■106

2001.07.07 Sat. PM06:18
右手に提げたトランペットのケースが、やたらと重く感じられる。岩本雄一郎(元副担任教師)は色の薄い唇を引き締めてそれを握り直し、再び階段を上る足を進めていく。その表情はここ数日と変わりなく、小難しく曇ったままであった。
岩本は三年四組の教室へ向かっていた。いつも通っていた廊下を歩き、階段を上って。その廊下や階段がいつもと違って見えるのは、今が土曜日の午後であり辺りに人影が見当たらない所為なのかもしれない。しかしやはり、それだけではないのだろう。誰もいない校内の静けさはどこか物悲しく、ひっそりと自分を責めているようにさえ感じられる。岩本は再び唇を引き締め、歩を速めた。
その手に握られたトランペットのケースは、ブラスバンド部に所属していた水谷桃実(女子16番)のものだった。あれから――三年四組のプログラムが終了してからすぐ、亡くなった生徒たちの遺品は優先的に整理され、遺族への受け渡しも既に済まされていた。残る生徒の荷物は桃実のものだけだ。教室に残る机とロッカーの荷物を整理して、桃実の家まで届けなければならない。優勝した彼女は、一家で静岡へ転住することに決まっていたのである。

――イワちゃんイワちゃん、あたしこないだ十五歳になったんだよ。お父さんに携帯買ってもらったから、イワちゃんも番号交換しようよ。
四月頃のことだった。携帯電話のプレゼントが余程嬉しかったらしく、楽しそうに話しかけてきた桃実の顔がふっと思い出される。先生と番号を交換してどうするんだと呆れる自分に、やっと買ってもらえたんだからいっぱい使いたいんだもん、と駄々をこねた彼女。俺にも教えてよと便乗してきたのは荒川幸太(男子1番)だっただろうか。結局教室中にはしゃぎ立てられ、ほとんどの生徒たちと電話番号を交換することとなった。何だかよくわからないが全く、おめでたい生徒ばかりで――。

足が止まる。岩本は小さく頭を振るい、脳裏をよぎった彼らの顔を打ち消した。それとともに、この数日間幾度となく繰り返した言葉が思い浮かぶ。仕方のないこと。間違っていても、自分にはどうにもできないこと。自身にそう言い聞かせて、誰もが逃げる。皆、他に為す術を持たないのだ。この国で生きるということは、こういうことなのだから。
廊下の薄汚れた壁をぼんやりと眺め、岩本は溜め息を吐く。汚い。溜め息と共に浮かんだ言葉が壁を指しているのか、あるいはそんなことを考えている自身を指したものだったのか。教室に向かう足が重い。急に脱力感を覚え、岩本はくたびれた表情で三年四組のドアの前に立った。ドアにはめ込まれた小さなガラス窓から夕日が差し込み、廊下を温かく照らしている。
ドアに手をかけたところで、岩本はそれに気がついた。ガラス窓の向こう、室内の窓辺に彼女が立っているのが見える。何故? 即座に思い浮かんだ疑問と驚きに眉を上げ、岩本は勢いよくドアを開いた。

