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ぼんやりと、景色が見えた。窓から薄く夕日の赤い光だけが差し込む、放課後の美術準備室。出入口の窓の無い扉の前に、あたし――
長谷川美歩(女子12番)は座り込んでいる。中学一年の頃の、忌々しいけど別にどーでもいい、記憶。
何、コレ? 夢っすか? オッケ、夢ね。はいはい解りました、どーでもいいからさっさと終わって。どーでもいい筈の、記憶だから。

「あのー、そろそろ出して欲しーんすけど」
美歩は外から鍵の掛けられた鉄製の扉を軽く拳で叩き、言った。
準備室の片隅、壁掛け時計の針は6時30分を示している。美歩がここに閉じ込められてから、もう15分近く経っていた。いい加減帰らせて欲しい。何が楽しくて自分なんかをこんな所に閉じ込めたのか、外のアホどもの考える事が美歩には全く理解できなかった。
「だからさっきも言っただろー?『あっ、あぁん、あーんっ、そこいいのぉ、ミホかんじちゃうぅん』って言ったら出してやるからさ、AV女優のハセミホちゃーん?」
扉の向こうから、下品な笑いの混じった声が聞こえる。一年の頃同じクラスだった
藤川猛(男子13番)他、数名のゲス野郎どもの声(ハセミホって何よ、勝手に略すなっつーに)。忌々しい事に、猛と美歩は三年になった今もクラスが一緒だった(三年の始業式、クラス発表の貼り紙の前であたしは5分間絶望のあまり立ち尽くしてたね)。まあ、今となっては猛は美歩にこんな真似をする事も無くなっていたのだが。

扉の前に座っている13歳の美歩は、今より少し髪が長く、前髪もゆるく斜め分けにしていた。
しかし、相変わらずその頃から周りからは少し浮いていた気がする。中学に入学したばかりで友達も少なかったし、一人で行動する事も多かった。だから多分、猛は自分に目を付けたのだろうと美歩は思っていた。猛は一人で居る事が多く、味方の少なそうな人間を標的にする事が多かったのだ。加えて「長谷川って色っぽいカオしてるよな」という猛の仲間の一人の声で、美歩は“AV女優”という最悪の愛称と共に標的に決定されてしまったのだ。
そして、これが記念すべき第一回目の儀式――単純に、放課後の準備室に閉じ込める程度のものだったが(どーでもいいけどありがちだよね)――である。まあ、喜ばしい事に儀式は第一回目で終わりを告げたのだが。
顔は生まれつきだし、整形でもしなきゃ変えられるもんじゃないんだから勘弁してよ、と美歩は心の中で呟く。――そりゃ、あたしだってこのぽっちゃり唇をカッターで切り落としてやりたいって何度も思った事あるよ?
何か適当に言い返す言葉を探したが、何を言っても猛には通じる訳がない。美歩は肩をすくめて、お望み通りの台詞をとりあえず口にする。
「あ。ああん。あーん。そこいいのー。ミホかんじちゃうーん。」
乾いた色気の欠片も無い美歩の声が、美術準備室に響く。まるきりやる気の無い新人AV女優みたいだわ、と美歩自身も思った。――だけど、別にどーでもいい。もう、この史上最低のゲス野郎の相手をするくらいだったら美術準備室で御一泊するハメになった方がまだマシだ。どーでもいいから、早くあたしの前から消えて。できれば永久に。
数秒遅れて、猛の罵声が扉の向こうから飛ぶ。
「長谷川、テメー! あんまナメた真似こいてっとそのエッチっぽいツラにザーメンぶっかけんぞ!!」
その、あまりにもあまりな言葉。怒りで理性が飛び、美歩は相手にしない予定だったというのに準備室の鉄製のドアに思いきり拳を叩き付けた。がぁん、と音が響いて、一瞬その場の空気が凍る。
汚い言葉は使う主義じゃないけど、侮辱には侮辱を返すしかない。
「そこのチンカス野郎サン、とっとと失せれば?」
怒りと共に美歩が吐き捨てると、ドアの向こうから「マジキレてるって、やべーよ」と小さく声が聞こえる。
早く。早く消えて。一秒でも早く、消えて。

