□101

2001.07.02 Mon. PM06:26
勢いづいてペダルが時折小さく悲鳴を洩らすのにも構うことなく、彼女は自転車を漕ぎ続けた。
カラオケ? 彼氏? バイト? 知るかっつーの、今日は全部パスだ。決まってんだろ。
駅裏の路地、左折と右折を幾度も繰り返し、たっぷり五百メートル以上は離れたところにあるそこを目指す。短く息を吐き、彼女はぐらぐら揺れる視界に小さな古びた薬局を確認すると、その角で思いきりハンドルを左に切った。店先に立つ、小学生の頃から考えても考えても存在意義の見えない蛙の置物が視界の隅に一瞬だけ映り消えてゆく。
薬局の角を曲がったそこに現れた灰色の色気のない外壁、屋上の柵に掛かった「水谷塗装」の看板の下(今日もシャッターが降りているのを横目に見た)、彼女は自転車を乗り捨てて裏口へと回った。
カーディガンの下に来ている、彼女が通う女子高の制服であるシャツはじっとりと汗ばんでいた。気持ちわりぃ。心の中で小さく毒づいて、彼女はカーディガンの裾で掌の汗を拭うと、そのままドアノブを捻った。

「――かーさん!」
玄関のドアを開き、ローファーを脱ぎ捨てるのと同時に彼女は叫んだ。どたどたと慌しい足音を立ててリビングまで上がり込むと、ソファに腰掛ける二人の姿が見える。その肩越し、テレビの画面にニュースキャスターらしき上品な女性と小さな字幕が映っているのが確認できた。
『…埼玉県所沢市立丹羽中学校三年四組のプログラムが今日午後三時頃、終了したと専守防衛軍から発表がありました。二十一時間二十四分に及ぶ戦闘の結果優勝した女子生徒は――』
ぷつっ、と小さく音を立ててモニタは消え、ソファに腰掛けた夫婦の片割れ――リモコンを握り、立ち上がった父親が振り返る。今日も父さんの頭はくしゃくしゃだ、本当にあんた三十代のおっちゃんか。制服姿の彼女、水谷咲菜は場違いにもそんなことを考えながら、父親の犬のような丸い目を見つめ返した。小学生の頃からちっとも老けて見えない童顔に、子供っぽいぼさぼさ頭。温厚ではあるがあまりにのほほんとし過ぎた性格の所為か、水谷家のピラミッドでの位置付けは正に底辺であると言ってしまっても過言ではないだろう。同い年の妻をさん付けで呼び、娘の我侭も笑って許してしまう。ごく稀に怒ると一気に頂点である母親と同じ位置までに勢力を増すところは、ちょっと甘く見れないのだが――そんなことはともかく。
いつも笑顔で家族を支える優しい父には似合わない、とても難しそうな表情。それにつられるように、咲菜の顔が不安げに歪む。
「父さん…」
咲菜が声を洩らすのと同時に、テーブルに置かれた灰皿の上にマイルドセブンのフィルターが押し付けられる。父親が好んで吸う煙草の銘柄はマルボロだから、灰皿は常に茶色いフィルターの色で埋め尽くされていた筈だった。
そこに押し付けられる白いフィルター。それを摘む、細長い爪。母親が子供の目につくような場所で煙草を吸う時は、大抵何かが起きた時だ。そう、水谷家の大事件とも言えるとんでもないことが起きてしまったときだけ。
咲菜が思い出すことのできる最も古い大事件は、当時まだ五歳だった妹が近所の変質者にさらわれかけたことだっただろうか。それ以降の大事件は全て咲菜の不祥事だ。万引きに煙草、酒に夜遊び、シンナー、等々。言い出せばきりがないのだが、どうやら自分は今まで親に要らぬ心配ばかりさせてしまっていたようだ。それもかなり多めに。
細い癖にどこか大きく見える母親の背中を前に、咲菜は口を閉じたまま反省する。父さん母さん、今まで心配かけてごめんなさい。反省して咲菜は我に返った。今はそんなことはどうでもいいのだ、もっと大きな――水谷家最大の事件が起きてしまったのだから。

「帰ってくる」
こんなときの母親の声は、思春期の難しい時期には疎ましく思えたほどよく通る。度々リビングに響くそれはいつも凛とした大人の――咲菜には上手く説明できないのだが、とにかくうざったいくらい入り込んでくる声なのだ。叱咤を受けた後に「母さんの声なんかウゼェよ」と愚痴っていたのもしょっちゅうだったが、妹はその度に「水谷家にはこれがなくちゃ、ってコト」なんて生意気を返して笑っていた。
水谷家のピラミッドで頂点に立つ母の声は、とにかく絶対的に強い響きを持っている。しかしこの時ばかりは、咲菜は手放しにその言葉を呑み込むことができずにいた。高校の授業後、携帯電話のスピーカーから一度聞き、今のものは二度目だ。しかしやはり、信じられないことであった。――だって、帰ってくる? あのガキんちょが? 甘ったれで弱虫で、泣き虫で。害虫さえ満足に殺せないあの子が――帰ってきたというのか? まさか――人を、殺して?
「桃実は帰ってくるよ」
振り返った母の、いつもは若々しい筈の顔。栗色の巻き髪に縁取られた健康的な色の肌には、皺らしき皺が見当らない。すっと伸びた眉毛の下、咲菜がその特徴を受け継いだ瞳。気の強さを表したように大きな二重で少し黒目が小さく、切れが長い。はりのある引き締まった頬。全てがいつも通りである筈なのに、そのパーツが作る表情はいつにも増して険しく、少しばかりくたびれて見える。しかし同時に安堵と喜びの色が浮かんでいることも、否定はできなかった。父親と同じ、実に複雑で難しい顔。そう思いながら見つめる母親のそれと同じ表情をしていることを、咲菜自身は気付いていなかった。
――もも、帰ってくるんだ。
まだ頭のどこかで混乱の渦はもうもうとしていたけれど、やはり、なのか。三度目にして咲菜はようやく、自身を納得させるように頷いてみせた。それから複雑に絡まってゆく思考をごまかすように、心の中で彼女の言葉をひとり呟く。水谷家にはこれがなくっちゃ、ってコト。


