□103

2001.07.07 Sat. AM03:26
カーテンから差し込む淡い色の光を背景に、母親の頬を何かが伝っているのが見える。部屋の中央に置かれたテーブルの上、全く手を付けられていない缶入りのスポーツドリンクとプリンが並んでいる。それらを前にして泣く母親は、恐ろしく静かだった。声を洩らす事も、身体を震わせる事もなく、とても静かに泣いている。頬を伝う涙が、母のこぶしの辺りにぽろっと落ちるのが見えた。
桃実は瞼を伏せた。自分にはスポーツドリンクを飲むこともプリンを食べることも、泣いている母親の背中に飛びついて一緒に泣くことも、できない。みんな死んだのに。幸太も、理紗も、みんなみんな帰ってこれなかったのに。家族の顔を見ることすらできず、あの島に消えていったのに。
「死」とは。死んだということとは、どういうことなのだろう。どうして自分だけが帰ってきてしまったのだろう。どうしてあの時、あんなに大好きだったあの人を、殺めていたのか。どうして帰ってきたのが、あのクラスの中の他の誰でもなく、自分なのだろう。
「死ぬ」ということは、どういうことなのだろう。
ふいに母親が頬を拭い、こちらを見た。目を開いたままシーツに埋もれる自分を見て、母は何を思っているのか。
もう一度、考える。「死」とは、どういうことなのだろうか?
静かに立ち上がった母は、ベッドの脇まで来ると黙ったまま、桃実の頬に手を当てる。空いた左手は優しく頭を撫でた。幾度も幾度も、宝物に触れるように、優しく。
再び母親の瞳から溢れ出す涙が、虚ろに開いたその目に映る。母親の顔をぼんやりと見つめたまま、桃実はただ、思う。
死ぬ、ということ。もう二度と、誰かにこうして頭を撫でてもらうことすら、できないのだということ。身体に触れるこの手の温もりを、感じることができなくなるのだということ。
もう、二度と。



「――鬼頭さんは、どうして学校に来たくないのかしら?」
小奇麗に片付けられた玄関に立ち、久喜田鞠江(元担任教師)は口を開く。黙って俯くばかりだった彼女、鬼頭幸乃(女子4番)はその一言でようやく顔を上げた。真っ直ぐに揃った前髪の下、黒目がちな瞳はまだ幼い印象が残る。三年生に進級してから一週間、一度も登校してこない彼女の顔は写真でしか見たことがなかった。彼女はただ、黙って首を振るう。
「あなたのお友達から事情は聞いているの。でも先生、鬼頭さんの口から正当な理由を聞きたいわ。3年4組には面倒臭いからという理由で授業を受けない非常識な子も沢山いるのよ。あなただって、そんな子たちと一緒にされたくないでしょう?」
「先生あの、立ち話も何ですから上がってくださいな」
幸乃の後ろ、黙って次第を見守っていた母親が割って入った。人の良さそうな笑顔。鞠江は結構ですからと笑顔を返し、視線を幸乃に戻す。幸乃は先程より幾分曇った表情で、ゆっくりと口を開いた。
「…先生が聞いた事情の通り、だと思います」
「久米彩香さんからイジメを受けていたのね?」
曇っていた幸乃の表情が、さっと緊迫したものに変わったことに、鞠江は気付かなかった。短い沈黙を肯定として受け取り、鞠江は小さく息を吐く。
「鬼頭さん、あなたが辛い思いをしていたことは理解できるわ。でも丹羽中学校には、あなたと同じ思いをしながら必死に学校に通っている生徒がいる。私たちの学校だけじゃないわ、この国の色々なところにきっと、頑張っている子たちがいる筈よ。正直に言わせていただくけれど、あなたは甘えているだけよ。恥ずかしくないのかしら?」
「先生ちょっと、あの…」
いいの。再び割って入る母親を、幸乃が静かに制した。再び顔を上げた彼女の、顎の輪郭を描くラインは細く尖っていた。まだ日も暮れていないのに、闇に浮き出たようにぼんやりと白い肌の色。彼女が毎日学校に通っていた頃、それらが今より幾分柔らかく健康的なものだったことを、鞠江は知らない。
「――帰って、ください。今日は…すみません」
赤みの引いた幸乃の唇は、震えながらもか細く言葉を発した。


