□19

一歩。もう一歩。また一歩進むと、足に痺れるような痛みを感じて
長谷川美歩(女子12番)は顔をしかめた。
――あー…もー、ダメ。
美歩はその場にうずくまり、痛む足をさすった。――筋肉痛だ。絶対、筋肉痛だ。美歩は確信していた。二年の二学期の始め、バスケ部を退部してからの運動不足が祟っているのだろう。一年の頃、入部したてで慣れない練習に体が悲鳴を上げていた、懐かしい感覚だった。
足のじわじわとした痛みに溜め息を吐き、美歩はスカートのポケットから煙草(ラッキーストライクメンソールだ。美歩がいつも吸っているもので外国産だが、最近ではそういったものの輸入の規制が軽くなっている。自販機にこそ置いていないが、店に行けば見つかった)の箱を引っ張りだし、一本取り出した。
自分が煙草を吸っている事は、学校の連中は多分知っていないと美歩は思っていた。多分、だ。匂いでしっかり気付かれているかもしれないし、学校のトイレ(と言っても、人気が無く、換気扇まで付いているトイレまで遠出している)でしょっちゅう吸っているのだから気付く奴は気付くかもしれない。
どちらにしても、美歩にとってはどうでもいい事なのだが(煙草くらい、手を出してる奴はゴマンといるしね)、ただ一人――
安池文彦(男子18番)だけは、近所の輸入雑貨店(と言っても名前だけで、実質的には酒やら煙草やらが置いてある店だった。美歩がこの煙草を見つけたのも、ここだ)でばったり会ってしまい、その事を知っていた。
文彦はクラスメート達にその事を言い触らしたりはしなかった。それから、たまに輸入雑貨屋で会った時やその近くの公園で、文彦と少し話をするようになった。――ま、腹減ってる時にマック行ったりとか、たまにお茶したりとか、そんなもん。
しかし、学校では滅多に話さなかった。お互い、あまり積極的な方ではなかったのだ。

そこまで考えたが、今となっては仕方ない事だ。ただ、死ぬ前に誰かに逢えるとしたら、できれば美歩は文彦に逢いたかった。恋愛感情としてではなく、友達として。友達、なんて言うほどのものでもないかもしれないが、とにかく。考えながら、美歩はその少し厚い唇に煙草を挟んだ。
目は少し切れ長、それでいて二重で大きい。
そこはまあ、多少褒められたりもするけれど――ぽっちゃりとした厚めの唇(コレマジメにウザイよ、エッチっぽいとか言われる)は美歩のコンプレックスだった。小さく高いけれどイマイチ筋の通らない鼻(なんか“プライド高い癖に根性曲がってる”って感じする)
も同様だが、何よりこの唇が一番気に食わなかった。いつも引き締めたりして、なるべく厚く見えないように努力はしている。唇は厚い方がいい等とも言うが、美歩はそうは思わなかった。暑苦しいだけだ。
植野奈月(女子2番)の薄すぎず厚すぎずな唇になりたかったし、穂積理紗(女子15番)のような、筋のすっと通った鼻にも憧れた(遠藤茉莉子(女子3番)は手の届かない程の美貌を持っていた。あの美しい顔には、誰もが憧れているのだろうと美歩は思った)。周りにはあたしなんかよりずっと可愛いこが山ほど居る。“大したことない癖に妙にナマイキっぽく見られる”自分の顔が、美歩は大嫌いだった。

すっと息を吸い込み、ふっと深く吐いた。煙草の香りが口に広がる。それで、美歩は少し落ち着いた。今すぐここで紙巻きの先に火をつけて、煙草を吸いたかった。しかし、それは我慢する事にした。匂いで誰かが気付くかもしれない。
先程、
川合康平(男子5番)黒田明人(男子6番)の呼びかけを聞きつけ、タワーの近くまでなんとか歩いてきたが、二人は誰かに殺されてしまったようだ。美歩は聞いていた、あのスピーカーを通したような音だが、銃声と、小さく「きゃははっ」という声がしたのを。声からすると女子のようだったが、とにかく危険だ。そして、今の位置(地図で確認したところ、D=05だった)まで逃げてきたのだった。

これから自分はどうなるのか――次に、美歩の頭にはそれが浮かんだ。誰かに殺されるかもしれない。しかし、実感も恐怖もあまり無かった。
美歩は自分が生き残る事のできるような優れた人間だとは思わなかったし、クラスメート達が自分の事を信用しているとも思えなかった。仕方ない事だと思った。美歩は普段、クラスでも一人でいる事が多く、どことなく浮いた存在だった。美歩自身も自覚していた事だし、進んでクラスメート達に話しかける事すらも面倒臭がる自分が悪いのだ。

それでもバスケ部を辞める前は、
横井理香子(女子18番)福原満奈実(女子13番)、それと他のクラスの部員などと一緒に居る事ができた。
意識する事もなく、自然と一緒に居たのだ。しかしバスケ部を辞めてからは、自然とそれらの付き合いも遠退き――気が付けば、クラスでは一人で居る事が多くなった。
東城由里子(女子11番)に話し掛けられた時以外はいつもひとりで寝ていた。由里子はどういう訳か、美歩に話し掛ける事が多かった。美歩は由里子のマニアックな話に圧倒されていたが、それでも一応話し相手だった。
しかし美歩は、嫌われているとかイジメられているとか、そういう訳ではなかった。美歩の方から交流を持とうとしなかった為、自然と離れていっただけなのだ。
美歩が相手を嫌っていた訳ではない。そうではないのだが、美歩自身も何故話しかける事ができないのか、よく解らなかった。自分ですら解らない事を、他の人間が理解してくれる筈もなく、気が付けば一人になっていた。それだけの事だ。
そこまで考えたが、止めた。考えても仕方ない事だ、ていうか別にどうでもいいし――美歩はくわえた煙草を指に挟み、唇から放した。その後、何気なく辺りを見回した。そして――
それに気が付いた。少し離れた木の陰に、遠藤茉莉子が立っていたのだ。美歩は煙草をポケットに仕舞った。茉莉子はこちらに気が付いたようだ。茂みの中をすたすたと歩み寄ってきた。
「美歩ちゃん」
茉莉子の声は普段と全く変わらないトーンだ。しかし、顔は全くの無表情だった。
「なに?」
美歩はなんとなしに、立ち上がってみた。もしも茉莉子が銃を持っていたら――そんな考えが、一瞬頭をよぎった。敵う訳がないだろう。美歩の支給武器はどういう訳かHB鉛筆1ダースだった(デイパックの中からそのダークグリーンの箱を見つけた時、美歩はこんなもので人を殺せと言う政府の神経を疑った)。
「久米…久米彩香、見なかった?」
茉莉子はどうやら
久米彩香(女子5番)を探しているようだった。この二人はあまり仲の良い方ではなかった気がする。それには鬼頭幸乃(女子4番)が彩香のグループからハブかれていた事が関係している、といつだったか女子トイレで誰かが噂していたのを、美歩は覚えていた。
「見てないよ。多分――森下さんとかと、一緒なんじゃない?」
美歩はとりあえず、そう言った。彩香と
森下亜貴(女子17番)は出席番号が離れていたが、教室ではいつも一緒にいたせいかそんな気がしていた。
「そっか。ありがと」
普段から愛想の良かった茉莉子にしては珍しく、素っ気ない返事だった。無表情のまま、茉莉子は美歩の前を通り過ぎていった。
遠藤サン、なんか変な感じがする――
美歩は茉莉子から伝わる妙な違和感を振り切るように、また煙草を咥えた。



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