「どうして…」
喉の奥から掠れた声が洩れる。間違いなかった。夕日に浮かぶほっそりと痩せた体のライン、白い肌の色、長く伸びた黒髪。そして計算の上に作り出された人形のように整った顔のパーツをゆっくりと動かし、久喜田鞠江(元担任教師)が笑っていた。幽霊のように静けさをまとった笑顔。息を呑むほどに美しいそれは、どこか気味が悪く思えるほどに整い過ぎている。
これほどまでに人間らしくない笑顔を見るのは、初めてかもしれない。背筋がざわつくような感覚を受け止めながらも、岩本は言葉を続ける。
「今まで、どこで何をなさっていたんですか。あなたが学校に出てこない間に、生徒たちは――」
「ええ。今日はそのことについて岩本先生にお話させていただきたくて、お伺いした次第ですわ」
流暢に言葉を返す鞠江の姿からは、いつものぴりぴりと張り詰めたような空気が感じられない。穏やかに冷たく笑う、彼女。話したいこと? 一体何を。一体何が起きているというのだ。不穏な空気を感じ取り、岩本は眉根を寄せて言葉を探した。
「…よく、解りませんね。生徒の身辺整理はほとんど済んでいますし、生徒たちも私もあなたはこの学校を辞めてしまうのだとばかり、思っていましたから」
岩本の言葉に、鞠江は少しだけ意外そうに眉を上げる。それからふっと笑みを洩らし、呆れたように首を傾げてみせた。
「まあ、本当に何もご存知でないのかしら。生徒たちから何か、お聞きになられたのではございませんか?」
更に顔をしかめて、岩本はぎゅっと唇を引き結ぶ。生徒たちから聞かれる鞠江へ向けた言葉。ウザイ。アイツが悪い。もう来なくていい。ていうか辞めるんでしょ? 今後の彼女にはプラスにならないものばかりだ、ここでわざわざ伝える必要もない。敵意と傍観の目をした生徒たちの顔を思い出しながらも、岩本は唇を解いた。
「いえ。特に何も」
それを聞いた鞠江は、再び薄い唇を歪めて笑った。その表情に少しずつ、鋭く削られた悪意のようなものが差し込んでいく。岩本は胸の辺りをうろつく不穏なものがどんどん大きく膨れ上がっていくのを感じながら、ただ何も言わず彼女の目を見つめ返していた。全てを見下すように光る、彼女の目を。
吸い込まれてしまいそうなほどに冷たい悪意に満ちたその目が、ふっと物思いに耽るように宙へ向いた。鞠江は岩本に背を向け、もう一度静かに笑い、口を開く。
「――あなたにもお話しなければ、ね」



声。声、また声。背後から聞こえる幾つもの耳障りな声が絡み合い、作り出された雑音が室内を埋め尽くしている。
秒針の動きのように少しずつ、しかし確実に迫り来る何かが、鞠江の感情を荒立てていく。
鞠江は再び開きかけた唇を噛み締め、ちり紙越しに持った白いチョークを黙って動かし続けた。
黒板を向いて板書を続ける鞠江の背後、最早今が国語の授業中であることさえ忘れてしまったかのように席を立ち騒ぎ続ける三年四組の生徒たち。――注意は、している。するべき指導は全てしたつもりだ。なのに何故だろう、おかしなことに指導をすればするほど彼らは反抗を強めていくのだ。初めて三年四組の生徒たちを前に教壇に立ったときは、ほとんどの生徒が私語もせず素直に話を聞いていたのに。
初めてこの学校に足を踏み入れたとき、思った。ここは異常なのだと。そして私が正常であり、教師としてこの異常な空間を正常に戻すべきであると。そう、私が正しいのだ。間違っている筈はない、なのにこの空間は日毎に異常なものへ変わっていく。私は教師としてすべきことをしている筈だ、なのに何故何一つ、上手くいかないのか――。

チョークを下へ進める鞠江の目に、ふとおかしなものがちらつく。黒板の隅の小さな落書。怪訝に思い鞠江が顔を近づけて目を凝らすと、油性ペンのインクの匂いが鼻腔を掠めた。まだ書かれて間もないものなのだろう。
「くきたしね」。小さく書かれた乱雑な文字が、黒板に黒く浮かび上がっている。その簡潔な言葉の意味さえしばらく認識できず、鞠江は呆然と目を見開いていた。――誰が? 続く疑問にうろたえた鞠江の手から、ちり紙に挟まれたチョークが滑り落ちる。ぱきっと小さく音を立て、チョークは鞠江の足に粉となった破片を散らして割れた。
汚い。眉をひそめる鞠江の背後、全てを無視したかのように女生徒の嬌声が弾ける。「やだぁマジで?」。わざとらしく作ったように甘ったるい声は、久米彩香(女子5番)のものだろうか。馬鹿にするような彩香の笑い声がやけに耳に残り、鞠江はこめかみに手を当てる。気分が悪い。苛立ちを吐き捨てようと鞠江が唇を開きかけたそのとき、教室の後方のドアが開いた。