「久喜田先生!」
溜め息混じりに職員室へ入ろうとした鞠江を、誰かの声が引き止める。振り返った先、長身の女子生徒が不安げに眉をひそめていた。長い黒髪。少し大人びた容姿。印象に残る華やかな顔立ちは、遠藤茉莉子(女子3番)だった。
「あたし昨日幸乃の家に行ったんですけど、なんだか様子がおかしくて…先生が幸乃の家に行ったのも昨日ですよね? 何かあったのか、心配で…」
それで鞠江はああ、と頷き、再び小さく溜め息を吐いた。
「彼女、どういうつもりなのかしらね」
溜め息と共に吐かれた言葉に、茉莉子がその美しい顔を怪訝に歪める。
「…どういった意味でおっしゃってるんですか?」
「学生がきちんと学校に登校してこないなんてどういうつもりなのかしら、と言っているのよ。どういった事情があれ十四歳の子供は毎日学校に通って授業を受けるべきなの。遠藤さんは人間関係のトラブルを理由に長期欠席する人間なんて常識がないと思わないのかしら?」
茉莉子の顔から歪みが失せ、少しずつ表情が消えてゆく。――この少女は一体何なのだろう。毛穴からじわっと侵入する違和感。鞠江には解らなかった。いじめられる生徒はいじめる生徒が怖いと言う。いじめられる人間は何故、年齢も社会的身分も大して変わらない人間に恐怖を覚えるのだろう。加害者が悪いのだから怯える必要などないし、まして学校を休む必要もない。実際、学生時代の鞠江は同級生を怖いと思ったことは一度もなかった。いじめというものに関わった経験もない。いじめられる方もいじめる方も、人格的に問題があるのだと思う。そんなことを理由に学業を放棄するなんて、ただの甘えではないのか――
僅かな沈黙の後、茉莉子は鞠江の目をしっかりと見据え、落ち着いた声で言い切った。
「思いません」


