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始まりは、あの一言だっただろうか。
「浜野さぁ、俺と付き合う気、ない?」
4月9日。三年に上がってすぐの、あの日。放課後の、体育館裏だった。
人気の全くないそこは、確かに告白の場所には最適だったと思う。しかし、
沖和哉(男子4番)のその軽い口調に、最初は冗談かと思ったのをよく覚えている。それに学年中の女生徒から人気の高い和哉が、自分のような特に目立つところもない人間を好きだなんて信じられなかった。しかし、とりあえず混乱気味な頭から記憶を引っ張り出した。
始業式の翌日に、
久米彩香(女子5番)が和哉を狙うと宣言していたのだ。始業式からまだ一週間も経っていなかったが、女子の間ではもう「仲良しグループ」というものができていた。自分は彩香と交流が多かったので(と言っても、横井理香子(女子18番)たち主流派のグループに入りそびれていた自分にくらいしか、話し掛ける事ができなかったのだろう。彩香は表立って嫌われていた訳では無かったが、陰ではある意味東城由里子(女子11番)を超えた外れ者だった)、ここで和哉と付き合って彩香と険悪になれば、面倒な事になりそうだ。

「ごめん、久米がおっきー狙いだから」
正直にそう言って、断わった。しかし和哉は、少し経ってまた口を開いたのだ。
「…じゃーさ、久米にもクラスのみんなにもバレないように付き合う気は、ない?」
そう言われて、自分はとても驚いた。そこまでして付き合いたいという事は、まさか本気なのだろうか。それとも、タチの悪い罰ゲームか。
しかし、学校の連中に内緒で付き合うというのも、面白そうな気がする。
「んー…じゃ、いいよ」
ほんの軽い気持ちだった。そんな事から、二人は始まった。

それからは、他の市にあるマンションの一室(和哉の親が管理しているマンションの空き部屋だった。和哉が幼い頃、両親が離婚して、離れて暮らす事になった父親と会う時の為に一部屋与えられたらしい。しかし、本来の目的で使ったのは小学校の頃までだったと聞いている)で逢う事が多くなった。最初は軽い気持ちで身体を重ねていたものの、心は少しずつ和哉に惹かれていくようになった。
そして、5月20日。幾度目かの夜だった。その日は、避妊をしなかった。それから一月経っても、生理が来なかった。ひとりで妊娠検査薬を買った。結果は、陽性だった。

「和哉は、悪くないの…最初誘ったのだってあたしだし、和哉は避妊とかもちゃんとしてくれたし…あの日も、あたしがしなくていいって、言ったんだよ。あたし…ほんと、バカだった」
武井尚弥(男子9番)は涙声で話す浜野恵梨(女子13番)をなだめ、ただ頷いた。
「わかった、わかったからもー泣くな」
正直なところ、かなり驚いていた。和哉が恵梨に思いを伝えていた事も、二人がそういう関係だった事も、自分は何一つ知らなかったのだ。
隠し続けていた和哉に対しても、複雑な気持ちがあった。恵梨が妊娠したとなれば、二人だけでどうにかできる問題ではない。産むとしても中絶するとしても、金や他にも色々な問題がある筈だ。そんな大切な事を、どうして自分に言ってくれなかったのか。
「あたし…やっぱ、和哉に逢いたい」
恵梨が静かに顔を上げた。瞳はまだ少し潤んでいたが、とにかく泣き止んだようだ。
「うん、俺も逢いたい」
尚弥は頷いた。和哉に対して、言いたい事が沢山あった。
それで、恵梨はそろそろと立ち上がった。目を拭い、多少ぎこちなかったが、恵梨は笑った。
「和哉…探そっか」
言って、廊下を歩き出した。その背中が少しふらついているのが、尚弥は気になったのだが、後に続いた。しかし、突然立ち止まった恵梨の言葉に、すぐさま目を見開く事になる。
「ナオちゃん、久米…久米、いないんだけど」
尚弥は急いで廊下を出た。そこは人気がなく、部屋の隅にまとめられた荷物からはデイパックが1つと、彩香の私物だったピンク色のショップバッグが、消えていた。



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