「おっはよーん」
植野奈月(女子2番)が能天気な声とともに、室内へ顔を覗かせた。鮮やかに開いた花のような明るい笑顔と、楽しげに動く落書きだらけの上履き。一週間ぶりに登校した奈月に、教室のあちこちからお迎えの声が上がる。「おー」だとか「わー」だとか、呆れながらも感心しているように親しみ深い声。
「久々のご登校じゃん」
いつもの少し眠そうな口調で土屋雅弘(男子10番)が言う。「でも植野、全然早くないから。つーかもうすぐ下校だし」
「イワちゃんが顔くらい見せに来いってうっさいから来たんだもん。ねぇマサ?」
「せっかく来たのにイワちゃん出張でいないっぽいけどね」
続いて姿を見せた岩田正幸(男子2番)がぱさついた金髪を揺らして頷くと、奈月は不満気に唇をすぼめる。「ねー、結構ショック大なんだけど。どうよコレ?」
「いいじゃんいいじゃん、久々にみんなで語ろうよー。ていうかマサはほんっとに久しぶりだよね」
雅弘の隣でお喋りをしていた福原満奈実(女子14番)が声を弾ませる。三年生になってからあまり教室に顔を出さなくなっていた正幸も、呑気な笑顔でおどけてみせた。
「可愛いなっちゃんが一緒に行く? って言うからさぁ。コレはもう行くしかねぇじゃん」
「だってマサ、ほんとはガッコ嫌いじゃないんでしょ? バレバレだって」
正幸を横から肘で突いて、奈月が無邪気に笑う。マジで? じゃあもっと来いよ、からかうような調子で続ける雅弘の声。そして彼らを囲む生徒たちと、奈月の笑い声。色の違うペンキのように醜く混ざり合う声が、再び雑音となって鞠江の耳に届く。

「――なさい」
神経質に表情を歪ませた鞠江が、教壇から小さく呟いた。その声はすっぽりと雑音に包み込まれ、掻き消されていく。鞠江の視線に毒々しい何かが混ざりつつあることにも気付かぬように、生徒たちはそれぞれのお喋りを続ける。
「バレてた? ま、本当に結構好きなんだけどさぁ」
オンナノコ沢山居るしね。そう付け加えてへらへらと笑う正幸の頭、目障りに煌く金色の細い針金のような髪が揺れた。先ほどから覚えていたこめかみのずっと奥から広がる痛みが、急速に大きく膨らんでいくのがわかる。鞠江はぎっと音を立てて歯を噛み締め、震える唇を大きく開いた。
「席に着きなさい!」
雑音よりずっと大きく響き渡った金切り声に反応し、室内の喧騒は波のように静かに引いてゆく。植野奈月が上げる甲高い笑い声だけが堂々と続く中、動きを止めた生徒たちの視線がちらちらと鞠江を向いた。非難から怯えの色まで様々なものが浮かぶ、幾つもの視線。それらを全身に浴びながらも、鞠江は苛立ちを露に奈月を睨みつける。
「あ、居たんだ?」
ようやく鞠江に目を向けた奈月が、未だに笑いの残る声で呟いた。「センセイの声本当にうっさいよね。あたしも人のこと言えないけど」
「お黙りなさい。あなたの無駄口はもう聞き飽きたわ」
「あたしだって飽きてんだけどなー。アンタのキレ方ワンパタなんだもん」
荒っぽい言葉遣いに似合わない、笑い混じりの刺のない口調で奈月は言う。赤く染めた髪や派手に着崩した制服には相応しくない態度。まるで邪心のない子供のような、懐っこい笑顔。ぱっちりした瞳の中、ほんの僅かに見える小さな悪意の棘。その全て、彼女の全てがいちいち癪に障って仕方ない。目元が微かに引き攣るのを感じて、鞠江は小さく息を吐いた。それから静かに頬の筋肉を動かし、冷やかに皮肉めいた笑顔をつくる。
「植野さん、あなたは何をしに学校へ来たのかしら? 岩本先生やクラスの生徒たちに会いに来たのなら、早くお帰りなさい。あなたのような人間は必要ないのよ、この学校には」
「うっわー、なんか一年のとき同じこと誰かに言われたよーな気ぃすんだけど。学年主任だったっけ?」
ったく、来いとか帰れとかみんな言ってることバラバラじゃん。別にどっちでもいいけどさ。
ぶつぶつと呟き、奈月は少し不満気に唇を尖らせてみせた。ファンデーションで美しく作られた白い肌の上、愛らしく動く唇が妙に生々しく見える。艶かしく潤ったそれが感じさせる、汚らわしい「女」の匂い。奥歯が小さく音を立てて軋むのをやり過ごしてから、鞠江は再び口を開く。
「いいこと、あなたの担任教師はこの私なの。あなたは私の言うことを聞いていればいいの」
神経質に響く鞠江の高い声。うんざりした様子で肩をすくめる奈月に構わず、鞠江は続ける。
「なのに植野さん、あなたは私の言いつけを何一つ守ろうとしない。そればかりかこの私に刃向うような真似まで…あなたは一体、自分を何だと思っているのかしら」
「ていうかさ、死んじゃえば?」。数週間前、備品室で聞いた奈月の言葉がふと思い出される。普段見せる明るく人懐っこい笑顔とはかけ離れた、鋭い憎悪の込められた嘲笑。
馬鹿馬鹿しいにも程がある。汚らわしい低俗な小娘が――
「この私を愚弄するなど!」
鞠江はヒステリックに叫び上げ、高橋奈央(女子9番)の机の上に置かれた白いはさみを取り上げる。はさみの傍に散らばったプリクラが乱暴な手の動きにさらわれ、ぱらぱらと床に落ちた。

