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机のひんやりとした冷たい感触で、
水谷桃実(女子16番)は目を覚ました。
――あれ? ここ、教室? 確か、修学旅行に行くバスの中にいたんだよね。
顔を上げて回りを見渡すと、ほとんどのクラスメートは机に顔を伏せて眠っている。どうやら席順はいつも通りに並んでいるようだが、木造の古臭い感じのする室内の雰囲気が、明らかにいつもの丹羽中学校の3年4組の教室ではない事を物語っていた。
「ん…?」
小さな声がして、前の席の
鈴村正義(男子8番)の小柄な体がむくっと起き上がった。
「すずちゃん、すずちゃん」
桃実は正義に呼びかけてみた。「すずちゃん」とは、正義の女の子と間違えるほどに可愛らしい顔立ち、声変わり前のような高い声から付けられた愛称だ。正義の小さな背中が、くるっと振り返る。
「あ、水谷さん…ここどこ? どっかの教室みたいだけど」
「あたしもよくわかんないんだけど…あれ? すずちゃん、首!」
「え? 何?」
正義は自分の首に手を当てた。――冷たい。
「何、これ…水谷さんも、首」
「嘘!? やだ、本当に付いてる」
制服の胸ポケットから鏡を取り出して、自分の首にそれが付いているのを確認した桃実は、隣の席の
横井理香子(女子18番)の背中を揺すった。
「リカ、リカちゃん起きて」
理香子の肩下まで伸ばした髪が揺れて、ぼさぼさに散らばった。理香子が「うーん?」と小さく声を上げて身を起こす。
「…ちょっと、桃実、あたし起きたってば」
理香子がぼさぼさになった髪を整えて、体を起こした。
「あ、ごめん…リカちゃん、これ何だと思う?」
桃実が自分の首を指差して尋ねる。
「…何? 首輪、みたいだけど…わかんない」
ふいに、教室のあちこちから声が飛び交う。「修学旅行行くんじゃねぇの?」。「何、このヘンな輪っか」。「ここどこ? うちらどーしちゃったんだよ」…。教室の喧騒を遮るように、突然前方のドアが開く。

コツコツとサンダルの音を響かせて、股上の浅いジーパンに金色のチェーンのベルト、チューブトップから出たくびれたウエストの、丁度下腹部辺りに赤いハート型のピアス(へそピアスだ! このクラスでも、
植野奈月(女子2番)くらいしか開けている者は居ない。桃実の知る限りでは)を輝かせた、幾分派手な格好の女が入ってきた。薄いブルーのサングラスをかけていて、髪は明るい金髪のショートカット。見たところ、年は二十歳前後だろうか。
教卓の前に立ち、脇に抱えていた学級日誌のような物(彼女には恐ろしく不似合いな、ただの紙の冊子だ)を教卓に置くと、彼女は口を開いた。
「どうもこんにちわー。新しくみんなの担任になった、
榎本あゆでーす。あゆって呼んでねー」
少し変わった、途轍もなくやる気のなさそうな声で“榎本あゆ”と名乗った彼女は言い、サングラスをすっと上に上げる。黄色のチョークを手に取り、書かれた跡がひとつもない黒板に「ayu★」とだけ書いた。そのまま、言葉を続ける。
「えーと、皆さんはぁ…もーわかってるコも居ると思うけど、まぁ簡単に言うとねー…」
桃実の脳裏に、ふいに思い浮かぶその続き。まさか自分が選ばれる筈なんてないと、頭の中から消去しようとした、それでも消去できなかった五文字。それを打ち消すように、桃実は小さく頭を振るう。
しかし――あゆは、いともあっさりとそれを口にして見せた。
「今年度のプログラムに、選ばれましたー。みんなおめでとー。がんばって殺し合ってねー」
教室の中が、しんと静まり返る。全く軽い口調で言ったあゆの、投げやりでけだるい拍手の音だけが教室に響く。
「プログラム」。大東亜共和国の中学三年生だったら、誰だって知っている言葉だ。ルールは至って簡単、クラスメート同士で最後の一人になるまで殺し合いをする。しかし、プログラムに選ばれるクラスは全国で50クラス。宝くじに当たるような確率なのだ。
――え? あたしが? 選ばれた? プログラム? 殺し、合い?
