□107

誰も何も言わなかった。何も言えなかった。人形のように動かぬまま、ただそれを黙って見ていることしかできなかったのだ。静まり返った三年四組の教室に漂う空気は、異質であった。
久喜田鞠江(元担任教師)は仰向けに倒れ、天井に吊るされた蛍光灯の光を眺めていた。何が起きていたのかもよくわからないまま、呆然と見開かれた瞳。焦点のずれたそれに映る蛍光灯の光の中、脳にくっきりと焼き付けられた先ほどの感覚が、くるくると踊っているような気がしていた。
たった今受けた卑劣で野蛮な行為――そのあまりに強い衝撃は、考える時間を奪うほどの速さで鞠江の内部を駆け巡っていく。思考を止めた鞠江の意識に残るのは、絡まっていく感覚の渦だけだった。
「あたしね?」
静寂を破る、植野奈月(女子2番)の声。場違いに響く能天気な声が、害虫の羽音のようにやたらと不快に聞こえる。無意識に、鞠江の口元がぴくりと歪んだ。
「アンタみたいなヤツやんのが、一番嫌いなんだよね。やってもどうせ無駄だし、相手してもつまんないだけだもん」
言葉を続ける奈月の上履きが、再びじりじりと動き始める。「…だからとっとと消えてくんないかなぁ、鞠江チャン」
――消えて?
聴覚が拾ったその言葉で、鞠江はようやく上体を起こした。視線を上げた先、残酷なほどに屈託なく笑う奈月の姿がぼんやりと見える。手を付いた床板のざらざらした汚れ、目元が小さく引き攣るような感覚が、鞠江の意識を少しずつ現実へ引き戻していく。
ゆっくりと視線を巡らせる。そこにあった幾つもの眼差し。弱々しい不安、幼い好奇、明らかな怒り、剥き出しの嫌悪と敵意。そしてどれにも属さない、無色透明な傍観の目。様々な色をした生徒たちの目と、その中心で自分を見下ろす、植野奈月の笑顔。初めて見たときと変わらぬまま、ひねくれてもふてくされてもおらず、明るく人懐っこい笑顔。それに隠された、刃物のように鋭い毒気まみれの瞳。
背中からひんやりとした何かが上ってくるのを覚えて、鞠江は眉根をひそめる。静かに室内を巡る目に映った「それら」は、最早生徒ではなかった。同じ人間であるとすら思えない。「それら」は狭い教室に繁殖する、有害な雑菌のように見えていた。醜くうごめいている「それら」に拒否反応を起こすように、胃の辺りから吐き気に似た何かが込み上げる。ぐっと唇を噛んでそれを堪え、鞠江はふらつきながらも立ち上がった。
「――私ではないわ。消えるべきものは」
吐き捨てるようにそれだけ言い、鞠江は踵を返す。それ以上何かを言うことはできなかった。可能な限り早く、この腐敗した空間から抜け出さなければ。身体がそう叫んでいるように、よろめく足が出口に向かう。最後に聞いたのは、ドアを開閉する乾いた音であっただろうか。

それからどこをどう歩いていたのか、よく覚えていない。鈍い動きで顔を拭った手に、黒い上履きの汚れがうっすらと付着している。汚い。そう思ったところでようやく、自分の足が止まっていることに気が付いていた。
一人暮らしに利用していたマンションの前で、鞠江はひとり立ち尽くしていた。職員室にも寄らずに抜け出してきてしまったのだろうか、両手は空いたままで荷物も持っていなかった。これではまるで、勝手にやってきて勝手に帰っていく非常識な生徒と同じではないか。背後を通っていく高校生の話し声が妙に苛立たしく思えるのと同時に、どこか馬鹿馬鹿しい気持ちになった。

