■100

暗い色調でまとめられた室内にはどこか品格のある匂いがあったが、同時につんとした、寒い空気も漂っていた。高い天井。書棚には1ミリの狂いもなく分厚い本の数々がきっしりと詰め込まれ、それが部屋中にこれまた規則的に美しく並んでいる。それでも室内は、持て余したようにがらんと広い。中央奥に置かれた、黒々と艶めく木製のデスク。黒い革張りの一人掛けソファはイタリア製のもので、かなり値が張る高級品だ。ただでさえこの国では輸入品は入手し難いのに特注品ときている、しかしそんな出費は父にとって然程大きくもない事を彼女はよく知っていた。そしてそれは彼女本人、
久喜田鞠江(3年4組元担任教師)にとっても全く同じ事だった。

昔から欲しいものは何でもすぐ傍にあった。専守防衛軍大佐の父と古くから伝統のある華道の家元に生まれた母は一人娘の鞠江を可愛がり、彼女が食べたいと言ったもの、読みたいと言った本、欲しいと言ったもの、勉強に適した環境と様々なものを提供した。鞠江は幼稚園から大学まで一貫した名門の女子校に通い、卒業してからもごくごく当たり前のように――月並みな言葉で表すと、周りの大人たちが敷いていったレールの上を歩いていく筈だったのだ。

「お父様」
18歳になった鞠江は、革張りのソファに腰掛け書物に目を落としている父に歩み寄る。幼い頃はパパと呼んでいた父を、お父様と呼ぶようになったのはいつからだったか。
「――鞠江の我侭を、聞いてくださいませんか?」
この一言から、始まっていたのだ。

私は家を出ない。きっと職に就く事もない。それは地球が回っているのと同じように、1日が24時間だということと全く同じように、ごく自然で当たり前のことのように思っていた。自分が家を出るとき、それはいつか両親が一人娘を嫁がせるのに程度の良い相手を見繕って、お見合いをして、結婚するとき。これまでと同じ、太陽が東から昇って西へ沈んでいくのと同じようにごく自然な流れで、全てが決まって。その全てがこの一言を口にした瞬間から、覆されていたのだ。
そしてこの一言が、鞠江の人生の歯車を大きく狂わせてしまったのだった。
何故教師なんかを(なんか、という言う方は適切ではないと解っているが、今の鞠江にとっては教師なんか、だった)志したのかはほとんど覚えていなかったが、高校三年の夏を迎えたあの頃の自分は、ただ家を出たくて仕方なかっただけだったような気がする。子供だったのだと、思う。自宅と学校を往復するだけの生活。そこは周りの大人たちが用意した無菌室のように静かで害もなく単調で、街の喧騒とは硝子を一枚隔てたように距離を置かれた別の世界だった。自分はただ、そこを出て外側の世界に足を踏み入れてみたかっただけだったのかもしれない。そして鞠江の目に映る周りの大人の中で、外側に一番近かった(少なくともその頃、近いのだと思っていた)のは教師だった。だから教師になろうと思った、それだけだったのだろう。ともかく――初めて何かをしたい、と具体的な意志決定をした娘の気持ちを、父親は何も言わずに受け容れてくれた。母校で新任を経て、埼玉の中学に転任する事が決まったときも、父が中学の近くにマンションを用意してくれたのだ。

しかし、若さに加えて世間知らずであった彼女には、公立中学に勤めるということがどういうことであるか、理解できていなかったのかもしれない。地元では俗的な言い方で“多少ガラが悪い”とされている丹羽中学校には、鞠江の通っていた私立の名門女子校では見られない風景、耳にしない言葉が溢れているのだということを。
四月の始業式から早々に、無菌室で育った鞠江の皮膚はその馴染み難い空気を敏感に感じ取っていた。ここは地球ではないのかもしれない、体育館の後方から生徒たちを眺めながら鞠江はそう思っていた。いつまで経っても絶えないひそひそした話し声、笑い声。時折ちらつく茶色や沢庵のような色の頭。暑くもないのに足の露出し過ぎた短いスカート、ずるずるとだらしなく下がった女子生徒の靴下。遅れて入ってきた生徒、煙草の匂い――。
おかしい。
少しずつ覚え始めていた違和感は、担任する三年四組の生徒たちの前に立った時、更に強まっていた。
「少々――いえ、多少素行の悪い生徒が多いかもしれませんがね、その辺りに関しては副担を務めていただく岩本先生の方がかなりのベテランでして、頼もしいものでねぇ。しかしなかなかー…、生徒たちにも改善が見られませんで、こちらも少し手を焼いていて……まぁ、若手の先生を抜擢したのにもそういった部分で色々とあるんですが、若い先生だと生徒にもどこかしらこう、ピンとくるようなものがあるのではないかとねぇ…ともかく、ビシッとお願いしますね、こう、ビシッと」。
教頭の言葉にいちいち相槌を打ちながらも、鞠江の中にある違和感は膨張を続けていく。あの芸術的な金髪は禁止されているものではないのか? あの長くてだらしない靴下は禁止されているものではないのか? 煙草? とんでもない。未成年の喫煙などは法律で禁止されている、社会の常識だ。ルールは破る為にあるのではないのだし、煙草なんて百害あって一利なし、まして成長期の子供が嗜むような代物ではない。そう、それでいい。それが通常だ。じゃあ――ここは異常なのだ。正常にしなければ。どうやって? 私が徹底していればいい。

根っからの生真面目な気質でそう考えた鞠江は、決意を固めて三年四組の扉を引いた。幾つもの好奇の視線に神経質に光る眼差しで応え、月並みに自己紹介と挨拶を済ませながら、視線の端で特に問題のありそうな生徒たちに目星をつけていたとき、勢いよくドアが開いたのだ。

「おはよーございまっす♪」
落書きだらけの上履き。ルーズソックスに包まれた細い脹脛。短いスカートに校則違反のカーディガン。赤い髪の間から覗く左右合わせて七つのピアス。鞠江の声を遮って元気よく笑った彼女は、ひねくれてもふてくされてもおらず、明るく人懐っこく――だからこそ、異星人のように見えた。
植野奈月(女子2番)。ひねくれてもふてくされてもおらず、明るく人懐っこく、そして恐ろしく残酷な、十歳年下の小娘。
あのとき覚えた微かな頭痛のような――こめかみのずっと奥をきゅっと捻るような嫌な感覚。それが時々ふっと戻ってくる度に、鞠江は歯が軋むような苛立ちを感じていたのだった。



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