■102

2001.07.06 Fri. PM07:15
付けっぱなしのテレビから雑音が聞こえる。テレビ切っていい? と言うのも躊躇ってしまうほど静かな食卓の中で、それは紛れもなくただの雑音でしかなかった。おめーいい加減にしろよ。モニタの中で、最近よく見かけるお笑い芸人が相方にツッコミを入れる。汚ぇ言葉遣いだな、ぽつりとそんなことを考えた咲菜自身、美しい言葉を使いこなすことができる訳ではないのだが――ともかく、耳障りだった。

目の前にでんと居座った、鯖の塩焼き。苦手な焼き魚を箸でつついて威嚇する咲菜の前を、聞きなれた声が通過していく。
「あずみさん、お醤油取って」
「はいはい」
いい年こいてあずみさんも何もなかろうが。咲菜は呆れたように息を吐き、目の前を通過していく醤油の小瓶をぼんやりと眺めた。この夫婦ときたら三十過ぎの癖して互いを「あずみさん」だの「健一」だの、下の名前で呼び合っている。中学生の頃は聞いているこちらの方が恥ずかしくなったものだが、妹はこの両親を「ちょっと羨ましい」なんて言う乙女ちゃんだ。恋愛なんてそんないいもんじゃない。でも、だからこそこんな二人を羨ましく思うのかもしれない。
結婚して子供産んでおばちゃんになっても、大好きな人はずうっと大好きなままでいたいよね。一丁前に理想論をぬかしてみせた妹の顔が思い出され、咲菜は鯖を睨んだまま箸を置いた。――本当に、世話の焼けるガキだ。
「やっぱ、桃実呼んでくるわ」
勢いよく席を立って宣言すると、二人の視線が同時に咲菜の方へ向いた。
「サキ、あのな?」間髪入れず咲菜を宥める父親を遮り、母が醤油を差し出した。幼い頃から焼き魚は醤油をかけなければ食べられない咲菜は、渋い顔でそれを受け取る。――食えってか。母親の無言の指示にはもう慣れっこになっていたが、今日は黙って従う気分にはなれない。咲菜は立ち上がったまま、ゆっくりと焼き魚を咀嚼する母を睨みつけた。
「無理させることないよ。あの子が今まともにメシ食える状態じゃないってこと、解ってんでしょ?」
焼き魚を飲み込んだ母がようやく咲菜に向き直り、口を開いた。父親がテレビの電源を切り、ぎゃはははは、と下品に笑う芸人たちはモニターから消える。能天気な笑い声の残響が広がり、咲菜は苛立ちを露にして醤油の瓶を床に叩き付けた。
「じゃあかーさんはあのガキ心配じゃないわけ?」
少しずつ床に広がってゆく醤油の池を睨みつけて、咲菜は怒声を上げる。「アイツ帰ってきてから何も食ってないよ? ほっといていいの? ほっときゃなんとかなる訳じゃねーだろ?」
頭に血が上っているのがわかる。言い終えてから視線を上げると、母親はまたあの表情をしていた。「桃実は帰ってくるよ」。そう言って振り返ったあの、複雑で難しい顔。彼女が何を言いたいのかはうっすらと伝わっていた。しかし――そうはできなかった。それほど咲菜は、大人ではなかったのだ。
「…ごちそーさま」
咲菜はばつの悪い表情でそれだけ言い残し、冷蔵庫の前に向かった。冷凍庫の中には帰ってきたら一緒に食べようと残してあったハーゲンダッツのストロベリーが二つ、お行儀よく並んでいる。「二人で食べた方が絶対美味しいんだから」と桃実に説き伏せられて、お風呂上りに食べるのも我慢したのだ。
――別に一人で食べたって、普通に美味しいじゃん。
桃実が帰って来るまでは、そう思っていたけれど。


中央に置いたタンスで二つに区切られた二階の一室は、水谷家の子供部屋だった。友達が遊びに来ると「見たまんまで判りやすい」と言われる通り、手前のぬいぐるみとピンク色に溢れた部屋が桃実のもの、奥の殺風景で黒と豹柄のちらつく部屋が咲菜のものだ。少し散らかった桃色部屋。桃実の性格がそのまま反映したようなその空間は、咲菜に言わせれば「ガキっぽい」の一言に尽きる。

