■104

「――次は安池くんよ」
久喜田鞠江(元担任教師)はボールペンを置き、窓側の最後列に座る彼を指名する。最前列で隣の福原満奈実(女子14番)と私語を交わしていた荒川幸太(男子1番)が「は?」と声を上げ、続いて満奈実も目を丸くした。

校庭の桜もすっかり葉を付けた、五月の始め。鞠江は四月中に個人指導を行ったのだが、三年四組で「問題あり」と見なした生徒には改善が見られなかった。そこで国語の授業時間を利用し、二度目の個人指導を行っていたのである。全員に配ったプリントの自習をさせながら、生活態度が悪いままの生徒を一人ずつ教室の前方に呼び出していく。
指導の結果は不調だった。植野奈月(女子2番)のような粗悪な生徒は勿論――というべきか、まともに授業を受けようとせず指導することすら困難なのだが――毎日登校して授業を受けていく生徒でさえ言うことを聞こうとしない。他の先生は何も言わないから。俺だけじゃない、みんなやってるじゃん。そんなことは生徒手帳に書いてない。先生には関係ない。ウザイよ。幾度も似たような言葉を聞く。その場では「わかりました」と言いながらも、翌日は当然のように短いスカートで登校してくる生徒もいる。
信じ難い世界だった。何故このクラスには――この学校には、これほどまでに教師の言うことを聞かない生徒が多いのだろう。鞠江の通っていた女子校では、教師の言うことに従わない生徒はごくごく少数であった。少数派の彼女たちはまるで娼婦に向けるそれと同じ蔑みの視線を向けられ、爪弾きにされ、小さな世界で虚勢を張るように教師への反抗を続ける。愚かな人種だ。そしてこの中学校の生徒の大多数は、彼女たちと同じ愚かな人種で埋め尽くされている。あまりにも低俗な世界だ。鞠江は苦虫を噛み潰したような顔で、だらしなく壁にもたれ掛かって横向きに座る幸太を睨んだ。

「なんで王子? つーかシャツの裾入れてんし成績いいし、部活もマジメにやってんじゃん。模範的生徒じゃね?」
「あーしも思った。ズボンにシャツ入れて変じゃないのも王子くらいだけどさぁ」
幸太と満奈実が顔を見合わせて言う。鞠江は再び握ったボールペンで、デスクをこつこつと叩き苛立ちを示した。
「私語は休み時間にしてちょうだい。荒川くんは前を向いてきちんと座りなさい、姿勢が悪いわ。福原さんも黙ってプリントを続けなさい」
「そんなことよかゴム返してほしいよ」
溜め息混じりに満奈実が反論する。赤いヘアゴムは派手だと先程の指導でゴムを取り上げられたばかりの満奈実は、不機嫌な顔で肩の下まで伸ばした髪を手でまとめてみせた。快活でどこか男勝りなところのある満奈実には少し似合わないその仕草に、幸太は怪訝そうに口を尖らせる。
「邪魔なら切りゃいいじゃん。似合わないこと」――しちゃって。途中まで言いかけた幸太の頭に、軽く握った拳骨がこつんと下ろされる。
「解ってないなお前。ショートだった子がロング目指して頑張ってるトコが可愛いんじゃねぇか」
安池文彦(男子18番)がちょっと意地悪っぽく笑って拳を引っ込め、小さく肩をすくめて二人の間を通っていく。「さっすが、王子は解ってるよねー」。感心した様子で言う満奈実に「福原さん!」と鞠江の一喝が飛ぶが、満奈実が口を閉じたところで教室から私語が消える訳でもなかった。教室のあちこちに洩れる声はひそひそと小さなものから、休み時間のように元気いっぱいの笑い声まで様々であった。それでも今はクラスで一番騒がしい植野奈月、古宮敬一(男子14番)らのグループが不在である分、静かな方だと言える。