「先生!」
奈央は悲鳴に近い声を上げて席を立ち、鞠江に向けてその腕を伸ばしかける。それが精一杯であった、 届かぬまま空を掻いた自身の腕の向こう、鞠江の右手にしっかりと掴まれたはさみの刃に目を捕らわれていたのだ。薄汚れたはさみの先は、微かに揺れて不気味に光っている。室内を走る緊張に肌を刺され、奈央はどうにか続けようとした制止の言葉を飲み込むことしかできなかった。室内の誰もが他になす術を持たないかのように沈黙して次第を見守る中、鞠江はひとり暴走を続ける。

「虫唾が走るわ。その下卑た色の髪を見ると――」
意地悪く口元を歪めた鞠江の左手が、赤く染められた髪の寸前まで迫っていた。
奈月は大きくスカートを揺らして脚を上げ、白いブラウスに覆われた鞠江の鳩尾にその爪先を叩き込む。ぎりぎりのところで髪に触れなかった左手が衝撃に持ち上げられ、はさみが右手から滑り無念に音を立てて床に投げ出される。腰を突いて倒れた鞠江の、その見開かれたままの目に、脚を静かに降ろしてにっこりと笑む奈月の顔が映っていた。
誰かが悲鳴を飲み込むように席を立つ音が、どこか遠く聞こえる。今まで一度も――両親にさえ、暴力を振るわれたことはない。そのあまりに強い衝撃に頭が真空になり、言葉が何一つ出てこなかった。生まれて初めて味わう衝撃と痛みに唇を噛み締めることしかできないまま、鞠江は頭上から自分を見下ろして笑う彼女をただ、呆然と眺めていた。
「…アホくさ。アンタが切ったらおかっぱになっちゃうでしょ?」
大きく見開かれた鞠江の目から溢れる狼狽に、奈月はその笑みを歪めて答える。呆れの混じったその声は鞠江の耳からゆっくりと体内に侵入し、血液のように内部の隅々へ巡っていく。ぐるぐると内側を巡るその忌々しい声が、ようやく鞠江の感情にスイッチを入れた。
奈月の唇に少しずつ広がっていく嘲笑。きっちりと引かれたアイラインに囲まれた瞳には、むき出しになった嫌悪の棘が見える。自分が植野奈月を怒らせたのだということは明らかであったが、そんなことは鞠江にとっては最早、どうでもいいことだった。今――たった今、生まれて初めてこの体を傷付けられたのだ。それもよりによってこの薄汚い下劣な、十歳年下の女に。

