体は鉛のように重かった。それでもどうにか、ここまで来れたのだ。ならばきっと立てる。まだ歩ける。立たなければ。
手の平を地面に突き、ぐっと力を込める。路上に散らばる砂利が肌に食い込んだが、構わなかった。ゆっくりと上げた視線の先、よく寄り道をして遊んだ公園がフェンス越しに見える。人気のないその場所で中学生の女の子が二人、ベンチに座ってお喋りをしていた。楽しそうな笑い声がやたらと耳に残る。
「桃実」
ふと聞こえた声に振り返る。背後では外灯が寂しげにひとり、ぽつんと立ち尽くしているだけだった。
おかしくなっちゃったのかなぁ、あたし。思いながらもぼんやりと眺める外灯の向こうに、見慣れた少女の姿がちらついたような気がした。
「……理紗?」
思わずそう呟いて手を伸ばしかけた途端、その姿はゆらゆらと闇に消えていく。
今のは――ああ、この外灯の前でいつも彼女と別れた。バイバイ、また明日ね。そう言って、少し手を振って。何を思い出しているんだろう、また明日なんてもうないのに。もう絶対、会えないのに。
唇を噛んでゆっくりと立ち上がる。振り返ると、フェンスの向こうに女子中学生たちの姿はなかった。ベンチの上には彼女たちの代わりのように、缶ジュースが二つ、仲良く並んでいる。
乾いた喉のずっと奥が、じくじくと痛んでいた。おざなりに受け止めた痛みに、思わず唇が歪むのがわかる。
なんだかとても、おかしな気分だった。今更。今更、痛いなんて。痛いなんて、苦しいなんて。そんなことは、もう二度と言えないようになればいい。薬もいらない。たすけてください、なんて、もう絶対に言わない。
何かが溢れそうになるのがわかった。それを振り払うように桃実はベンチから目を逸らし、静かに歩き始める。その足は変わらずよろめきながらも、道を前へ前へと進んでいく。

公園の横を長く続く道の向こうでは、暗い夜空が静かに闇を広げて桃実を待っていた。それでも彼女は足を休めることもなく、ゆっくりと歩き続ける。もうちょっと。あと少しだけでも歩かなきゃ。きっとまだ、何かが起きている筈だから。



2001.07.07 Sat. PM08:36
駅裏の路地、ビルの合間に見える空がじわじわとその暗さを広げていく。不安を煽るような色の空から視線を外し、汗に滑るハンドルを握り直す。思い浮かぶのは最悪の事態ばかりだ、コンチクショウ。心の中で小さく毒づき、角を曲がる。曲がったものの、向かうべき場所さえわからなかった。水谷咲菜は込み上げる不安にその表情を歪め、がむしゃらに自転車のペダルを漕ぎ続けていた。
路上の段差を降りた衝撃で、前籠に入ったままだった苺のチョコレートが飛び跳ねる。アルバイトの帰りに寄ったコンビニで買ったものだった。チョコレートはあまり好きではなかった、アイスクリームならまだしもチョコレートなど。翌朝まで舌に焼き付いて残るような強烈な甘さがどうにも気に入らなかったし、食べても無駄なカロリー摂取にしかならないように思える。そう思っていたのに買ってしまったのは、妹がいつも好んで食べていたものだったからか。
そんなことはともかく――ていうか、コンビニなんて寄らなきゃよかった。もうバイトなんて休んで、ちゃんとあのガキ見てればよかったのに。

アルバイトから帰った咲菜が自室へ戻ると、隣にいる筈の妹がいなくなっていた。おかしく思って家中をぐるりと巡り、ようやく気がついた。誰もいないのだ。出かけているのか? 疑問のままに自宅の裏の工場まで足を伸ばすと、ペンキ塗れの作業服を着た父親が職員たちと話をしていた。
母さんも桃実もいないんだけど。輪の中から連れ出した父親に向けて、簡潔に事情を述べる。父親が犬のように丸っこい目をきょとんと見開いて、間抜けな声を上げた。「桃実がいない?」。そのままぽつぽつと続く間抜けな声で、ようやく事態が明らかになった。母が出かけている間に、桃実はひとりでどこかへ行ってしまったのだ。どこへ? シーツに埋もれた妹の暗い顔が、脳裏を過ぎる。真っ暗に濁った目。まさか。一番考えたくない事態が連想され、背筋をすっと冷やしていく。
なんでちゃんと見てなかったんだよバカ。それだけ叫んで父親の制止を振り切り、咲菜は家を飛び出した。探さなきゃ。衝動のままに再び自転車を走らせたものの、どこへ向かえばいいのかもわからなかった。