「――で、俺に何か問題が?」
鞠江のデスクの横に置かれたパイプ椅子に腰掛け、文彦は先に口を開く。鞠江は美しく生え揃った眉毛を少し持ち上げてから、口角を上げて笑顔を示した。
「あなた自身の生活態度は全く問題ないの。身だしなみは整っているし、学業も部活動も申し分のない成績だわ。立派なものね。二年の後期に生徒会役員に推薦されたようだけれど…辞退、したのね。そういった部分が少々気にかかるわ。もう少し意欲的に取り組んでみたらいかがかしら?」
「…はあ」文彦は脚を組み、苦笑して続ける。「つまり、学級委員として意欲的にクラスメートを指導しろと言いたい訳ですか」
「賢いわね。あなたなら解っているでしょうけれど、このクラスには問題のある生徒が多すぎて私も手を焼いているの。今のままでは教室の風紀が乱れる一方よ。あなたと横井さんは学級委員として私の手助けをするべきでしょう?」
笑みを作ったまま話す鞠江の顔は、外国製の人形のように美しく整っている。すっと伸びる眉、大きな瞳、長い睫毛、細く通った鼻筋、毛穴一つ見当たらない白い肌に艶やかな赤い唇。神経質に思えるほどに整いすぎて、そこから零れる言葉もそれらのパーツと筋肉の動きも、全てがまるで機械仕掛けの人形のようだ。人間味が感じられない。この先生サイボーグみたいだな、考えながら文彦は小さく声を洩らして笑う。
「…何がおかしいのかしら?」
サイボーグの眉が怪訝そうにひそめられる。その頬に本当に毛穴がないのかを目で追いながらも、文彦は「いえ」と短く言葉を返した。
鞠江は自分をどのように利用したいのだろう。色が赤いだけで学校生活に全く支障のない、寧ろ必要なものであるヘアゴムの没収でも手伝わせるつもりなのか。もしくは神経質なサイボーグの、指導という名を借りた暴走を自分に食い止めさせるつもりなのか。どちらにしても、手段を選ばないサイボーグの暴君に利用されるのはごめんだ。肉眼で毛穴を発見できないことを確認して、文彦は続ける。
「俺はクラスの連中を指導するつもりで学級委員を引き受けた訳ではないんですよ。学級委員でも立場は皆と変わらないただの中学生で、校内では指導や評価を受ける側の人間です。先生は俺と横井があなたの手助けをするべきだと言いましたが、横井はともかく…まぁ俺は先生の手助けをするには適性を欠いた人間です。そんな生徒が学級委員を務めることに不満があるのなら、他に相応しい人間を代行にしてくださって構いません。正直言って古宮や植野なんかは、猛獣使いでない限り思い通りに動かすことはできないでしょうし。副担任の岩本先生ならだいぶ…扱い慣れてる、というより信頼関係みたいなものがあるし、その辺りは久喜田先生も岩本先生に任せてみたらどうですか?」
「駄目よ」一言で却下の判定を下した鞠江の視線は、少しずつ鋭い色を帯びていく。何故? と言いたげに顔を覗き込む文彦に、鞠江は口調を速めて答えた。
「岩本先生には任せられないわ。彼は生徒に対しての指導が少し甘すぎるのではないかしら? 確かに植野さんや古宮くんにも慕われているようだけれど、あの子たちにきちんと指導をしないことは疑問に思うわ」
「どうして岩本先生が奴らに何も指導をしていないと言い切れるんですか?」
「だってそうじゃない、そうでなければあの子たちが問題児のまま何一つ進歩していないのは何故?」
気味が悪いくらいに白かった鞠江の頬に、薄く赤みが差し始めた。言葉の勢いが少しずつ加熱していく。なんだか厄介なことになってしまいそうだと文彦は少し脱力したが、鞠江の挙動は少しずつ人間味を感じさせるものとなりつつあった。ちょっと食い付き過ぎだろ。僅かな呆れを見せる文彦を前に、鞠江は熱を上げ続ける。
「言ってご覧なさいよ。結局岩本先生は何もしていないのと同じでしょう?」
「俺はただ、子供とは言え赤の他人を思い通りに更生することがそれほど簡単にできるとは思えないだけです」
自身にもどこか冷やかに聞こえた、笑いの混じる声色。文彦はやっちまったかと口をつぐみ、本音を洩らした自分に失笑する。挑発に乗った訳ではないが、こんな口調で反対意見を言う子供に対して大半の大人は腹を立てる。「大人をナメるな」と。子供に生意気を言われた程度でプライドに傷が付くのかどうかは、文彦自身疑問に思うのだが。
「あなたに何が解るの!」