床に崩れたその体の奥はかっと熱く、しかしうなじの辺りからは静かに冷え切っているような奇妙な感覚であった。何もかもを馬鹿にしたようにくすくすと笑う奈月を睨み、鞠江は唇を押し開いた。
「当然――だわ、あなたのような人間は」
細く掠れながらも、その声はおぞましいほどの悪意に満ちて残酷に響く。
「あなたのような人間は、親に見捨てられて当然だわ」
刺々しい声の残響が静まり返った室内に広がり、ゆっくりと消えていく。子猫のようにきょとんと目を見開いたまま動かない奈月を睨みつけて、鞠江は静かに唇を歪め、笑った。笑いながら、思い浮かべた。激昂する奈月の姿を。立ち尽くしたまま涙を流す姿。怒りに任せて暴れ出す姿。どちらでも構わなかった、ただ年に似合わないあの生意気な態度で、いつも自分を欺いていた彼女が――あの植野奈月が、自分の言葉に取り乱す様を想像するだけで、爽快であったのだ。

静寂を真っ先に破ったのは、穂積理紗(女子15番)が乱暴に席を立つ音であった。ゆらりと向けた視線の先、その場に立ち尽くし傍観していた生徒たちを割って理紗がここまでやってくるのが、見える。
理紗は少し吊り気味の目を高ぶる感情に任せて見開き、その手に握る国語の教科書を鞠江の顔に目掛けて思い切り投げ付けた。教科書は反射的に上げられた鞠江の腕に当たり、そのまま床に落ちて乱雑に広がる。
「奈月もやり過ぎたかもしれんけど、アンタはホンマに最低やで? センコーなんか辞めてさっさとどっか行きぃや」
「穂積チャン、気持ちはわかるけどちょっと落ち着こ?」
怒りに震える理紗の肩に手を置き、正幸が宥めるように言う。それから正幸はへらっとその表情を崩し、気の抜けた笑顔を鞠江に向けた。だらしない笑顔に似合わず、笑みに崩れた細い目は鞠江を突き刺すように鋭い。
「先生も汚いんじゃないかなー、それは」
「つうかオマエは植野に殴られても文句言えねぇよ?」
正幸の言葉に同意を示すように、荒川幸太が呟く。黙って席に着いていた雅弘もそれで、静かに頷いた。
「同感。暴力は良くねぇけど」
「あたしも…前から思ってたけど、先生ちょっとひどいっていうか、やり方が強引過ぎるんじゃないですか?」
奈央が顔をしかめると、満奈実も困ったように眉を寄せる。
「わかる。なんか変だよ、テストのときも桃実が遅刻したからって帰れとか言ったりさぁ」
「よくわかんねぇけど変だよな。お前ゴムまで取られてたし、なんか王子もキレられてたっぽいし」
三木典正(男子16番)が頷くと、室内に少しずつそれが伝染していく。同意を示す声が鞠江への非難に変わっていくのに、大した時間はかからなかった。
「あやかなんか顔に水かけられそうになったんだけど。マジひどくない?」。不満気に頬を膨らませる久米彩香。
「つーかウザイんだよな、ああいう言い方されると聞く気なくなるし」。武井尚弥(男子9番)が非難がましく声を洩らす。
「どうでもいいけどなんで俺の漫画返してくれないんだよ。もう持ってこねぇっつってんのに」。苛立ちに膝を揺らして言ったのは、永田泰(男子11番)
「捨てられてんじゃない? あたしのルーズも返ってこないし」。浜野恵梨(女子13番)が溜め息混じりに呟く。