ふと視界の隅に、見慣れたスーツ姿の男がちらつく。また寄越してきたのか。ぼんやりとそんなことを考えながら、鞠江は彼の方へ足を進めていく。家を出た自分を心配して、母親が度々ここに送ってくる久喜田家の使用人の一人だった。
振り返った男が鞠江に気付き、声を上げる。お嬢様。その言葉でようやく、自分が「久喜田鞠江」であったことを思い出した。それから、思った。帰りたい。生まれ育ったあの家の一点の汚れもない空気を、無性に恋しく思っていた。


「お父様」
最後にここへ来たのはいつだったのだろうか。思いながら、鞠江は口を開く。
恐ろしく落ち着いた気分であった。埼玉からこの家へ向かう車の中、思い出したように赤く燃え上がっていた怒りも屈辱も、今は青く静かに燃えているように思う。
数ヶ月ぶりに実家に足を踏み入れたのだし、先ほど湯浴みも済ませて少しは気分が休まっていたのか。そして何より――この広い書斎で悠々とソファに腰掛け、少し気難しそうに書物を読む父の姿が目の前にあるのだ。彼の姿を目にするたび、鞠江は不思議と気分が落ち着いていくのを感じていた。それは学生時代からずっと続いている。専守防衛軍大佐である彼の姿は鞠江にとって権力の象徴であり、自分の父親が彼なのだということもまた、権力の象徴であるように思っていたのだろう。
広い室内に漂う、神経質な品格の匂い。規則的に並ぶ書棚と、分厚い書物の数々。美しい木製のデスク。書物からゆっくりと視線を上げた、父の気難しそうな顔。何一つあのときと変わりない。変わったのは、私だけなのだろうか? 否、私も変わってはいない。ただ少し、醜い世界を知ってしまっただけ。変わってなど、いない。今でも私は専守防衛軍大佐の娘、久喜田鞠江なのだから。
完璧に作り上げられた美しい笑みをほんの微かに歪めて、鞠江は言った。十八歳のとき口にしたそれと、全く同じ言葉を。
「――鞠江の我侭を、聞いてくださいませんか?」



「…何を?」
自然と声が洩れる。岩本雄一郎(元副担任教師)は掌に滲む汗を握り締め、鞠江の言葉を待った。
驚いてはいたが、嫌になるくらいに理解もできた。植野奈月は勿論、三年四組の生徒たちのほとんどが以前から鞠江に不満を持っていたようだし――最近では彼女についての話題に触れることすらしようとしない生徒もいて、クラス全体にはどこかよそよそしい雰囲気があった。どうすることもできなかったその出来事を、早く風化させてしまいたかったのか。もしくは植野奈月の鑑別所行きが決まってしまうことを避けようとしていたのか。それはもうわからないことなのだけれど、ともかく――鞠江に対する生徒たちの見解にあった連帯感にも、それで合点がいくように思える。残念なことでは、あったのだが。
そして鞠江の家庭環境についても、どこか納得のできるものがあった。彼女のマンションを訪ねたときに聞いた、スーツ姿の物騒な男たちのこと。彼らも鞠江の家に勤める者なのだろう。彼女の言動に時折見られる少し世間離れした部分も、そういった育ちならば当然のことであろう。けれど解らないこともあった。何故鞠江のような人間が、公立中学で教鞭を執っていたのだろう。そして彼女は一体、何を言ったのだろう。その言葉はぼんやりと予想できていたが――認めたくなかった。まさかそんな――そんなことが、あってはならないのだから。

