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ぱちん、かちっ。ぱちん、かちっ。ぱちん、かちっ。ぱちん、かちっ。
気味が悪いほど規則的に、そして無機質に響くその音で、
久米彩香(女子5番)は目を覚ました。
頬に当たる、冷たいコンクリートの感触。そして、開いた黒めがちな瞳に突然映った蛾の死骸に、彩香は思わず声を上げる。
「きゃぁぁぁっ!」
身を起こそうと腕に力を込めたが、動かない。彩香が瞳を動かして確認すると、どういう訳か両腕が後ろ手にしっかりと縛られていた。慌てて今度は足を動かそうともがいたが、足の方にも圧迫感を感じる。また瞳を動かして足元に視線を向けると、ルーズソックスとスニーカーの間に、ワインカラーのリボン(見覚えがあった。制服の襟に着ける、学校指定のリボンだった)がちらりと見えた。

「うるさい。幸乃はあんたんトコの森下に、ゴキブリの死骸投げ付けられてたんだからね」
少し高めの、透き通った声が彩香の耳に届いた。しかしそれは普段のような愛想の良い、暖かく響く声ではなく、冷めきった声だった。
ぱちん、かちっ。ぱちん、かちっ。また、無機質な音が響く。それが近付くのとほぼ同時に、彩香の目の前にあった蛾の死骸が、かさっと小さく音を立てて潰れた――否、正確には踏み潰されたのだ。彩香を冷たく見下ろしている、
遠藤茉莉子(女子3番)のスニーカーに。
「…ま、まりちぃ?」
黒のストレートだが、重たい感じのない肩までのシャギーヘア。手入れはきちんとしてあるが細すぎない眉、二重の大きな瞳に自然にカールした長い睫毛。筋のすっと通った高い鼻、形のいい桜色の唇。その美しい少女は間違いなく遠藤茉莉子の筈なのだが、どこか違う。
――まりちぃ…? だって、いつものまりちぃはもっと愛想良くてニコニコしてるのに…
「お目覚めですか、久米ちゃん? どう、これからぶっ殺される気分は」
恐ろしく無表情なままで、茉莉子は手に持った折り畳みナイフの刃を開いては閉じ、開いては閉じていた。その度に、規則的にぱちん、かちっ、ぱちん、かちっと無機質な音が響いている。彩香はそのナイフの刃、暗い中でも薄く見える不気味な光に背筋を冷たいものが駆け巡るのを感じ、逃れようと無駄ながらにまたもがいた。
瞬間、彩香の背中に茉莉子の足が叩き付けられる。彩香は突然の衝撃に咳き込み、茉莉子を睨み付けながら呟いた。
「ぶっ殺す、って…アタマおかしーんじゃない?」
茉莉子はその二重の大きな瞳で彩香を睨み返し、少し遠くに置いた水のペットボトルを取った。黙々とキャップを開き、そのペットボトルを片手にまた彩香の前に立つ。
「な…によぉ。何のつもり――」
不可解そうな顔で言った彩香の言葉を遮り、茉莉子は口を開いた。
「『ねぇ、喉乾いてない?』」
その言葉と共に、茉莉子はペットボトルを彩香の頭上で傾ける。冷たい水が、彩香の髪と顔を濡らした。
「きゃああっ! やっ、冷た…っ、何すんだよぅ!」
彩香の悲鳴を無視して、茉莉子はペットボトルを動かした。水は彩香の細い体に容赦なく叩き付けられ、肩や背中、腰から足のルーズソックスまでびしょ濡れになる。ようやくペットボトルが空になると、茉莉子はそれを適当に投げ捨てた。
「自業自得、でしょ?」
言って自分を見下ろす茉莉子を、彩香はマスカラとアイライナーが落ちた黒い液体の滲む目で睨み付ける。その顔を見た茉莉子が、また馬鹿にしたように笑い声を出した。
「ざけんじゃねーよぅ! 最悪、ちょー目痛い! カゼひーたらどーしてくれんの!?」
「別にざけてません。目が痛いのは化粧が濃すぎるあんたが悪いだけ」
無表情のまま茉莉子は言い、それから少し空を眺めてまた口を開く。
「…風邪は、今から死ぬ人間が心配する事じゃないよね。それに幸乃なんて、肺炎になったんだから。覚えてない? 12月の寒い日に、公園であんたたちにジュースぶっかけられて」
茉莉子を睨んだままの彩香の目が、一瞬だけはっと見開かれる。
12月の、あの日――? なんで、なんでまりちぃが…知ってるの?
しかし、次の瞬間にはすぐにその目を伏せ、彩香は吐き捨てるように言った。
「知らなーい。何それ、どこの誰の話?」
突然、右の脹脛に鋭い痛みが走る。見ると、脹脛の上辺りが茉莉子の折り畳みナイフに切り付けられ、ルーズソックスが赤く染まっていた。
「とぼけないで。12月8日、幸乃の誕生日――あたし、見てたんだから」



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