□33

水谷桃実(女子16番)はデイパックのストラップを肩に掛け直し、そっと口を開いた。
「幸太。これから、どーする?」
G=06に当たる、林道の中。とりあえず禁止エリアのF=07を抜け、行く当てもなく二人は歩いていた。
「んー…とりあえず、隠れるトコ探すか」
荒川幸太(男子1番)は地図とコンパスを交互に見ながら、答えた。ここから一番近い建物は、G=07に位置する医者の家のようだ。場所を説明しようと幸太は足を止め、振り返った。桃実は幾分落ち着いた感じで、幸太の後ろを歩いていた。――良かった。水谷、ちゃんとしてる…
幸太が心の中で安堵すると、桃実は幸太の視線に気付いたのか「どしたの?」と訊いて小首を傾げた。それはまあ、ごく自然な行為の筈だったのだが――幸太にとっては、そうでは無かった。地図を握る手が、止まっていた。
『――どしたの?』
同じように、小首を傾げて笑った少女。遠い日の記憶が、幸太の頭に思い返され、瞳に映る桃実と重なった。
「…ううん、何でもないよ」
幸太は見せる筈だった地図を折り畳み、少し俯いた。
――違う。水谷は、水谷じゃんか。じゃあ、今のは――今のは、何だ?
「幸太? ほんとに、どーしたの?」
桃実は少し心配そうに、俯いた幸太の顔を覗いた。少し近付いたそれに、幸太は思わず、顔を背けてしまう。
「何でもない…何でも、ないから」
足早に前へ歩き出した幸太に、桃実も尋ねるのを止めて後ろに続いた。幸太は何故だか高鳴る胸を抑え、その苦しさに思わず溜め息を吐いた。
違う――違う、筈だった。目の前に居るのは水谷桃実という人間で、彼女とは違う。
だが、確かに重なったのだ。幸太の瞳に映る桃実は、確かに
鬼頭幸乃(女子4番)と重なって見えた。
しかし突然、がさがさっという音が響き渡り、幸太の混乱した心を現実に引き戻した。
「…幸太、今の、音………」
桃実は緊張した面持ちで、前を歩く幸太に歩み寄った。
「静かに」
口元に指を当てて、幸太が囁くように言う。小さく、その声は幸太の耳に届いた。少し高めの、女の声だった。幸太は桃実に目配せをして、その場をひとりで離れた。そっと木の陰に隠れ、声のする方向を見た。
瞬間、茂みの間を、人陰がすっと走り抜けていくのが見えた。それが
沖和哉(男子4番)だと認識するには、数秒かかったが――彼の半袖シャツの左側、袖の辺りが真っ赤に染まっているのは、一目で判った。
続いて、和哉が走った茂みの間を縫うように、
植野奈月(女子2番)が走り抜けていった(こちらは誰だか、一目で判った。あの目立つ赤い髪は、間違い無く植野奈月のものだ)。

幸太は思わず、木の陰から飛び出していた。桃実が何か叫ぶのが聞こえたが、構ってはいられない。クラスメートが、友達が、血を流して追い掛けられているのだ。
「植野! おい!」
数秒程で、奈月には追い付く事ができた。身長こそ低いものの、これでもバスケ部エースの
土屋雅弘(男子10番)の相棒を努めているのだ。
「待てよ! オマエ、何してんだよ!」
幸太はズボンのベルトに差した、支給武器のカマを抜き出した。強く抜いた所為でシャツの裾が少し裂けたが、全く構わなかった。無我夢中で、それを奈月に向けて投げた。ゆるやかにカーブを描いたその刃物は回転しながら奈月の方へ飛び、奈月の首の、丁度右の辺りに生えた木の幹に、とっ、と音を立てて食い込んだ。
「こーたぁ?」
奈月は間の抜けた声を出して、すっと幸太を見据えた。自分の首のすぐ横に刃物がある事など、全く頓着していない様子だった。
ふいに、幸太は隣に人の気配を感じた。驚いて振り返ると、桃実が今にも泣き出しそうな顔をして、そこに立っていた。
「水谷、危ない! 下がってろ!」
思わず、叫んでしまった。桃実は荒い声にびくっと肩を震わせたが、すぐに唇を噛み締め、幸太のシャツの裾をきゅっと握った。
「何すんのー? こんなのオンナノコに投げちゃって、危ないじゃん」
相変わらず、全く軽い口調だった。奈月は木の幹からカマを抜き、それを幸太に向かって投げた。
「返すよっ★」
カマは先程と全く同じように、しかし方向は全く逆に、幸太の元へ真っ直ぐに飛んだ。幸太は目を見開いた。瞬間、体を横に突き飛ばされ――

「……み、ず…たに?」
幸太は身を起こし、隣を見た。桃実は小さく震え、くりっとした愛らしい瞳から涙を零していた。
何が――何が、起きた?
桃実の体が、へたっとその場に崩れ落ちた。そして――それが、幸太にもやっと見えた。桃実の右側、耳の少し上から結った二つ結びの、いつもはくるっと跳ねている筈の毛先が、無造作に切り落とされたように不揃いになっていた。そして、右耳の耳朶の、軟骨の少し下の辺りが裂け、そこから真っ赤な血が滴り落ちていた。
もう少し、あと10センチでもカマの方向がずれていたなら、桃実の首は飛んでいたかもしれない。そう思うと、幸太の体にも小さく震えが起きた。
「…幸太」
桃実は震える唇をそっと開き、声を絞り出した。
「おねがい…だから、勝手に……どっか、行っちゃったり…しないで。もう、ひとり………やだ」
そこまで言うと、桃実は小さな肩を震わせて泣き出した。幸太の胸に、後悔のような、自己嫌悪のような、複雑な感情が込み上げた。それは鬼頭幸乃の死体を見た時よりも、何よりも強い感情だった。
堪らなくなって、幸太は桃実の体をきゅっと抱いた。桃実の涙が触れたのか、胸の辺りが濡れていたが、構わなかった。桃実の耳朶から、幸太の腕に赤い血が落ちた。
「水谷、ごめん……ごめんな」
切れてしまった桃実の髪の毛先を撫でながら、幸太は謝り続けた。
幸乃を救えなかった事で、ずっと感じていた負い目。
――もう、見殺しにしたくない。俺が、守る。



残り26人

+Back+ +Home+ +Next+