「くっそ……」
テンポの速い呼吸とともに汚い言葉が洩れる。自転車はいつの間に、通ったこともないような道へ迷い込んでいた。ああもう、こんなところにいる筈もないのに。かと言ってどこに居るのかもわからない。やはりきちんと考えもせずに家を出るべきではなかったのかもしれない、勢いばかりで動いてしまうのは悪い癖だ。
しかし今になって止まることも、できなかった。少しずつ速まる鼓動とともに、迫ってくる不安と恐怖が咲菜の体を動かし続けていたのだ。そんなことは考えたくもなかったし、未だにはっきりとした実感はない。それでも頭の中を巡り続ける「自殺」という言葉には、確かに恐怖を覚えていた。
畜生。嘆くように心の中で吐き捨てる。あたしはなんておめでたい奴だったんだろう。あの子がいなくなる前だって。お化けみたいな顔して帰ってきたときだって。プログラムに選ばれたって聞いたときだって、いつもそうだった。実感どころの問題じゃない、あたしは何一つわかってなんていなかったんだ。今だって、今になったってわからない。どうしてこんな――

狭い道を抜けた自転車は、広い通りに差し掛かっていた。
真っ先に思考を遮ったのは、視界に飛び込んできた無茶苦茶に眩しい光。大きく見開かれた咲菜の目に、物凄いスピードで迫ってくる軽トラックが映る。
あ――。唇から間の抜けた声がぽろっと零れていたが、それに気付く余裕もなかった。耳の奥まで突き刺すように鋭いブレーキ音を認識したときには既に、無我夢中になってハンドルを横へ切っていた。衝撃はなかった、どうやら衝突は免れたらしい。しかし無理な動きに堪えきれず、自転車は大きくバランスを崩して倒れていた。
「……バカヤロー!」
自転車とともにアスファルトへ転げ落ちて、数秒後。誰かの罵声が遠く聞こえる。恐る恐る持ち上げた視線の先に、車線を逸れながらもどうにかその動きを止めた軽トラックがあった。窓の向こうに座る運転手らしきおじさんが、顔を真っ赤にして怒っているのも見える。物凄い剣幕で彼が続けた怒声が耳に入ってきたが、その意味さえも考えられなかった。
ただ呆然と路上にしゃがみ込む咲菜を睨みつけ、運転手はハンドルを握り直して再びトラックを走らせた。早々に走り出すトラックと、ばつの悪そうなエンジン音が少しずつ遠くなっていく。
ミニスカートから伸びる膝にじくじくと痛みを覚えながら、咲菜は唇を噛んだ。俯く視線に見える路上の砂利が、ぼんやりと霞んで見える。ヤバイ、なんだか無茶苦茶泣きそうな気分だ。思ったときにはもう、それが溢れ始めていた。
噛み締めた唇もあっけなく陥落する。そのままあっという間に、咲菜は濁流に飲み込まれていた。止められない涙と嗚咽をひとり放ち続けるその横を、男子高校生が奇妙に眉をひそめて通り過ぎていく。睨みつけたその背中に向けて、我知らず咲菜は叫んでいた。
「お前らも一緒じゃねぇかよ!」
あたしにそんなことを言う資格なんてない。わかっていた。わかっていたけれど、それでも言わずにはいられなかった。
言葉を無視して歩き続ける高校生の姿が曲がり角へ消えても、咲菜の唇は小さく震えながら嗚咽を洩らし続けていた。父親の悔しそうな笑顔を思い浮かべたまま、濡れた頬を拭う。ごめんな。耳の奥にずんと重く響き続ける、父の声。何一つ変えられない俺たち大人が悪いんだ。全部。
どうして大人が全ての責任を負わなければならないのだろう。涙でぐしゃぐしゃになった顔を掌で覆い隠しながらも、咲菜は心の中で叫び続ける。あたしなんか。あたしなんか変えられないどころか、わかってさえいなかった。知っていた筈なのに、何もかも本当にわかってなんて、いなかった。ニュースだって友達の噂話だって、全部他人事だと思ってた。無事に中学校を卒業することなんて、当然だって思ってたんだ。
大人だけじゃない。あたしだってみんなだって悪いんだ、きっと。この国で生きていくっていうことは、そういうことなんだ。毎日を平和に過ごす為に、たくさんのたくさんの中学三年生を殺して――そう、あたしたちが。きっとこの国に生きる全ての人が、毎日毎日中学生を殺しながら、生きているんだ。
どうして? 考える。わからなかった。わからない、わからないけどとにかく今は、立ち上がらなきゃいけない。もう殺したくない。あの子まで殺す訳にはいかない。
ゆっくりと流れが穏やかになっていくのがわかる。ああ、泣いてる場合じゃなかった。咲菜は我に帰ったように力強く涙を拭いて、視線を持ち上げた。

赤く腫れた瞳に映る夜空は、何故だかいつもよりずっと暗く、闇を深めていくように見える。それでも咲菜はゆっくりと立ち上がった。大丈夫だ、まだまだ行ける。もう涙は出てこないから。



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