■36

安池文彦(男子18番)は突然思い切ったように立ち上がり、机に置かれた文彦の支給武器のトカレフTT−33を取った。
「王子サン?」
それに気付き、
大野達貴(男子3番)は顔を上げた。文彦は構わず、入り口の前に積んだロッカーと本棚のバリケードを静かに動かした。
「俺、行かなきゃ」
文彦が、ぽつりと呟いた。ロッカーが動き、木製の重たい感じのする扉が半分ほど見えた。
「待てよ、何だってんだよ」
達貴はその妙な感じに眉を寄せ、椅子から立った。しかし文彦は無言で、本棚を押した。扉が、今度はほとんど全部、その姿を現した。
「…おっきーが、撃たれた。植野がやった。危ないんだ」
その言葉に達貴は驚愕して、まだ赤みの残る目を見張った。
「大野、悪い。なるべく早く、戻ってくるから」
言い残すと、文彦は扉の、その部分だけ鉄製になった鍵をそっと捻り、扉を開けた。
「おい! オマエだって、外行けば危ないんだよっ!」
達貴の言葉が、開け放されたドアから響いた。

――頼む、間に合ってくれよ…
文彦は祈りながら、血痕の残る道を走ってゆく。体力にはあまり自信が無かった。バスケ部で活躍している
土屋雅弘(男子10番)荒川幸太(男子1番)に比べれば、それほど優れてもいないだろう。文彦もレギュラーにこそなれたが、雅弘ほど華やかなプレイができる訳でも、幸太ほど身長面をカバーしたジャンプ力がある訳でもなかった。
客観的に見れば、文彦にもその高い身長を活かしたシュートはあったし、バスケ部の中でも優秀な選手だったのだが、文彦自身はどうにも雅弘や幸太と自分を比較してしまっていたのだ。
そのコンプレックスは文彦本来の冷静さと、感情を上手くコントロールできる力によって決して表に出る事は無く、心の奥底に仕舞い込んでいたのだが、無意識のうちに、煙草を吸うという体力をすり減らすような行為として表されていたのかもしれない。

「恵梨…だいじょぶ、か?」
沖和哉(男子4番)は脇腹の痛みを堪え、ペダルを漕ぎ続けていた。血が止めどなく流れ、地面に零れてゆく。これでは足跡を残しているようなものだ。また植野奈月(女子2番)に追いかけられるかもしれなかったのだが、もうそんな事に構っていられる余裕は無かった。
和哉の背中にぐったりと寄り掛かっている
浜野恵梨(女子13番)はゆるく瞳を閉じたまま、「ん…」と応えた。撃たれた傷は無茶苦茶に痛み、何より気持ち悪かった。何も口にしていない筈なのに、吐き戻しそうだった。
しかし、最悪な状態になっている身体とは裏腹に、恵梨は不思議と幸せだった。和哉の背中に寄り掛かって、恵梨は幸せだった日々の事を、思い出していた。――チャリ、二人乗りして、行ったよね。屋台の、たこ焼き屋さん。
ふいに意識が遠退きそうになって、恵梨ははっと目を開いた。――まだ、死んじゃダメ。まだ、和哉に言いたいこと、いっぱい残ってる。
「…和哉」
恵梨はそっと、唇を開いた。
「どした?」
和哉は背中を向けたまま、応えた。自転車はもう少しで、続いていた林を抜ける事ができそうだった。
「あたし、ね…今まで、ずっ…と、なんとなく、生きてきたんだ」
言うと、喉の辺りに熱いものが込み上げた。それが嗚咽なのか血なのか、恵梨にも判らなかった。
「彩香…も、亜貴も…なんとなく、友達…に、なっただけだし」
そこで、恵梨は少し咳き込んだ。赤いものが、短いスカートから出た膝に降り掛かった。
「…だから、和哉…とも、なんとなく、付き合ったし」
和哉はそっと、頷いた。
「なんとなく…キスしたのも、エッチ、したのも…そう、だったし」
恵梨はもう一度、咳き込んだ。腹部に痛みが走ったが、続けた。
「でも…あの日は、ほんとに…なんとなく、じゃなくて…」
少し息を吸い、一気に言った。
「和哉が、好きだから、そうしたいって思ったの」
恵梨の手が、和哉の背中のシャツをそっと握った。
「身勝手、で…ごめんね」
和哉はペダルを漕いだまま、頷いた。
「わかってる」

目の前に続く林から、少しずつ光が漏れていた。それは、水面に映った月明かりなのかもしれないし、二人を迎える三途の川の、水面なのかもしれない。
「和哉…」
恵梨が小さく、シャツを握る手に力を込めた。
「だいすき、だよ」

自転車は林を抜け、浜辺に出た。コンクリートで作られた坂を下ると、潮の香りと風が、和哉の茶髪を揺らす。近くには建物が見えた。その、木造の小さな小屋のような建物の近くで、ふいに自転車は止まった。
恵梨の手が和哉のシャツをするっと離し、恵梨の体は荷台から落ちる。タイヤは砂に埋もれ、和哉がハンドルから手を離すと、恵梨の体とは反対の方向に、横倒しになった。
和哉はその場に崩れるように、膝を着いた。右手で体を支え、恵梨の顔を覗き込んだ。

「恵梨…」
恵梨の閉じた瞳から頬に、一筋の涙の跡が残っていた。その上に、新しい涙が、静かに落ちた。穏やかな、表情だった。和哉は目を閉じて、そっと、恵梨の唇に自分のそれを、重ねた。
和哉は唇を離し、恵梨の隣に横になった。少し咳き込むように血を吐き、それから、小さく言った。
「愛してる」
それが、沖和哉の最期の言葉となった。



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