思いがけない事態に、桃実の瞳からぽろぽろ涙がこぼれた。理香子も、桃実の隣で青くなっている。
「――あ…あのー」
ふいに、その気味が悪い程の静寂(そうだ、3年4組がこんなに静かなのは気味が悪い)を、少し高めの穏やかな、それでも今は緊張に震えた声が破った。それとほぼ同時に、前から三番目の席、
遠藤茉莉子(女子3番)の手が上がる。
「んー、アナタは…えんどー、遠藤茉莉子ちゃんだよね。どしたの?」
あゆは学級日誌の名簿と茉莉子の白い顔に視線を往復させ、相変わらず軽い口調で応えた。
「幸乃…鬼頭幸乃はどうなってるんですか?」
茉莉子が少し躊躇いがちに、それでもしっかりとした口調で言った時、桃実もはっとした。そうだった。
鬼頭幸乃(女子4番)は今日も欠席だ。
「鬼頭さん? あー、あのコはこっちで連れてきて、選ばれた事も説明したんだけどぉ、やっぱショックだったのかなー。叫んだり暴れたり…すごい発狂してたからぁー」
そこまで言うと、あゆは近くに立っている兵士に目配せする。兵士はちらりとあゆに視線を返し、黙って廊下に出ていった。
「うるさいし、何にも聞いてくれないからねー。殺しちゃったけど、仕方ないよねぇ?」
兵士が丁度良いタイミングで、黒い寝袋のような物を教室に運び入れ、教卓に置く。そのままジッパーが半分ほど開くと、途端に室内には生々しい血液の濃厚な匂いが広がった。
「きゃああああああああっ」
一番前の席の
志田愛子(女子8番)渡辺佑子(女子19番)の悲鳴が教室中に響く。それを合図に、クラス中に悲鳴が上がった。うっ、と嘔吐する声もあちこちから聞こえる。
鬼頭幸乃の可愛らしい顔が、寝袋から顔を覗かせていた。口の端からは赤い筋が伸び、くりくりと愛らしく大きかった瞳はどんより濁って、どこか空を見ていた。そして、左胸の下あたりに赤黒い穴が三つ、空いていた。間違いなく――幸乃は絶命していた。
「はいはいはい静かにしてくださーい。ほらぁ、静かにしないとこうなっちゃうよ?」
そう言って、あゆは楽しげにくすくすと声を上げて笑う。
「…っ、テメェ! ぶっ殺してやる!!」
飛び交う悲鳴の中、ふいにその罵声は聞こえた。悲鳴が止み、クラスの誰もがその声の主に視線を向ける。桃実も悲鳴を飲み込み振り返ると、席を立って今にもあゆに飛び掛っていきそうな勢いで叫ぶ
荒川幸太(男子1番)の小柄な体がそこにあった。
それで、桃実の体に鋭く緊張が走る。そんな事をしたら、幸太も殺されてしまう。それは桃実にとって、何としても避けたい事態だった。まあ、つまりは――桃実にとって、幸太はそれだけ大切な存在だったのだ。幸太が幸乃の死にこれだけ激昂している理由についても、桃実は何となしに感付いてのだが、それでも構わなかった。
しょっちゅう遅刻してくる自分を、いつも校舎の窓から顔を覗かせてからかう姿。お喋りしているときの無邪気な笑顔。身長を伸ばしたいからと、いつも彼の弁当に入っていた苦手な筈の小魚。なんだか全てが、桃実にとっては無性に愛おしかったのだ。
「幸太、止めろ」
丁度幸太の席の斜め後ろに座っていた
安池文彦(男子18番)が静かな口調でそれを制したが、幸太はそれにも構わずに続ける。
「何なんだよ! どーして鬼頭が殺されなきゃいけねぇんだよ、ざけんな!」
がたっ、と小さく音を立てて文彦が席を立ち、そのまま幸太の腕を掴む。
「落ち着けよ、死にてぇかバカ」
文彦は変わらず落ち着いた、しかし今度は少し強い口調で言う。クラスで一番身長の高い文彦が、150センチほどの、男にしてはかなり小柄な幸太を取り押えているその姿は、場違いにも駄々をこねる弟を宥める年の離れた兄を思わせた。幸太はそれでも文彦を振り払おうともがき、放せ、畜生、と罵声が響く。
ふいに、
土屋雅弘(男子10番)だろうか――二人からはかなり離れた場所に居る彼も幸太を止めようとしたのだろうか、席を立ちかける。しかし、がぁんと大きく音が響いて、雅弘は立ちかけたまま固まる事となった。
それで、桃実も雅弘からその音の方向に視線を移した。自分が座っている席の隣の列、一番後ろ。
何処に居ても目立つ金髪の彼女、
穂積理紗(女子15番)が椅子に腰掛けたまま腕を組み、鋭い目付きで真っ直ぐに前を睨んでいた。そして、理紗の机は見事に引っくり返っている。それで桃実は、理紗が机を蹴り倒したのだと解った。
「うっさいわ、荒川チビ太。黙って座っとき」
いつにも増して苛立った声で、理紗は言い放った。高すぎる訳でも低すぎる訳でもなく、それでも不思議とよく響く理紗の声は教室に居る全員の耳にしっかりと聞こえるものだった。ああ、理紗――幸太の前じゃ“チビ”は禁句だってちゃんと言っといたのに! 呑気にも、桃実の頭にそんな事が浮かぶ。しかし――それで、ふいに幸太は我に返ったかのように脱力し、幾分ふらついたままその場に立ち尽くした。
「幸太、いいから座れよ」
文彦が片手で幸太の椅子を引き、そこに座らせるようにして肩に手を置いた。その動きに全く逆らわず、幸太の体は糸の切れた操り人形のようにすとん、と椅子にへたれ込む。
「あ――ごめ、ん」
いつもよりずっと弱々しい声で、幸太は文彦に一言だけ言う。文彦は押し殺したような低い声で「気にすんな。それより、落ち着け。死にたくないだろ」と幸太の耳元で言い、黙って席に着いた。
ふいに、あゆが理紗の席に歩み寄っていた。理紗がなにかされるのではないか、と桃実の体に緊張が走ったが、あゆは倒れた理紗の机を起こして置き直すと、にっこりと笑ってみせたのだ。
「穂積さん安池くん、ありがとねー。お陰で殺す手間が省けたよぉ。でも、ガッコの備品は大事にしなきゃダメだよ?」
理紗は何も言わず、不機嫌そうに鋭い視線を辺りにばらまいている(周囲に居たら胃が痛くなりそうだ)。どうやら、あゆの言葉は完全無視しているらしい。
「いいえどういたしまして」
文彦の方は、席に着いたままいつものように足を組み、さらっと返事を返した。しかしその言葉は全くの棒読みであり、加えて恐ろしく冷たい響きがある。不本意なものだという事は明らかだった。
しかし、あゆは二人の態度に逆上する事もなく、「素直じゃないお子さんだねー」と呆れ混じりに言い、肩をすくめて教卓へと戻っていった。



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