「桃ガキ。いつまで寝てんの?」
部屋の隅、ベッドの上に横たわる妹に向けて、咲菜は言った。言葉の棘は普段より幾分少ない。意識せずとも、そうなった。
横向きに寝ていた桃実の、下ろした黒髪の合間から、彼女の目が僅かに開いているのが見える。魚のように濁った瞳を見ていると、少しだけ気分が暗くなった。なんだかとても、桃実らしくない。
お姉ちゃんお姉ちゃんと後ろをついてきた妹を、鬱陶しいとあしらう様になったのはいつからだっただろうか。うっせークソガキ、なんて言葉を真に受けて怒る妹は、それでも半日もすると再びお姉ちゃんお姉ちゃんと後ろをついてくる。昼にはぷいと横を向いていても、夕食の時間にはにこにこと笑って自分の隣に座る。
桃実はそんな子だった。どれだけ邪険にしても再び懐っこくじゃれてくる猫のような、そんな素直なところが――あたしにはない可愛げのあるところが、ちょっと憎らしくもあり、愛おしくもあった。
しかし、落胆するにはまだ早い。咲菜はハーゲンダッツのカップを差し出して、再び口を開いた。
「帰ってきたら食べようって言ってたじゃん。あたし我慢して待ってたんだけど」
桃実の瞳が、ちらっとカップの方を見たような気がした。本当に気がしただけなのかもしれない、次の瞬間には桃実の視線はゆらりと外れ、とてもゆっくりとした速度で宙を泳いでいく。初めて見る妹の異質な姿に、咲菜は落胆とは違う感覚を覚えた。恐怖に似た、違和感。
――あたしの声はいつものように、不機嫌で意地悪なお姉ちゃんの声として、桃実の耳に届いているのだろうか。
重い空気が流れる中、掌に乗ったアイスクリームのカップは少しずつ、小さな水の粒をまとってゆく。指の間を伝う水滴と、滲む汗の触感が気持ち悪い。
「…食いなって、一口でもいいから。ちょっとでも食べないと、モノの食い方も忘れちゃうよ?」
虚ろな視線はアイスクリームも、咲菜の姿すらも捉えない。そこには何もない。胸の奥の底が見えない沼に落ちた彼女には、自分の声も家族の気持ちも、何も届かないのだろうか?
その答えが出る前に、咲菜のやりきれない苛立ちが爆発していた。唐突にアイスクリームのカップが床に叩きつけられ、中身の溶けかけたそれは情けない音を立てて形を歪ませる。どんよりと濁った桃実の目が、肩で息をつく咲菜を捉えた。
「食えよ! アンタが辛いのは解るよ、あたしだって解ってるよ! だけどこのままじゃダメなんだよ、食えよ!」
頭の中は真っ白だった。ぼんやりとこちらを眺めていた妹が、どんな目をしていたのかわからない。吐き捨てるように叫んだ言葉が、今の彼女に対して適切であったのか。それを考えた途端、頬の熱がすっと引いていくのがわかった。
「……ごめん。でも…、母さんがジュース買ってきてたから。それくらい、飲みなよ」
泣き出してしまいそうなときのように喉が詰まって、それだけ言うのが精一杯だった。咲菜は静かに踵を返し、くしゃけたアイスクリームの残骸を拾って部屋を出る。桃実を怒鳴ったのは初めてじゃない、今放ったものよりもずっとひどい言葉を叩き付けたことだってある。なのに後悔は今感じているものが一番大きく思えている。どうしてだろう。

一階に降りると、リビングのテーブルで頬杖を付く父親の前を横切ってキッチンに向かった。薄暗いキッチンの片隅、生ゴミ用のゴミ箱の中にハーゲンダッツを放り込む。
一緒に食べる筈だったアイスクリームは、たった今生ゴミに成り下がった。否、たった今ではなかったかもしれない。床に投げ付けたときかもしれないし桃実が受け取らなかったときかもしれないし、あるいは妹がプログラムに選ばれてしまったその瞬間から生ゴミになっていたのかも、しれない。そんなことを考えているうちに、どんどん気分が悪くなっていくのを咲菜は感じていた。

「…桃実、アイス食べなかったのか」
泣き出しそうになって俯く咲菜に静かに歩み寄り、父は一言だけ言った。母のそれに比べ幾分呑気に響くその声も、なんだか今は呑気に聞こえない。咲菜は背中を向けたまま、小さく頷く。
「サキ、一緒に食べるからって、我慢してたのにな」
穏やかな口調で、独り言のように零れた父親の声。桃実は本当にこの父に似たのだと、再び頷きながら咲菜は思った。可愛げがあって、いつまで経っても幼くて、たまにそれが癪に障るけれど憎めない。
「咲菜がなぁ、もものお願いちゃんと聞いたのなんて、珍しかったのに」
ゆったりとしたペースの声に、少しずつ気分が落ち着いてゆくのを感じた。咲菜は生ゴミに埋もれるハーゲンダッツから視線を外し、噛み締めた唇をゆっくりと解いた。
「…どうすればいいんだろ。ねぇ、どうすればいい? このままじゃあの子…」
振り返った先、父は驚くほどにいつも通り、穏やかな表情をしていた。不安げに涙ぐむ咲菜の目を真っ直ぐに見つめ返し、子供のようにくしゃっと顔を歪めて笑んでみせる。
「父さんは桃実じゃないから、何もしてやれないんだ。母さんも咲菜も、代わってあげたいと思っても全部解ってあげることはできないだろ? 辛いけど、桃実をゆっくり休ませてあげることくらいしかできない。他には何もしてやれないんだ」
「何も…?」
言葉を返す咲菜に頷き、少し悲しそうに眉を下げて父は続ける。
「理紗ちゃんが死んだんだ。あの子だけじゃない、桃実以外のクラスの子たちはみんな、桃実を置いて俺たちより先に行っちゃったんだよ。皆まだ、二十年も生きてない子供だったのに。…一人で帰ってきたから悪いとか、誰かを殺したから悪いとか、そういう問題とは違うんじゃないかな」
穂積理紗(女子15番)。彼女の名前に咲菜は目を伏せ、再び唇を噛む。桃実と特に仲のよい女の子で、この家にも何度も遊びに来ていたことがあった。金髪で不良みたいな外見の割に、とても礼儀正しくてしっかりした少女だった。まだ幾分幼さの残る桃実には、少し似合わない感じの――しかし、本当にとても仲良くしていた女の子。甘ったれの桃実を追い払いきれない自分を見て、優しいお姉ちゃんですねと関西訛りの口調で笑った彼女も、もう死んでしまったのだ。
「――だからな、サキ」
ゆっくりと顔を上げて、父親は再び穏やかに笑ってみせた。いつも通りの優しいだけの笑顔でない、なんだかとても悲しそうな、悔しそうな。それでも穏やかな表情で言った父の言葉は、咲菜の心に重く響いて離れなかった。
「桃実は悪くないんだよ。咲菜が何もできなくて苦しいのも――ごめんな。この国もこんな時代も間違った法律も、何一つ変えられない俺たち大人が悪いんだ。全部」



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