「――も、ももー、おい。桃ガキ、起きろー」
眠りへの未練を断ち切るように瞼を押し開くと、そこにあったのは金髪。あぅあっ、と奇怪な叫びを上げて、手元の拳銃を――
拳銃? 掌に触れるもこもこと柔らかい感触は、熊のぬいぐるみであった。瞼を擦り上体を起こすと、見慣れたキティちゃんのカーテンをバックに、黒いスウェット姿の姉が居た。二つ上の姉は朝日に当たり一層明るく見える茶髪を揺らし、薄い眉をひそめる。「何寝ぼけてんだ、とっとと支度しな。殺るよ」。すっかり母に似た口調。殺るよ、とか言うとこがお母さんよかタチ悪いなぁ。小さなあくびを一つして、睡眠不足の腫れぼったい目をぎらつかせる姉に「おはよー」とだけ返した(ああ、お姉ちゃんまた夜遊び帰りだわ)。
おはよーじゃねぇだろ起こしてくれてありがとうございますおねえさまとかねぇのかクソがぁあと五分あと五分って結局三十分も粘りやがって、と背後からしつこく追い回す声には言葉を返さず、部屋を出て階下へ向かう。水玉模様のパジャマの裾を引き摺りながら、洗面台に寄る事も忘れない。リビングには父親と母親の姿。ソファの上でぼんやりとテレビを見ている父親の頭は、寝癖も加えてか三割増の乱れ様だ。丸い目にぼさぼさの髪、言っちゃ悪いけどお父さんはそこらへんの学生みたいだ。幼く見える顔つきはあたしもしっかり受け継いでいる。

「おはよう桃実、あんたこーいう時だけは寝起きがいいね。ちょーど朝メシできたから」
朝食を運んできた母の姿は、三十代半ばには見えない美しい肌に茶色の巻き毛。に似合わないトレーニングウェア。なんでお姉ちゃんもお母さんもお父さんもパジャマを持ってないんだろう、スウェットよりパジャマの方が可愛いのに。日頃から抱く小さな疑問を胸に、丸皿に並ぶ朝食を受け取る。ハーフトーストにハムエッグ、サラダとミルクティー。いつもの朝食をいつも通りのんびりと食べ、フォークを置いた頃には時計の針は六時十五分を差していた。
慌てて二階の自室に上がり、制服に着替えて鞄を持つ。忘れ物はないか。頭、あ、ヘアゴム。髪は――行く途中に結えばいい。だてに年長さんの時から二つ結び続けてる訳じゃないんだから。昨晩チェックを繰り返して詰め込んだ荷物と、細かい私物を入れたリュックを抱え、玄関で靴を履いた。
「土産買ってこいよ、食えるもん。変なの買ってきたら殺すよ」
と、姉の声。
「ほら、あんたこんな時まで理紗ちゃん待たすんじゃないよ。急ぎな」
と、母の声。
「気ぃつけてな、桃ちゃん。父さんにもお土産よろしくね」
と、父の声を三拍子聞くと、振り返って面々に手を振った。
「はいはい、いってきます」
いってらっしゃーい、とハモる家族の声を耳にドアを開くと、外は何故か真っ暗だった。歩みを進めようとした足の爪先に何かが引っかかり、びくっと肩を震わせて足元に目を向ける。瞬間、視界に入ったその――物体、に、全身の血管が一気に収縮するような衝撃が走った。
毎日、庭先の自転車置き場の前に座って、遅刻魔の自分を待っていてくれた彼女が。
――血みどろの親友の身体が、だらしなくごろっと地面を転がっていた。


瞼の向こうにうっすらと光を感じる。消毒液――病院の匂い。今度こそ本物の覚醒が近づいているのだと、何故だかよくわかった。聞きなれた三つの声を聴覚が拾い始めた頃には、自然と瞼が開いていた。寝起きは恐ろしく悪い筈なのに、不気味なくらいに目覚めが良かった。
水谷桃実(埼玉県丹羽中学校三年四組女子16番)は赤子のように見開いた瞳に、三人を見た。若々しく勝気な筈の母。子供っぽい顔にぼさぼさ髪の父。母譲りの強気な表情に、濃い化粧を乗せた姉の顔。夢に見たそれと同じ、家族の姿。
――やっぱり、夢じゃないんだ。
三人の家族の顔を前に、一番最初に思ったのはそれだった。
お母さんが泣いてる。お父さんも、泣いてる。
お姉ちゃんは泣いてない。悔しいみたいな、悲しいみたいな、変な顔してる。
あたしと目が合った瞬間、お姉ちゃんが顔を隠すのが見える。
髪に手が触れる。あったかい、お母さんの手。
おかえり。そんな声が聞こえる。

やっぱり――夢じゃ、ない。
あたしは、帰ってきたんだ。
みんなの命と引き換えに、一人だけ。
人を、殺して。



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