「あたしも没収された櫛と鏡、家で使うから返してほしいって思ってたけど」
横井理香子(女子18番)のはっきりした声が、ざわめきを遮るように響く。「…今はなっちゃんの方が先だよね?」
「そうだよな。俺も久喜田のやり方嫌いだけど、んーなみみっちいことぶつぶつ言ったってどうしようもねぇよ」
理香子の言葉に大野達貴(男子3番)が頷くと、それに同調するように室内を飛び交う非難の声が小さくなっていく。理香子は静かに席を立ち、教室の中央に立つ奈月のもとへゆっくりと歩み寄った。その場に立ち尽くす奈月はきょとんと目を見開いたまま、鞠江を見つめている。床に座り込む鞠江もまた、その美しい顔を嘲笑に歪めて奈月を見ていた。室内の喧騒など、二人の耳には入っていないのだろうか。
「…先生」
余計なお節介になってしまうのかもしれない。少し迷いながらも、理香子は口を開く。
「植野さんは先生に暴力を振るったけど、先生も言葉で植野さんを殴りました」
鞠江の唇から嘲笑が消えた。その視線がゆっくりと動き、理香子を捕らえる。自室に迷い込んだ害虫を見るような、鞠江の目。
気味が悪い。形のない恐怖に少しだけ眉をひそめて、理香子は嫌悪のこもる鞠江の視線を受け止める。手の平に滲む感じの悪い汗を握り締め、小さく息を吸って言葉を続けた。
「謝らなきゃいけないって思いませんか? 後悔とか、自己嫌悪…とか、してないんですか? あたしだったら絶対、します。なっちゃんに殴られても、そんなの関係ないです」
暫しの沈黙を経て、再び鞠江の唇が嘲笑に歪んだ。訳が解らない、とでも言いたげな呆れ混じりの溜め息とともに、冷やかな声が洩れる。
「あなたは本当にどうしようもないのね。私が何を謝る必要があるのかしら? 私はただ本当のことを言ったまでよ」
「…だよねぇ」
笑いの混じった明るい声が零れる。鞠江が怪訝に動かせた視線の先、くすくすと声を洩らして奈月は笑っていた。笑っていたのだ。虚勢を張っているようにも見えない。冗談混じりに友人と談笑しているときのようなその笑顔は、まるで全てが他人事であるかのように軽やかであった。
「ごめんねー。リカには悪いんだけど、久喜田の言う通りかもしんない。けどさぁ」
ゆっくりと鞠江に向けられたその笑顔は、変わらず無邪気なまま――しかしその目だけは、繁華街ですれ違う他人へ向けるようにそっけなくもあり、刺々しい敵意を感じさせるほどに凶暴でもあった。
「あたしやっぱ、コイツ嫌いだなー」
呟いた奈月の上履きが、じりっと何かを踏みにじるように動く。

ヤバイ。正幸が心の中で呟き、思い出していた。中学一年のときだっただろうか。奈月にふられた他校の先輩が、彼女にドラッグの混ざった酒を飲ませて無理矢理に犯そうとしたことがあったのだ。正幸が止めようとしても止められぬまま、彼は合意を迫るような言葉を口走りながら暴走を続けた。キスを無理強いして服を脱がせようとするその男に、奈月は今鞠江に向けるそれと同じ目を向け、じりじりと砂を踏むミュールをふっと蹴り上げて――それから起きた惨劇については、あまり思い出したくないのだが――ともかく、このままではまずいことになってしまう。正幸が口を開きかけたそのとき、後方から静かな声が聞こえた。

「植野」
安池文彦(男子18番)の声だった。席を立つこともなく静かに事の次第を見守っていた彼が、初めて発した声。室内の注目が集まる中、文彦は普段通りどこか冷静に響くその声で続ける。
「殴るなよ。次やらかしたら鑑別なんだろ?」
文彦の方へ振り返った奈月が、あははは、と笑い声を零した。どことなく親しみを感じさせるその声とともに上履きの動きを止め、奈月は無邪気に唇を尖らせてみせる。
「あったりめーじゃん。こんなヤツ殴ったらさぁ」
無邪気な人懐こい笑顔のままだった。奈月の上履きが空を切り、床に座り込む鞠江の顔面をがっと蹴り倒していた。鞠江が目を見張ったまま後方に倒れ、その後頭部は鈍い音を上げて床に激突する。
「手が腐っちゃうよ」
静かに上履きを着地させ、にっこりと笑う奈月の赤い髪。薄汚れた上履きの嫌な匂い。頭部にゆっくりと広がる重い痛み。口内を泳ぐ血液の味。細められた桜色の唇。そこから零れるいつもと同じ明るい調子の――しかしどこか乾いて響く、冷たい笑い声。鞠江の記憶に焼き付けられたそれらの烙印は、今でもふと蘇る。頭痛に似た疼きとともに、染み付いて消えぬまま。


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