□27

『結婚、しよっか』
彼は、そう言った。

「ぅ…いたい………」
浜野恵梨(女子13番)は頭を抱えるように座り込み、小さく呟いた。
「浜野、まだ頭痛い? 大丈夫?」
隣から、
武井尚弥(男子9番)が心配そうに顔を覗き込む。それすらも、恵梨にはぐらぐらと歪んで見えた。
「うん…ゴメン」
恵梨はぼそっと言い、また顔を伏せた。尚弥はどうすればいいものか、困り果てていた。最近、どことなく元気が無さそうだとは思っていたのだが、やはり恵梨は体調が悪いようだ。

今、自分たちが居るH=03の民家(南部集落に属しているものだった)にはそういった薬は見つからなかったし、ここ最近、恵梨はあまり薬を飲みたがらなかったのだ。
ひとりソファを占領している
久米彩香(女子5番)は恵梨を心配するような素振りは全く見せていなかった。時折「あーあ…」だとか、「もーやだぁ…」だとかぼやいているだけで、役に立ちそうにはない。
「久米…悪いんだけど、浜野そこに寝かせてもいい?」
尚弥は、不機嫌そうに髪を弄っている彩香に尋ねた。
「えー? もー最悪ぅー」
彩香は益々不機嫌な顔をして、のろのろとソファから腰を上げる。――本当にそれでも友達かよ。尚弥は心の中で毒吐いた。尚弥は普段、彩香のこういった言動を見る事は少なかったのだが、それでも彩香ごときの猫かぶりくらいは見抜けた。元々、久米彩香という人間はこういう奴なのだ。
「ほら、浜野。立てる?」
恵梨はこめかみの辺りを押さえ、のろのろと立ち上がった。同じのろのろでも、こちらののろのろは違う。足元がおぼつかない様子だったのだが、尚弥が支え、どうにかソファに横たわる事ができた。恵梨は本当に辛そうだった。何故、こんなにも体調が悪いのかは尚弥の知るところでは無かったのだが、尚弥は恵梨の事を、他のクラスメートとは少し別に見ていた。
しかしそれは、尚弥自身が恵梨を特別な存在として見ていた訳ではない。恵梨は、尚弥の親友にとっての特別な存在だったのだ。
二年の冬休み、親友の
沖和哉(男子4番)の部屋で話していた時だった。
女の子の話になった時に、和哉が「誰にも言うなよ。俺、浜野の事、好きっぽい」と言ったのを覚えている。最初は、あんなに女子に人気のある和哉が、ごく普通の女の子(一年の頃は少し不良っぽい、目立つ感じのグループに入っていたのだが、二年になってからは付き合いも少なくなっているようだ)である恵梨を好きになったのかわからなかった。
顔だったら
遠藤茉莉子(女子3番)や、他のクラスにも綺麗な女は沢山居る。恵梨も可愛いか可愛くないかといったら可愛い部類に入るのだろうが、目立つ程ではない。
とにかくそれ以来、告白しただとか関係が進展した話は尚弥は聞いていなかった。二人はクラスメートには内緒で付き合っていたのだが、和哉は尚弥にさえ教えていなかったのだ。和哉の片思い止まりだと、尚弥は思い込んでいた。

「ナオちゃん、なんで恵梨にばっか優しいのー?」
彩香がぷぅっと頬を膨らませて、不満気に声を上げる。くりっとした瞳、白い頬、グロスに濡れた唇。それなりに可愛らしいものだったが、尚弥がそれに対して感じるものは呆れだった。
「オマエなぁ…浜野、体調悪いんだぞ? 見てわかんねーのかよ」
その言葉に、彩香は何を思ったか恵梨に向き直り、くいっと顎を引いてみせた。
「恵梨ぃ、無理しなくていいんだよ? こんなトコで仮病してオトコの気ぃ惹こうったって、無駄なんだから」
明らかに自分より下の位置に居る恵梨を、顎を引いて無理に上目遣いで見ている。オトコの気を惹こうとしているのはどちらか、一目瞭然だろう。尚弥は最早、返す言葉もなかった。
「…久米、アンタその上目遣い…止めてくんない?」
色んな意味で吐きそー、と心の中で付け加え、恵梨は顔を背けた。彩香はまたつまらなさそうな表情に戻り、不機嫌を丸出しにして部屋の隅に座った。
――あーあ、もー帰りたぁい。
彩香は白い足で床を叩き、苛立ちをぶつけた。ゆるくウェーブのかかった栗色の髪を指で弄り、部屋の真ん中に立てた蝋燭の明かりに透かして眺める。明るい栗色の髪は金に近い色に変わって煌き、彩香はやっと気持ちが落ち着いた。
きれい――。あやかの髪、こんなにきれい…なのに、ずっとこんなトコに居たら痛んじゃうじゃん。もぅ、やっぱ最悪。早く家に帰りたいな。肌も超ベタベタだし、カバンに入ってたパンマズいし。爪だってがんばって伸ばしてたのに、割れちゃったらどーしてくれんの? 夏物の服だってまだ欲しーのいっぱいあったし、マスカラもグロスも新しいの欲しいし、狙ってたピアスだって亜貴にねだって買ってもらう予定だったのにぃ…あーあ、早く帰りたい。
彩香は白い、自慢の滑らかな頬に触れた。やっぱ、いつもより痛んでる。家帰って、お手入れしなきゃ。でも殺すのやだなー。怖いし、死体なんてキモくて見たくないしー。おっきーだったら守ってくれるよね? あーあ、ナオちゃんも恵梨も消えて、おっきーが早く来てくれればいーのになぁ。ナオちゃん、あやかに構ってくれないし。
三年になってすぐ、その抜群のルックスに惚れて狙うようになった沖和哉の整った顔を思い浮かべ、彩香の艶やかな唇が自然に笑みの形をつくった。

