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「はぁい、お疲れ様でしたー」
榎本あゆ(担当教官)は間延びした口調で言い、ソファに腰を沈めた水谷桃実(女子16番)の前にミルクティーのカップを置いた。それから自分も桃実の向かい側のソファに腰掛け、自分の分のミルクティーに口を付ける。
「あゆねぇ、ミルクと砂糖ちょこっと多めなの好きなんだー。これも多めにしてあるんだけど、甘いの苦手じゃなかったら飲んでねー」
とても他人に飲み物を勧めるような言い方ではない、授業中に教師に当てられてたるそうに教科書を棒読みする高校生みたいな調子で、あゆは唇を動かす。しかし当の桃実はそれに構うこともなく、ミルクティーのカップから微かに上がる湯気をぼんやりと眺めているだけだ。あゆはちょっと肩をすくめて、ミルクティーをもう一口飲んだ。

プログラム終了後、水谷桃実がようやくその場を動いたのは20分程前だった。事切れた
荒川幸太(男子1番)と身を寄せたまま動かない桃実の頭上、降りつける雨が突然傘に遮られ、桃実が視線を上げるとそこには榎本あゆが居た。
桃実の異常に開いた瞳孔を見つめ返し、あゆはにっこりと笑って「おめでと。女子16番水谷桃実ちゃん、優勝だよ」とだけ言った。あゆに手を引かれて分校まで戻ると、ようやく兵士が首輪を外してくれた。すぐにプログラムが終了してからのローカルニュース用にと、迷彩柄の戦闘服を着た専守防衛軍の兵士が桃実の両脇に立ち、ビデオカメラのレンズを向けられる。耳元で「笑え」と誰かの声が聞こえたが、頬の筋肉はぴくりと引き攣っただけで、笑みにはならなかった。

――ま、普通に笑える子なんかそんなに居ないと思うけど。
あゆはミルクティーを喉の奥に流し込み、引き攣ったように歪む桃実の薄汚れた頬を思い返して、唇だけで笑う。
プログラムが終了して、一番に島を出たのは
久喜田鞠江(元担任教師)だった。自家用のクルーザーがお迎えに来ると、早々に戻っていってしまったのだ(兵士のリナは「結局何しに来たんですかぁ!」等とぼやいていたが)。
そして――桃実は今、本土へ帰還する船の中に居た。微かに揺れるカップの中身、確かにミルクを多めに入れてあるやたらと白っぽいミルクティーの湯気を、ただただ眺めていた。

「大変、大変です! あゆセンパイお願いしますぅ」
がちゃ、というドアを開ける音と甲高い声が、ミルクティーの湯気を部屋の奥まで吹き飛ばしそうな勢いで響く。あゆが顔を向けると、そこにはリナが困ったように眉を歪めて立っていた。ソファに座ったままの桃実を一瞥してから、あゆは腰を上げた。
「はいはいどーしたの? あー桃実ちゃん、悪いけどちょっと外すから鍵掛けさせてもらうねー」
早く早く、と促すリナに続き、あゆが部屋を後にする。微かに揺れる室内に一人残された桃実は、冷めていくミルクティーの薄い湯気を変わらず眺めたままだった。

終わった。
脈拍なく、その声は頭の中に湧いた。終わった。その一言が引き金になったように、次々に顔が浮かんだ。幸太。理紗。リカ、奈央。土屋くん。王子。なっちゃん。まりちぃ。ゆきちゃん――終わった。みんな死んで、終わってしまった。
硬い金属の感触が消えた首に、そっと手を触れる。唐突に、冷たいものが頬を滑っていくのを感じた。

あたしだけが。
あたしだけが、これを外した。
――こんなことを望んでいた筈じゃなかったのに。
少し伸びた爪を首に食い込ませて、桃実は少しの間、泣いた。


「トイレの水が止まんなくなったくらいで呼ぶかなー普通、ねぇリナちゃん?」
こつこつとヒールを床に打ちつけながら、あゆは船内の通路を歩く。その一歩後ろに続き、リナは言い訳をする子供のような口調で言葉を返した。
「だってぇ、かなりマジメに焦ったんですよぉ!? それにセンパイの部屋トイレから一番近かったしー、オトコの人にトイレ入られても嫌じゃないですかぁ」
「あゆ別に嫌じゃないよ? 減るもんでもないし」
「そりゃ減りませんけど、でもこの乙女な恥らいってゆうか…って、聞いてますかぁ?」
部屋の前で足を止めたあゆが耳を傾けていたのは、リナの甘い声ではなかった。ドアを開こうとしたが手を止め、それの向こうから微かに洩れる嗚咽を確認すると、あゆは肩をすくめてそこを通り過ぎる。
「あーちょっと、せんぱぁい!」
喚きながら後をついて来るリナは放って、あゆは甲板に出た。手すりに片腕を掛け、もう片方の手でベルトに通した白いレザーのポーチを開け、中に入っていたマイルドセブンライトを取り出す。咥えて火を着け、深く吸った煙を吐いた。視界に映る、もうかなり離れた会場の島が一瞬だけ白く煙り、すぐ風に流れて元に戻った。

「――赤い靴、履かされてたんだね」
小さくなっていく島を眺め、あゆはぽつりと呟く。やがてそれがほとんど見えなくなり、本土が幾分近くなった頃、あゆは三本目の煙草を消してもう一度唇を動かす。
かわいそうに、ね。
その唇に同情とも皮肉ともつかない笑みを広げ、あゆは踵を返した。



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