鞠江も例に漏れず、大半の大人と似た反応を示した。ただ少し、彼女の反応が強すぎたのだろうか。吐かれた言葉はヒステリックに教室に響き渡り、瞬間室内の喧騒が水を打ったように静まり返った。
頬を赤く染めて椅子を立つ鞠江を、幾つもの好奇の視線が追う。なに? なに? どしたの? そんなものには構いもせず、鞠江は興奮冷めやらぬ様子で暴走を続けた。
「学級委員のあなたがそんな人間だから教室が乱れるのよ、親が親なら子供も子供ね。あなたはもっと自分の立場を理解した方がいいわ、所詮あなたは――」
「何それ」
土屋雅弘(男子10番)が怪訝そうに眉をひそめ、短い言葉でそれを遮った。雅弘の表情は少し怒ったように歪み、視線も刺すように鋭い。笑うとくしゃっと細くなる切れ長の目には、日頃感じさせることのない威圧感のようなものさえ漂っている。
――こいつ、滅多なことじゃ怒らないヤツなんだけどな。雅弘の様子を少し意外に思い、文彦は唇を噛んだ。クラスメートたちも温厚な彼らしくないその表情に驚いているのか、ひそひそ話をやめて事の次第を見守っている。再び吐かれた言葉も、普段の雅弘からはあまり聞くことのできない強い口調だった。
「なんだか知らないけど、先生何言ってんすか? 正直王子に八つ当たりしてるようにしか見えねぇんだけど」
「そうだよ。さっきから黙って聞いてりゃ勝手にキレだして、一体何がしてぇんだよ」
間髪入れず同意を口にしたのは幸太だった。最前列の彼には鞠江と文彦のやり取りが聞こえていたのだろう。先程までプリントの上を歩いていたシャープペンをきつく握られた拳に包み、少なくとも鞠江に注意をされたときよりは正しい姿勢で、睨むように鞠江を威嚇している。
シャープペンの先のように尖った視線を受け、鞠江はふふ、と薄笑いを洩らした。
「どういうつもりでそんな口を利いているのかしら? お可哀想に、二人とも余程育ちが悪いのね」
「ああそうですよ。俺は育ちが悪ぃんだよだからなんだよ一体お前は何様なんだよ!」
おい幸太、と文彦が静かに制止したが、幸太は構うことなく続けた。「学級委員にブツブツ言うなら俺がなってやるよ。俺が文句聞いてやるよ。コイツは嫌がって誰もやろうとしねぇめんどくせーこと引き受けてくれたんだよ、皆の前でバカにすんな!」
「……偉い、幸太。よく言った」
幸太の怒号に続き、横井理香子(女子18番)が呟くように掩護射撃を放った。すぐさま理香子に鞠江の非難めいた視線が向けられたが、当の鞠江も自身のものと同じ非難の視線を教室中から浴びている。それを知ってか知らずか、鞠江はヒステリックに言葉を続けた。
「荒川くん、あなたは自分のような人間に学級委員が務まるとでも思っているの? 勘違いもはなはだしいわね、恥ずかしいと思わないのかしら? 土屋くんもよく解っていないようだけど、私は安池くんと話をしているのよ」
「先生」
リングにタオルを投げるように、文彦が割って入る。その表情には怒りも不満の色も見えず、ただただ冷静であった。あまりにも冷静過ぎて、警告を示しているようにすら見える。
「出過ぎたことを言ってすみませんでした。それからもう一度言いますが、俺のような人間は使ってくださらなくて結構です。大切な友人を侮蔑するような教師に、賛同するつもりはありませんから」
理性で武装したかのように、丁寧で流暢な文彦の返答。白熱する鞠江や幸太を前に全く動揺を見せないその態度は、更に鞠江の気分を害するものだった。鞠江の冷やかな視線を受け、それすら予測していたように文彦は唇を細めて笑う。幸太と雅弘――そして亡き父親が受けたそれをそっくりそのまま、鞠江に返すように。
ふいに文彦の唇から、嘲笑の色が消え去る。それから彼はひそひそと鞠江への批判を口にするクラスメートたちに向き直り、穏やかに口を開いた。
「はい、お終い。お騒がせしました。幸太、土屋。サンキュ」
加勢した二人の友人に感謝の笑顔を返し、文彦はゆっくりと自分の席へ足を運ぶ。何もなかったように落ち着いた仕草で席に座る文彦を睨みつけて、鞠江は唇を噛んだ。

あの冷酷な口調。私に向けられる筈のない、蔑みの視線。この男もおかしい。あの女もおかしい。全員異常だ、敬うべき存在である教師に向かって。この私に、向かって。信じられない、当然のように無礼な態度を――
「このクラスはどうなっているの!」
感情的な鞠江の声と重なるように、試合終了を告げるチャイムが教室に鳴り響いた。


+Back+  +Home+  +Next+