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五月の半ば。中間テストの一日目であったその日、三年四組の生徒たちは朝のホームルームの間から問題集や単語帳、ノートを片手に範囲を復習していた。テストの開始を知らせるチャイムまでの残り時間は二十分を切っているというのに、教室にはちらちらと空席が目立つ。まだ十名もの生徒が入室していないのである。
テストすら受けようとしない。果たして本当にそんな状態のまま中学校を卒業するつもりなのだろうか――久喜田鞠江(元担任教師)は苛立ちを露に、室内に散らばる十名分の空席を睨み倒していく。今日という今日は容赦しない。彼らは学校を甘く見過ぎているのだ。
勢い付いて鞠江が席を立った瞬間、教室の後方のドアが忙しなく開いた。

「先生すみません、寝坊しました!」
二つ結びの毛先と寝癖の残る前髪を揺らし、水谷桃実(女子16番)は駆け込むように教室に入る。クラス一の遅刻魔として有名な彼女は今日も余程時間がなかったらしく、靴下のワンポイントが左右別々だった。右は星型、左はうさぎの顔の刺繍。
「水谷今日も遅刻かよ、また目覚まし時計破壊してたわけ?」
荒川幸太(男子1番)がはやし立てると、室内のあちこちから笑いが起こる。「桃ちゃんてば、可愛い顔してなかなかやるねぇ」。高橋奈央(女子9番)が冗談めかした口調で続け、桃実は困ったように頬を染めて言葉を返す。
「今日は壊してないよー。ていうか壊しちゃったの一回だけだもん、あれは事故なの!」
「解ってるって、寝起きにキレて投げ飛ばしたんだろ? 桃ちゃんこえー」
更に面白がってからかう幸太を睨み、桃実は真っ赤な顔で反論を続けた。
「だから違うってば、止めようとして落っことして壊れちゃっただけってゆったじゃん!」
「――いいかげんにしなさい!」
二人の目覚まし時計論争は、鞠江の一喝で強制的に幕を下ろされた。ヒステリックな金切り声が室内に響き渡り、反射的に幸太と桃実は耳を塞ぐ。教室の隅から「またかよ」と誰かの呆れ声が沸いたが、構わず鞠江はつかつかと二人に歩み寄り、叱責を続けた。
「水谷さん、今日はテストの日だって知っていた筈ね? 教室にはあなたより早く登校してテストの為に範囲を復習している人もいるわ。なのに寝坊を理由に遅刻した挙句そんな無駄口を利く余裕まであるなんて、あなたは余程学力に自信があるのかしら?」
嫌味ったらしい鞠江の物言いに萎縮して(確かに桃実の学力はお世辞にも自信を持てるほどのものとは言えない)、桃実は俯き加減に唇を噛む。「だいたいあなたは本当に反省しているのかしら? 四月からの遅刻回数がどれだけ多いかわかっているの? 以前も言った筈だけれど、学習をしない人間は動物と同じよ。あなたは動物と同じなのね?」
鞠江の視線が神経質に光る。それに含まれた嘲りの色が、有刺鉄線で縛り付けるように桃実をちくちくと痛めつけた。本当に動物のように見られているような気分になり、桃実は思わず鞠江の顔から目を逸らす。
「…すみませんでした。明日からちゃんと寝坊しないように気をつけます」
深く頭を下げようやく声を洩らすと、頭の上からふふっと鞠江の笑う声が聞こえた。桃実が顔を上げると、鞠江がその整った顔を歪めて笑っている。否、笑っているとも言えないような表情であった。笑みに似た歪みのような奇妙な表情のまま、鞠江は蔑みの色をたっぷりと加えた声で言葉を続ける。
「何度目かしらね、その言葉を聞くのは。もういいのよ、水谷さん? あなたのような不真面目な人間にテストを受けさせる訳にはいかないわね。真面目に頑張っている他の生徒たちにも失礼でしょう? 今日はこのまま帰宅して頭を冷やしなさい。あなたにはそれくらいしないと――」
幸太が口を開きかけたのとほぼ同時に、がたんと大きく音を上げて、穂積理紗(女子15番)が席を立った。言葉を遮られた鞠江が怪訝に視線を向けると、理紗は鋭い目つきでそれに応える。鞠江は眉を持ち上げ、理紗の金髪に嫌悪のこもる視線を突き刺した。
「穂積さん、どうしたのかしら? あなたは帰らなくていいのよ、いつも水谷さんの所為で遅刻させられてさぞご迷惑でしょうね。水谷さんがよく反省して遅刻の癖を直せば、大切なテストの日だって一緒に登校できるでしょう?」
「アンタ可哀相な奴やな、こんなやり方しか思いつかへんなんて。性格悪過ぎやで?」
敵意を込めた視線で鞠江を睨んだまま、理紗は挑発的に言葉を返す。まぁ、と鞠江は不気味な程に穏やかな声を洩らし、再び先程のそれと同じように顔を歪ませてみせた。笑っているのだけれど笑っていないような、バランスの悪い笑顔。それを見る度、理紗は反吐が出そうなほど不愉快な気分になる。
「あなたも水谷さんと一緒に帰りたいようね? 穂積さん。あなたも私がどれだけ指導をしてもその髪を直す気がないようだから、まあ丁度いいわね。勝手になさい!」
ヒステリックな鞠江の怒声が室内に響き渡り、理紗が再び言葉を返そうとその唇を開きかけた瞬間のことだった。