「…植野さん?」
職員室を出た鞠江の視界に入ったものはまず、少し汚れた廊下。まだ4限目が始まったばかりの静かな廊下の向こう、制服の似合わない赤い髪の少女がゆっくりと歩いている。植野奈月(女子2番)は鞠江に気付いたらしく、悪びれない様子で歩を進めた。
「あ、誰だっけ? なんとかセンセイ」
授業中の廊下に、少し高めの声が大きく響く。それで鞠江はようやく奈月に駆け寄り、少し大げさに顔をしかめた。
「静かにしなさい。授業中よ。私は4月からあなたのクラスの担任になった久喜田です。始業式の日に少しだけ顔を合わせたけれど…覚えていないのね。植野奈月さん、あなたは今学校に着いたばかりなの?」
そこまで早口に言うと、すぐさま「うん!」と元気の良い返事が戻ってきた。開き直っているのだろうか。鞠江は奈月の爪先から頭頂部へさらっと視線を巡らせてから、再び口を開く。
「どうして遅刻したのかしら?」
「んーっと、寝坊したのかしら?」
ふざけたような言い草に苛立った目を向けると、奈月は悪戯好きの子供のように無邪気に笑った。人工的な赤毛の向こう、耳朶から下がるラインストーンのピアスがちらちら揺れる。その安っぽい煌きとほのかに漂う香水と煙草の匂いが、余計に鞠江の機嫌を損ねていた。馬鹿にしている。
露骨に表情が歪むのを感じて、鞠江は唇を噛んだ。深い溜め息を一つ吐くと、そのまま原稿を読むニュースキャスターのように滞りなく言葉を発する。
「まずは耳と首と腕のアクセサリーを全て外してお手洗いで顔を洗っていらっしゃい。教室に行くのはそれからです。学校は学びの場よ、ピアスやお化粧で着飾る必要は全くありません。爪もわざわざ色を付けなくて結構よ。香水も使っているようだけどそれも勿論禁止。全て校則違反です。カーディガンも校則違反ね、防寒具は黒か白のダッフルコートやピーコートが指定されている筈よ。鞄も指定のものを持っているんでしょう? それを使いなさい。持っていないなら購入ね。スカートはあと25センチほど長いものを。そのだらしない靴下も捨ててしまいなさい、みっともないだけよ。上履きに書くのはクラスと番号と名前だけで結構です。落書きが多すぎるから新しいものをお母様にお願いしたらどうかしら? それから今日帰宅したらすぐ髪の色を黒に戻して、十時にはベッドに入って明日からあと五時間早く登校する努力をなさい。不眠には温かいミルクに蜂蜜を少量溶いたものがいいわ」
「わー、すごいねセンセイ。諦めてもう誰もツッコまなくなったことばっか」
奈月が感心したように目を丸くする。「新人っていうか改革っていうか、なっちゃん蜂蜜ミルク大っ嫌いですけどねー。クソガキの味がするんだよねー」
鞠江はそれには言葉を返さず、もう一度念を押す。
「解ったのかしら? 私の言ったことを全て実行するのよ?」
「だから蜂蜜ミルクはやだって言ってんじゃーん」
グロスの乗った唇を尖らせ、奈月は頬を膨らませた。先ほどのそれと同じ、愛嬌のある子供のような表情。――先日指導をした迫田美古都(女子7番)のように、攻撃的に悪態をつくような真似はしていない。かと言って素直に言うことを聞くような生徒には、とても思えない。
「これ」は一体何者なのだろう。汚らしい髪の色、ちらちらと光るピアス、子猫のように大きい瞳を縁取る黒いライン、幼子のように明るく無邪気な表情――それから、白い首筋に浮かび上がった赤黒い小さな印。
目眩がしていた。鞠江にはとても目の前の娘が中学生だとは思えなかった。同じ人間ですらない、違う世界の住人。まるで異星人のように見えた。
「――あなたは」
ぽつりと洩れた声は掠れていた。「まず、煙草と性行為を止めることから、かしらね?」
それで、奈月が笑い声を上げた。きゃははっ、という甲高い笑い声は恐ろしいほど彼女に似合う。不快に眉を潜める鞠江に、先ほどとはうって変わった挑発的な視線を突き刺し、奈月は歌うように言葉を返した。
「百パー無理だね、先生だってわかるでしょ? あ、もしかして処女だからわかんないとか?」
どこか娼婦を思わせるような奈月の嘲笑が続く。頬に血液が集まるのを、鞠江は感じていた。憎悪と屈辱が混ざりあい、こめかみの奥でみしみしと砕かれているような感覚。開いた唇は動揺に震えていた。
「私を…侮辱したわね? 薄汚い愚民の分際で!」
甲高い怒声がヒステリックに響く。奈月は顔をしかめて耳に手を当て、それから顔を赤めて怒りを示す鞠江をぴっと指差した。指先にはパールピンクのネイルカラーが美しく塗られている。
「静かにしなさい。授業中よ」
鞠江を真似た神経質な口調で吐き捨てると、奈月は拗ねた子供のように舌を出し踵を返した。校則違反の短いスカートが鞠江を嘲笑うようにひらひらと揺れ、階段への曲がり角に消えてゆく。
「待ちなさい!」
奈月の姿は既にその場に見えず、感情的に叫ぶ鞠江の声だけが白い廊下に響き渡った。強く握られた拳、指先の白さがその怒りを現している。一体何だと言うのだ。私は間違っていない、何一つ間違ったことは言っていない、どうしてあの小娘にそれがわからないのか。何故私がそれほどまでに愚かな人間の相手を、これから一年もの間、勤めなければならないのか――。


+Back+  +Home+  +Next+