しばらくして、外の連中の気配は消えた。美歩は鍵をこじ開ける事も叩き壊す事も試みずに、準備室のドアに寄り掛かって少しずつ闇に溶けていく窓の外の景色を眺めていた。
――どーでもいい、筈だ。あんな奴に汚い言葉を浴びせられたくらいで傷付くなんてバカみたいじゃん。中学校って結構残酷なトコだ、こんな事にいちいち心を捕われたりしてたらきりがない。こんな雑音には耳を塞げばいい。それでもうるさかったら適当に追い払えばいい。事実、この日以来あたしは藤川の標的リストから外されたんだし、これで良かったじゃない。こんな事、記憶にも留めずに軽く流しちゃえばいい。
いつまでそうしていたのか、気が付いた時には壁の時計は7時を過ぎていた。
マジに美術準備室で御一泊ですか? 人生、何があるかわかんないもんだね。美歩は肩をすくめて、寝床になりそうな場所を探す。幸い、片隅に何故か置いてあった茶色い皮張りのソファはどうにか使い物になりそうだった。溜め息混じりに美歩がソファに被った埃を雑な手付きで払い落としていると、突然に神の救いが舞い降りた。

準備室のドアから、突然かちゃかちゃと鍵を開ける音がしていた。――助かった。守衛かなんかが来たんだか藤川が舞い戻って来たんだか知んないけど、とにかく助かった!
ドアが開くと、そこには制服の学ランを来た背の高い男が立っていた。美術教師にでも頼まれたのか、真新しい幾つものキャンバスをひょいと片手に抱えている。今はオトコなんて見たくもない気分だけど、アナタが神の遣いですか。有り難い。
「…何、してんの」
男はソファの埃を払っている美歩の姿を見るなり、怪訝そうに眉をひそめた。少し細めの眉、形はごくごく普通なのにどことなく大人びた眼差し、薄い唇に細い顎のライン。どこかで見た顔だ、と直感的に美歩は思った。
「あー、気にしないで。ひとりで美術準備室御一泊ツアーしそーになってただけだから」
美歩は彼の言葉を適当に流しながら、どこでその顔を見たのか記憶を辿る。――そんなに遠くない、ごく最近の記憶だ。教室? 違う、同じクラスにこんなオトコは居ない。廊下ですれ違っただけのヤツが記憶に残る筈もないし……
男は美歩の言葉に少し苦笑して、そちらに歩み寄ってきた。画材の散らばったテーブルにキャンバスの山を置き、彼は美歩に向き直る。
「変わってんなー。美術準備室御一泊ツアー、止めるんだったら今出とけよ」
うん、出とく。美歩は一言応え、ふいに彼の学ランの胸ポケットに付いた名札のプレートに視線を向ける。
少し珍しいその苗字に、美歩は彼を何処で見たのか思い出した。

『ねーねー、ミホ。あのヒトかっこよくない? 本当に一年かなー』
体育館の、片隅。壁に寄り掛かってお喋りをしていた時、数少ない友達のイズミが(友達少ないって事は認めますよ)彼の方に視線を向けながら自分に言ったのを覚えている。――確か、あたしたちは女子バスケ部の体験入部に参加してて――そうだ、先週男子バスケ部の体験入部に参加してた。大人っぽい顔立ちに、長身。一瞬、二年か三年だと思った。
体験入部が終わった後、イズミが嬉しそうに言ったんだっけ。
『さっきのヒトの名前、教えてもらっちゃったよー。5組のねー…』
その続きとプレートに彫られた苗字は、見事に一致していた。
『――安池くん、っていうんだって』


ふいに、美歩は自分の体がふわりと宙に浮くのを感じた。
一瞬だけ浮いた体は、見事に膝裏の辺りに引っ掛けられた彼の手に着地する。――何? あれ? 夢…あれ? 訳が解らなくなり、美歩はようやく覚めたばかりの目をしばたたかせる。体がやたらと重く、頭部に熱を感じた。ほんの僅か、不快じゃない程度に男物の香水の爽やかな香りがする。
「あ、起きた?」
美歩の異変に気が付いたのか、彼がそのまま小さく後ろを振り返る。視界に入った彼の横顔に、美歩はもう一度目をしばたたかせた。今度は、驚きで。
あの、どこか大人びた眼差しがちらりとこちらを向く。細い顎のラインが、彼の肩越しに見えた。
「――や…安池ぇ!?」
自分を背負う
安池文彦(男子18番)の姿を認め、美歩はごく稀にしか聞く事が出来ないであろう素っ頓狂な声を上げた。



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