■28

白い煙が揺れる。ゆるやかに輪を作ったそれは、間もなく吹いた風に流されて、消えた。

長谷川美歩(女子12番)
はぼんやりとそれを眺め、また煙草の紙巻きを唇にくわえた。地図上では、E=01に位置する断崖。高さは10メートル程だろうか、美歩にとってはかなり高く思えた。崖の上にはどういった目的なのか、3段の跳び箱程度の高さの、屋根付きの監視椅子があった。
その狭い空間への入り口には、土だか埃だかわからない汚れの付いたロープが張られていた。ロープに引っ掛けられた錆の付いた鉄板に「関係者以外立入禁止」と黒いペンキで書かれていたが、この際関係者だろうがなんだろうが構わない。美歩は監視椅子の階段に座り、下の広い海を見下ろした。
ゆらゆらと揺れる、水。この水の中に落ちたら、自分は死ぬのだろうか。
勿論、こんなところで煙草を吸っていればいつ死ぬかなんてわかったものではない。匂いに気付かれ、ここで殺されたとしても文句は言えない。それに、どうせあと二日程度で死んでしまうのだ。今死ぬとしても、それが自分の“死ぬべき時”なのだから仕方ない。半分投げやりな考えだったが、美歩はそう思う事にした。
死ぬべき、時――中学二年の頃、幾度となく刃物を手首に当てたり、マンションの屋上に立ったり、睡眠薬の瓶を握ったりしたが、結局死ぬ事はできなかった。いつもそうだった、左腕に当てたカッターナイフは引っ掻き傷をつくるだけだったし、あの屋上の縁からは飛び下りる事ができなかったし、睡眠薬は全部飲みきれなかった。
どうして、死ねなかった――否、死ななかったんだろう。よく解らなかった。美歩は未来に希望を抱いていた訳でも、生きる事に未練があった訳でも無い。生きる事の意味も自分の価値も見えない。生きる喜び、なんてものもよく解らない。――解んない解んない解んない。あー、もう!
美歩は苛立ちをぶつけるように、煙草の吸殻を崖下に向けて思い切り投げ捨てた。訳解んないよ、あたし。

風に乗って、その匂いは遠くまで届いていた。
「…煙草の匂いしたで、今」
突然立ち止まり、
穂積理紗(女子15番)は呟いた。D=02から、E=01に入る山道を理紗は歩いていた。
「煙草? こんな時に吸ってるヤツなんか、いんの?」
土屋雅弘(男子10番)も立ち止まり、辺りを見回した。しかし、人の気配はなかったし、煙草の匂いもしない。
「居るから匂うんやて。アホ」
理紗が少し声を抑えて言った。ゆるく風が吹き、理紗の金髪を揺らした。
「アホ、って…お前」
「こっちやな。行くで」
雅弘が文句を言いたげに口を開いたが、理紗は地図を眺めながら遮るように言った。
「行くって、ドコ?」
先に歩き出した理紗を追い、雅弘が言う。理紗はその言葉に振り返ると、くすっと笑った。
「アンタ、ほんまもんのアホやな。殺りに行くんや、こんな時に煙草ふかしとるヤツ」

二本目を吸いきった美歩は、手元の腕時計にちらりと目を落とした。もう5分程経つ。茶けた髪を掻きあげ、美歩は三本目をくわえて火を着けた。吸う度にちりちりと燃え、灰になっていく煙草は、少しずつ減っていく人生の残り時間のように見えた。
何となく落ち着かない気持ちになって、美歩がロープの向こう側――断崖の縁まで歩を進めた時だった。背後から微かに、がさっという音がしたのだ。美歩は振り返った。
その時になって、投げやりになっていた美歩の心に、怖い、というような感情が起きた。頭では半分どうでもいいと思っていても、煙草を持つ手が軽く震えている。人間の体というものはどうも、なかなか思った通りにならないようだ。美歩はまた、煙草を一口吸った。
やがて、汚れたロープの向こうに、微かに金色が覗いた。それは少しずつ、美歩の方へ近付いていった。
「…長谷川サンか?」
少し、関西訛りの残る声。どこでも目立つ、金髪。美歩にもすぐに判った。穂積理紗だ。
美歩の足が、じりっと後ろに退いた。無意識に動いたそれに、美歩の顔に自嘲的な笑みが広がる。――やっぱ、あたし怖いみたい。さっきまで別に死んでもいいって思ってたのに、矛盾してんじゃん。あはは。
「一服中、悪いんやけど」
理紗は腰の辺りから軍用ナイフを抜き出し、素早く美歩の元へ駆け寄った。
また、無意識に体が動いていた。理紗の振るナイフを右へ避け、理紗の右側へだっと駆け抜ける。かつてバスケの練習で、相手の横を掠めてボールを奪った時のように、ゆるく理紗の髪を掴んだ。
理紗の動きが、一瞬止まった。素早く美歩は、手に握ったままのライターを着け、理紗の髪の先に当てた。理紗が悲鳴を上げ、美歩は我に返る。すぐ背後の気配に振り返ると、そこには斧を振り上げている土屋雅弘が居た。
――なんで…?
考える暇は無かった。雅弘が美歩に向かって斧を振り下ろし、反射的に美歩は後ろに退いた。
その時だった。美歩が退いた足元、崖の地面がずるりと崩れたのだ。
――落ちる!
視界が、ぐらりと揺れる。一瞬だけ空が見えたが――すぐに、ゆらゆらと揺れる水が見えた。美歩の体は、消えるように崖の下へ落ちていった。

雅弘は一瞬、それを呆然と見ていたが、すぐに足元に座り込んでいる理紗の髪を手でぱんぱんと叩いた。火はそれで消えたが、さらっとした金髪の先は黒く焦げてしまっていた。
「穂積、大丈夫か?」
雅弘が理紗の髪を手に取ったまま言ったが、その手は理紗によってぱしっと払われた。
「触らんといて…お願い、髪は触らんといて」
顔を上げた理紗の瞳は少し潤み、体は小さく震えていた。
掛ける言葉が見つからなかった。雅弘は気の強い理紗が見せた、怯えた表情に、ただ驚いていた。
理紗は手の甲で目の辺りを拭り、ナイフをぎゅっと握り直した。そして、それで焦げた髪の先をばさっと切り捨てた。
「…ごめん、もー大丈夫。長谷川サンも多分死んだやろ、行こ」
理紗は立ち上がり、ナイフを鞘に戻した。ちらりと美歩のデイパックに目を落とし、それと自分のデイパックのストラップをまとめて持った。
「……穂積?」
髪に嫌な思い出でもあるのだろうか。雅弘は口を開きかけたが、言うのは止めた。触れられたくない事なのかもしれない。雅弘は斧を持ち直すと、黙って理紗の後ろに続いた。



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