そこまでで思考を休め、岩本は唇を湿した。まだ彼女の話を最後まで聞いていない。視線の先、振り返った鞠江は再び、静かに笑う。この教室に足を踏み入れたときに見たそれと同じ、人間味のない笑顔。背筋を冷やすその笑顔を崩さぬまま、鞠江は予測通りでありながら期待外れのその言葉を、ゆっくりと放った。
「私の担任する優秀な生徒たちを、誉れ高きプログラムの対象に選出していただければ光栄であると」
淀みなく話す鞠江の口元に、勝ち誇ったような笑みが広がっていく。岩本の表情に浮かぶ落胆の色を一瞥し、ふふ、と笑い声を洩らして鞠江は続けた。
「父は大いに喜んで、私の申し出を承諾致しましたわ」
軍人気質なものでしてね? 勝手な申し出であったのにも関わらず、全て迅速に進めて……
にこやかに続く鞠江の声に耳を塞ぎたくなって、岩本は唇を噛み締めた。やりきれない悲しみと憤りが、ぐるぐると頭の中を回っている。心から嬉しそうに笑う彼女。あの幽霊のように静かな笑顔とはうって変わったそれを見ていると、おかしくなってしまいそうだった。
何故。何故彼女はこんなときになってようやく、こんな顔を――ああ、彼女は一体。生徒たち。あのあどけない生徒たちは皆、彼女によって――なんという、ことであろうか。力の入らない肩を落としたまま、岩本は噛み締めた唇を押し開いていた。
「あなたは…」
掠れきった声が、生徒のいない教室に情けなく響く。「自分が何をしたのか、解っているんですか?」
鞠江の唇からふっと笑みが消える。少し怪訝に眉を持ち上げ、それから彼女は再び口元を歪めた。嘲笑に似たそれは、恐ろしく鞠江に似合っているように見える。
「腐った教室に蛆が湧いていたのですから。全て駆除してしまわなければならないと」
愕然としていた。岩本は顔を上げ、弾けそうになる憤りを声に変えて放っていく。
「確かに生徒たちがあなたにしたことは間違っていたのかもしれない。けれど…、だからと言ってあなたに生徒たちの全てを丸ごと奪う権利なんてないでしょう。私どもにそれを報告して、植野にも然るべき対処をして…なのにあなたはどうしてそんな手段を!」
吐き捨てるように叫び、岩本は握りしめた拳を思いきり机に叩き付ける。福原満奈実(女子14番)の座席であったその机には、にぎやかな落書きの跡が残っていた。佐々木弘志(男子7番)がふざけて書いていた、渡辺佑子(女子19番)と満奈実の相合傘。「ゆーこ/バカみき/ささきっち/つっちん/こーた/リカ/王子さまさま/奈央ちん/ももみ/なっちゃん/…」。散らばった生徒たちの名前に続き、机の先端に書かれたものが視界に入る。「みんないっしょに卒業しよーね!」。思い出される満奈実の陽気な笑顔と、その稚拙な文字が強く胸を締め付ける。深くうなだれた岩本の頭上に、鞠江の冷たい笑声が降り注いだ。
「あなたに私の受けた屈辱が解るのかしら?」
言葉とともに洩れる彼女の薄笑いに、やるせなさが膨れ上がっていく。それを知ってか知らずか、鞠江は蔑むように岩本を見下ろしたまま言葉を続けた。
「私は全てを否定されたの。だから私も全てを否定しなければ気が済まなかっただけ…だわ。あんなゴミクズ同然の人間たちに守られる権利があるとでも思っているの? 学生としての義務さえ全うできない者たちには、いかなる権利も主張――」
「あんたそれでも教師か!」
鞠江の声を遮り、岩本はいきり立って叫んだ。爆発した怒りが複雑に絡まる思考を綺麗に――消しゴムで全てを消すように、頭の中を真っ白にしていく。がらんと広い教室に大きく響いたその声が、鞠江の顔に浮かぶ嘲笑を消した。
暫しの沈黙の後、思い出したように鞠江が笑い声を上げる。残酷なまでに冷たくそれを響かせて、鞠江は穏やかな口調で答えた。
「…おこがましいとは思わないのかしら? 生徒を見捨てたあなたが、それを言うのは」
打ちのめされたように、岩本の表情が歪む。容赦なく胸に突き立てられたそれに、返す言葉など見つかる訳がなかった。満奈実の机に手を付き、大きくその身を屈める。全くもってその通りだ。彼女が生徒たちにどれほどひどい仕打ちをしたか、など――そんなことは関係ない。もしかすると自分には鞠江を責める資格すら、ないのかもしれない。我が身可愛さに生徒たちを切り捨て、中学三年生の子供が殺し合う残酷な現実を容認してしまった、自分には。
耳の奥に幾つもの声が蘇る。イワちゃん。イワちゃんイワちゃん。俺にも教えてよ。そこテストに出る? だって数学嫌いなんだもん。イワちゃん天才? あたしみたいなバカが点数上がるとか。俺西高行きたいんだけどさぁ、どうよ。みーんな仲良しだもんね。イワちゃん大丈夫? ご苦労さーん。ありがとイワちゃん、愛してる。
声とともに生徒たちの顔が浮かび、消えていった。愛着の深いそれぞれの顔。声。その先に広がっていた筈のもの。それを囲んでいた友人や家族の涙。全てが無茶苦茶に絡まり、息ができなくなっていく。岩本は頭を抱え込んだまま、その痛みを堪えるようにただただ、深く目を閉じていた。
「私が何故あなたに全てを話したのか。お解りかしらね?」
流れるような鞠江の声が、やたらと遠く聞こえる。それには答えなかった。幾つもの激痛に縛り付けられた彼には、答えられなかったのだ。身動きさえ取れず、きつく噛んだ唇から微かな吐息だけが洩れる。許してくれ。幾度も零れそうになるその言葉を堪え、再び唇を噛む。そんな言葉を口にできる訳がない。許されることなど、決してないのだから――