何故かやたらとにやにやしている彩香を不思議そうに一瞥し、尚弥はふと、机に視線を向けた。机の上にはそれぞれの武器を持ち寄り、集めてあるのだ。尚弥のものは菜切り包丁、彩香のものは未使用の茶色い革製スリッパなのだが、驚いたのは恵梨の支給武器だ。
聞くところによると、デイパックには何かの鍵と、持ち手に“特別付録”と書かれたカミソリ、それと四つ折りの紙が入っていたらしい。その紙には地図が書かれていて、地図通りに分校の裏の倉庫まで行くと、新品の自転車がそこにあったというのだ。鍵はその自転車の鍵で、ぴったりはまったという。その自転車は、今、家の入り口前に鍵をかけて置いてある。確かに、体調の悪い恵梨が動くには向いている武器だ。道は石だらけで歪んでいたが、それでも歩きよりは自転車の方が動きやすいだろう。
「ねぇ、ナオちゃーん…あやか、おっきーに逢いたいよぉ」
突然、彩香が甘ったるい声を上げた。恵梨の体が、反応したように少し動いた。
「和哉かぁ…俺も、逢いたいな」
尚弥はふと、親友の顔を思い出した。和哉、オマエの好きな浜野ちゃんがピンチなんだ。早くここに来てくれよ。
「早くおっきー来ないかなぁ…あやか、おっきーに守ってもらいたーい☆」
彩香は胸の辺りで手を合わせ、ひとりで「きゃ、そんなぁ」とか言っている。そんな“3年4組イチの性悪娘”(本人自覚無し)を前に、尚弥は半ば呆れて言葉を返した。
「久米、それ無理っぽいべ? 和哉、他に好きなコが居るって言ってたし」
しかし呑気にも頬まで赤く染め、脳内のお花畑でスキップしている彩香の思考に、その言葉は少しばかり刺激が強すぎたらしい。途端に彩香は血相を変え、立ち上がって金切り声を上げる。
「テキトーな事言わないでよ! おっきーはあやかのだもん!」
おっきーはあやかのだもん。例え寝言でも、武井尚弥にとってその台詞は許し難いものだった。親友としてのプライドを乗せた強い口調で、尚弥は勢いのままに言い返す。
「んだよ! テキトーじゃねぇんだよ、俺マジで聞いたんだよ! つーか和哉は俺のマブダチだ! オマエみたいな『自分が姫様★』オンナにゃやらねぇよーっだ!」
――こんなところが少しばかり女々しかったりもするのだが、まあそれはともかく。

「ちょっと、二人ともやめなよぉ………っ、ぅ!」
仲裁に入らんとした恵梨が、唐突にばっと起き上がる。二人が何事かと恵梨に向き直る横を走り、そのまま廊下を短い廊下を突っ切ってトイレに向かっていった。
「浜野!? おい、浜野?」
尚弥が後を追うように廊下へ向かう隣で、彩香は拗ねたように俯いた。
「…また恵梨ばっか、構ってる。もーいい! あやか、もー帰る!」
一体何処へ帰ると言うのか、もう突っ込みをいれる者も居ない。彩香は唇を噛み締め、自分の荷物を持って家のドアを開けた。

ごほっ、ごほっと便器の中に吐き戻し、恵梨は便器の蓋を閉じた。水道は使えない、というのが嫌だったが、気分の悪さは最高潮に達していた。最早、耐えられるものでは無かった。頭ががんがんと痛み、目には思わず涙が滲んでいる。恵梨はそっとお腹の辺りを撫でた。
「ごめんね…死ぬ時は、一緒だからね」
『結婚、しよっか』
彼は、そう言った。
この事を告げた時、別れを切り出されるかと思ったのに。
彼は、そう言ったんだ。

「…浜野? ほんと、大丈夫か?」
ドアの向こうから、尚弥の声が聞こえる。恵梨は溢れる涙を手の甲で拭い、ドアを開けた。
「ナオちゃん…」
恵梨はもう一度、下腹部の辺りをそっと撫でた。
「…いるの。あかちゃん」
尚弥の、驚愕したような表情が、涙に滲んでぼんやりと恵梨の瞳に映った。
「おっきー…ううん、和哉の。和哉の、あかちゃん」



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