教室の前方、小さく音を立てて開いたドアから岩本雄一郎(元副担任教師)が顔を覗かせる。彼は少しだけ怪訝に眉根を寄せ、怒りに顔を赤める鞠江に向けて口を開く。
「廊下まで丸聞こえですよ、久喜田先生の声。生徒の指導は結構ですが、もうすぐテストが始まって…」
「イワちゃん」
岩本の言葉を遮り、横井理香子(女子18番)が席を立った。理香子は彼の元へに歩み寄ると、困惑した表情で教室の後方に立つ鞠江たちに視線を向ける。
「あーイワちゃん、まあ聞いてよ。なんか今日も水谷遅刻してきたんだけど、久喜田センセイがテストの日まで遅刻するような奴は帰れとか言っちゃってさ。しかも言い返した穂積まで。ちょっとひどくねぇかな?」
岩本に一番近い座席に座る川合康平(男子5番)が代弁して説明すると、教室のあちこちから同意の声が次々と上がった。ひどいよねぇ。何もそこまでしなくてもさ。つうかテストの直前にそういうごたごたとかマジやめてほしいんだけど。もう久喜田が帰ればいいじゃん。そうだよ出てけよ。ウゼェよな。帰れ帰れー。

ざわめく教室の中、最前列の中心に座る志田愛子(女子8番)が溜め息混じりに参考書を閉じるのが見えた。勘弁してくれ、とでも言いたげにひっそりと歪む彼女の表情。それで岩本は教室の喧騒を遮るように、パンパンと大きく手を鳴らした。

「はい、わかったわかった。勉強に集中してる奴もいるんだからあんまり騒がない。今日のテストの為に頑張ってきた奴も気が散って…あーこら宮田、椅子の上にゃ立つもんじゃない。座るもんだぞ」
名指しで注意された宮田雄祐(男子17番)が「ごめーん」とおどけた調子で椅子から降りると、室内にも少しずつ静けさが戻っていく。岩本は教室の後方で睨み合いを続ける騒動の火種に歩み寄り、少しばかり声をひそめて鞠江に訊ねた。
「そういうことなんですか、先生?」
「ええ。何か問題が?」
未だに高ぶった声で鞠江が返すと、岩本はそれには応えず桃実に向き直った。いつもより幾分元気のない表情で俯く桃実の顔を覗き込み、岩本は穏やかな口調で切り出す。
「よし。じゃあ水谷には先生直伝の寝坊対策を教えてやるから、今日のテストが終わったら職員室に来なさい。穂積も一時間目は数学だから、時間空いてるんだったら水谷の勉強も見てやれ。な?」
岩本に向いた桃実の表情がぱっと明るくなり、理紗も「桃実は今からじゃ間に合わんと思うで?」と苦笑混じりに肩をすくめた。
ひどいよ本当のことだけどさぁ、と笑う桃実を横目に、鞠江は岩本を睨みつける。どういうつもりだ。視線で語る鞠江の腕を取って半ば強引に廊下まで連れ出し、岩本は小さく息を吐いた。

「放してください!」
汚い物を払うように強く岩本の手を振り放し、鞠江は甲高い声を上げた。「岩本先生、この際ですから申し上げさせて――」
「お話は後で聞きますから、先生は職員室に戻って少し落ち着いてください。幾ら遅刻してきたからと言え、生徒にテストを受けさせないなんて度が過ぎてますよ」
ぴしゃりとそれだけ言うと、岩本は「それでは担当ですので、また」と付け加えて教室へ戻っていく。 静かに閉じられたドアの前、鞠江だけがひとり廊下に取り残された。心の中で振り上げた拳の行き場を失い、鞠江は俯いてだらしなく下げた拳を握る。ドアの向こうから度々聞こえる、平和な笑い声。視界には、薄汚れた廊下の床。

どうして――私が、この私が間違っているはずは――。
ぐるぐると渦を巻く怒りに似たそれは鞠江の体内を巡り、拳に込める力を少しずつ強めていく。噛み切った唇からぷつっと血液が溢れ出し、口内に広がる錆のような匂い。じわじわと。絨毯に零れた紅茶のようにじわじわと、少しずつ確実に、そこを汚してゆく。
吐き気がする。鞠江は口元を押えて顔を上げ、憎悪を込めた視線を教室のドアに突き刺すと、静かに踵を返した。


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