唐突であった。意識の海に何かが素早く飛び込み、引き上げるように岩本を現実へと呼び戻していた。
「あ…?」
色の薄い唇から息が洩れる。最早それは声と呼ぶこともできないほどに弱々しく、音のように感情の色を持たないものでもあった。何が起きたのかも解らぬまま、ゆっくりと持ち上げた視線の先、鞠江の唇が三日月のように細く歪むのが見える。意地の悪い魔女のような、不気味な笑顔。
「――あなたが憎かったの。ねえ、私が正しい筈でしょう? なのに手緩い指導ばかりしているあなたが肯定され、私が否定される。あの異常な空間を笑って容認していられるあなたが…」
それが最後だった。感覚は海底まで沈み、見開かれたその目には何も映らず、生徒の声で溢れ返っていたその耳にも、もう何も届かなくなっていた。
許してくれ。彼が決して口にしなかったその言葉は血液とともに口から溢れ、三年四組の教室の床に赤く赤く、染み込んでいく。
「…それでも存在を肯定されていたあなたが、憎くて憎くて、我慢ならなかったの」
ぽつりと洩れた声が、一人きりになった教室に響いて消える。
僅かな脱力感をやり過ごすように溜め息を吐き、鞠江はハンカチ越しに握る軍用ナイフをゆっくりと持ち上げた。絶命した岩本の首に刺さっていたそれは、小さく抵抗しながらもそこを離れる。首の傷口からぴゅっと飛び出した血液が手の甲にかかり、鞠江は顔をしかめてナイフを床へ落とした。ナイフは甲高い音を立て、赤を散らしながら床を滑っていく。それを放っておいたまま、残ったハンカチを付着した血液に被せる。
汚い。やはり愚民は汚い。神経質に眉を寄せて手の甲を拭いながら、鞠江は苛立ちを堪えるように唇を噛む。ああ、汚い。汚い汚い汚い。この狭苦しい世界の汚らしいこと。
治まらない嫌悪感と苛立ちを叩きつけるように、ハンカチを傍らのデスクへ投げ付ける。我慢ならない。鞠江は奥歯を軋ませながら身を屈め、黒板の下に置かれたハンドバッグへ手を伸ばす。取り出したそれのずっしりとした重みを感じると、ようやく気分が落ち着いていくのがわかった。
あと少し、そう念じながら瞳を閉じる。瞼の裏、描いていたシナリオの断片が鮮やかに浮かび上がっていく。鞠江は恍惚として唇を歪めた。
もう少しで、全てが終わる。全てが消える。早く全てを壊してしまわなければ。私の、この手で。



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